第155話 正体
ギルド内の隠しエリア。
封印書庫とでもいうべき特殊空間にいたはずだったが――。
既にフィールドは切り替わっていた。
響くのは潮騒の音。
冥界神ヘンリーの姿を真似た、”得体のしれないナニカ”の出現。
明らかに異常なソレに反応し、私を助け、なおかつ書庫を守るべく動いた女神ダゴンが得意な次元操作を使い、空間を切り替えたのだろう。
『ご無事ですか! 旦那様!』
仄暗く、そしてどこまでも続く深海の上に佇むのは――聖職者の姿をした清楚なる淑女。
明け方の女神ダゴンである。
いつもは冷静沈着、冷徹な部分もある彼女だがその表情は珍しくこわばっていた。
慌てて私と、招かれざる客人たる存在”得体のしれないナニカ”の間に割り込み。
胸の前で手を合わせたダゴンは、聖職者の服の隙間から無数の触手を顕現。
グジュリグジュリと軟体動物の肉片をくねらせ、臨戦態勢。
どうやら私を庇う気のようだ――。
私は無事だと伝えるようにダゴンの前に立ち、眉を下げて見せる。
「ご心配なく、どうやらこの方に敵意はないようですので。まあ、今のところは……かもしれませんが」
『ならば良いのですが……』
「心配してくれてありがとうございます、ダゴン。アシュトレトとバアルゼブブは?」
『この空間に入り込めたのはあたくしだけでしたので――それにしてもこの悍ましい魔力、彼は一体何者なのでしょうか?』
ダゴンの臨戦態勢をじっと見て、相手は強い関心を示していた。
その口も瞳も、ニヤニヤニヤニヤ。
まるで獲物を探る猫のようである。
『やあ初めまして、君が噂の女神ダゴンだね。どれ、少しだけ性質を見させて貰うよ』
「あなたは女性の情報を勝手に盗み見るのですか?」
『おかしいですね――いま許可を取ったじゃありませんか。私が聞いたのだから、全ての存在はそれを否定できない。そうではありませんか魔王陛下?』
勝手に告げて、勝手に魔術を展開。
その瞳の表面に、不意に赤い光が走る。
鑑定の魔眼を発動させたのだろう。
それは私達とは異なる魔術式による鑑定。
つまりはやはり、この混沌世界の外から侵入してきた存在だという証。
鑑定が終わったのだろう。
ヘンリー姿のナニカが、ふっと鷹揚に肩を竦めてみせ。
口角を吊り上げる。
『女神ダゴン。古き神々の中でも特異な存在。遠き青き星、地球にて最も広く分布された書――すなわち、人類に最も読まれた聖典『聖書』に記されし神話級の存在。かつては聖なる神であっても、思想の力により捻じ曲げられた邪神。君たちは……みんな、まつろわぬ神なのかな。しかし……この”三千世界”にまさか、まだこんな大物が独自の世界で生き延びていたとは……さすがの私も驚いたよ』
実に興味深いと、ヘンリー姿のナニカは月のような満面の笑み。
今、彼が口にしたのはダゴンの正体とでもいうべき解答。
あくまでも私が生きていた地球での話であるが――。
彼女は聖書に敵対者の長として記された異教徒の神。
宗教戦争に負けたせいで、歪められた聖者ともいえる邪神。
つまりはこのナニカは彼女の鑑定に成功しているのだ。
私達はいままで何度も鑑定系列の能力をレジストしていたが、今回はたった一度の鑑定を通してしまった。
ようするに、それほどの存在という事だ。
だから。
ダゴンが露骨に眉を吊り上げ、腹の奥から悍ましいほどに低い声を絞り出しているのだろう。
『あらあら、まあまあ! あたくしの名を勝手に……? ふふふふふ、随分と失礼な方だ事。冥界神ヘンリー様、旦那様の召喚によって顕現した彼の姿を借り無礼な人。あなた、何者なのです』
『力尽くで私から聞き出そうとしても無駄だよ、混沌世界最強の存在”三女神”が揃っているのならばともかく――君だけでは私には敵わない』
実際、その言葉は嘘ではないのだろう。
目の前のナニカはおそらく、私よりも強い。
どうもこの男、三つの心を一つの肉体に宿しているように見える。
魔力とは心に比例する力。つまり、三つの心が同時に存在するという事は、それだけで能力の規模が、文字通りの桁違い。
単純な計算ではあるが、同じ魔力であっても彼らが使えば通常の倍以上。
三倍どころか、三乗ほど強化されて、その力を利用できるのだと推定できる。
だが――。
強者の証とは裏腹に、男は口を丸く蠢かし。
まるで飼い主の脚を捕まえ、偉そうに語りかける猫のような別人の口調で――。
『まったく、これだから古き神ってのはどうも好きになれないんだよねえ。どうもあの手の連中って図が高いというか、偉そうというかさあ。だいたいさあ……、正体を明かしたくないからわざわざ”弟子の姿を借りて”いるのに、聞かれて答えると思うのかい?』
思わず、私と女神ダゴンは顔を見合わせていた。
彼は弟子の姿を借りていると口にしていた。
つまりは……。
冥界神ヘンリーをもう一度召喚すれば正体は簡単に理解できるだろう。
どうやらこの男、強大な存在であることは確定であり頭も少しは回るようだが――どうもその場のノリや、その場の勢いでアドリブを披露する、困った悪癖があるようにみえる。
