第12話 アントロワイズ
女神が消えたが、まだ様子をこっそりと眺めている部屋。
インクの香りと背表紙の糊の香りが漂う部屋。
やってきたのは金髪碧眼の貴公子。
私のパトロンともいえる権力者、この国の第一王子、マルダー=フォン=カルバニアだった。
殿下は妙に焦っていた。
それはまるで保護者。突然いなくなってしまった弟を探す兄といった表情……あるいは、行方不明になってしまった息子を探す、父親。
ともあれ殿下は私を見つけると安堵した様子で、強く、私を抱き寄せていた。
「ああ、探していたよレイド」
この一月。
私はもう何度も殿下の話を聞いていた。
友人の事、国の事、政治の事。
そしてその都度、殿下が望む答えだけを選び続け答えてやった。
厳しい意見が欲しい時も。
優しい意見が欲しい時も。
ただ話を聞いて欲しいだけの時も。
ただそれだけの事をしただけで、これである。
まるでヤングケアラーにでもなった気分であったが、容易く男は依存した。
「殿下、護衛もつけずにこのようなところへ……どうなさったのですか」
「そんな冷たいことを言わないでおくれ、レイド、君が虐められているんじゃないかと不安になったんだよ」
「殿下の口添えで入学した私に、そのようなことをする勇気のある人間はおりませんよ」
「だが、一人も友達がいないというじゃないか」
「それは私が学業を優先し、こうして本の虫となっているからでしょう。他の者は十二歳になった時点で入学しておりますが、私は途中から――どうしても差が出てしまいますからね」
負けず嫌いで申し訳ないと、私はにこりと落ち着いた笑み。
殿下の好みは自分より弱く、それでいて落ち着いた性格の年下。ようするに弟だ。
虐められているわけではないと気付き安心したのか。
大きく筋張った大人の手を私から離して、殿下が言う。
「そうだな。ならばいっそ、王宮に暮らしの拠点を移してはどうだろうか」
「王宮にですか?」
「ああ、嫌かい?」
「純粋にこの学び舎から離れておりますし、それになにより、アナスターシャ様は貴族主義……金髪碧眼ではないものへ厳しいお方と聞いております。正直、少し怖い……というのが本音ではあります」
これも殿下の心を読んだ上での言葉である。
自分よりも遥かに権力があり、そして我が強い母への恐怖が、マルダー=フォン=カルバニアのコンプレックスとなっているのは明白。
そこを擽るには、同じく、怖いと言ってしまうのが容易い。
実際、殿下は唇をぎゅっと結んで、ああそうだろうとばかりに青い瞳を動かしていた。
「そうだな、無理を言って済まない」
「いえ、いつも気遣って下さり感謝しております。どうか騒動になる前にお戻りください、護衛をつけずに行動されるのは危険ですので、おそらくは従者から厳しいお叱りを受けるでしょうね」
「そうであったな……君にまで迷惑をかけてしまうところだった」
ここで私は殿下が望まない答えを敢えて選択していた。
「いいえ、殿下のためでしたらどのような事でも迷惑とは感じません。どうか、ご遠慮なくもっと迷惑をかけてください」
「それは駄目だよ。君が、とても大切なんだ」
まるで弟のように。
語りこそしないが、殿下はそんな寂しい笑顔を浮かべていた。
「そうだ。入学の