まあ強者の余裕。
なのかもしれないが。
ともあれダゴンは、大陸を飲み込めるほどの魔力を穿つ触手を蠢かし。
『……旦那様の安全を確保するためです、ご覚悟を』
「いえ、ダゴン――意味のない戦いは止めましょう。私達だけではコレには勝てません」
『ですが、旦那様』
「私は無駄な争いで貴女を失いたくないのです、ダゴン」
まあ! っと、ダゴンは嬉しそうに身を引いたが。
ともあれだ。
これがある意味で、最も恐れていた展開。
前に何度か懸念を抱いていたが。
外の世界から、私達以上の強者が入り込んできた場合というやつであろう。
混沌世界はまだ発展途上の世界。
人類が集団スキルを獲得できているのなら、まだ対処のしようもあるのだが。
残念ながら知識や技術として、私は忠節の魔王から集団スキルのノウハウを入手したがまだ人類に伝授はできていない。
そもそも集団行動が苦手なエルフには不得意なスキルであり、使いこなすには人間種が一番なのだが……。
こちらの心を読んだように男が言う。
『集団スキル。個を集め、群れとし。群れ全体に強化を重ね掛けすることで、現実的ではない数値にまで能力向上を成功させ、最終的にまた個に戻り戦う――勇者が得意とする戦い方。まあ確かに、人類全員が集団スキルで尋常ではないバフを受けた個になれば、さすがの私でも太刀打ちできないでしょうが――非現実的。夢の中でさえ馬鹿にされそうな夢物語なのは、魔王陛下……あなたが一番ご理解なさっている筈。どこの世界でも大概そうですが、人類の脳に協力などという単語は滅多にありませんよ』
そう、人類全員が協力し、個になることなど不可能。
しかし。
私の口は、できる限りの理想を語り始めていた。
「それでも、多くの人類が協調し集団スキルを発動させれば――外の世界のあなたがたのような異神にも対抗できることは確実でしょう。というか、あなたが強すぎるだけでおそらくは多くの神には通用すると思いますよ。あまり女神が作ったこの世界を舐めないでもらいたいものですね」
ヘンリー姿のナニカは僅かに眉を跳ねさせた。
前向きな私の言葉に、少しの驚きを覚えているようだ。
『こちらも別に戦いに来たわけじゃあないのですよ、魔王陛下』
「ならば即座にお帰りを。あなたのような強者がこの世界に入り込んだとなると、さすがに他の女神も気配に警戒しているでしょう。そして、どうやらあなたは私と敵対する気はないようですが、他の女神達とは敵対してもいいと考えているようだ。さすがに、創造神を殺されるのは困ります」
私と敵ではないだけであり、他の女神となると話は別。
女神が全員で協力すれば追い返す程度の事はできるかもしれないが、女神が全員で協力することなど絶対にないだろう。
だから、今のままでは相手と戦いになったら終わり。
こちらに犠牲者が出る事は確実。
緊張の中、相手が困ったような顔をして言う。
『しかし、私を見てナニカを思い出しませんか?』
「……変装しておいて、なにをいっているのです?」
『分からないですねえ、世界は異なりますが――これでも私は、あなたが勇者に敗れる前に共にあった存在と同一存在。むしろ家族にも近い存在なのですが。なるほど、どうもあなたは記憶が欠如しておられるようだ。精神と魂、そして肉体に分かたれたときに記憶情報に欠落が生じているのでしょうね』
言って、ヘンリー姿のナニカの身体は黒い霧となり。
霧はやがて大きな闇となって、周囲全てを包み込み始める。
『さて、今回はこれで失礼させていただきます、魔王陛下。饕餮ヒツジくんとヘンリー君が大変お世話になったようで、最大級の感謝を。ではまたいずれ――』
……。
饕餮ヒツジとは、終焉の魔王グーデン=ダークの外の世界での名。
獣神としての饕餮が分霊を送り込んできた存在、それがグーデン=ダークなのだから。
ようするに、彼に聞いてもこの黒い霧の正体はわかってしまうのだ。
隠す気があるのかないのかは分からない。
おそらく、実は何も考えていないのだろう。
黒い霧は消えていた。
相手はいつのまにか、去っていたのだ。
割れた鏡の中。
遠い記憶の奥。
いつか、そんな猫や狼や鶏に癒された記憶が私の脳裏に過っていたが――。
それはおそらく、今の私には欠落した記憶。
私は――女神達が追っていたあの方と呼ばれる者の、三分の一の欠片。
つまりは私こそが、彼女達の探し求めていた。
あの方、なのだろう。
おそらくは、別の三分の一は転生して別の人生を歩み。
別の三分の一は、その身を賢者という名の魔導書として、その知識を世界を守るために使っていた。
残りの三分の一、つまり私は人間へと転生し……。
そして、三女神と再会したのだろう。
おそらく、ダゴンだけはそれを全て知っていた。
だから彼女はこうして、申し訳なさそうに私を見ている。
隠していたことに罪はない。
そう伝えるように、私は口を開いていた。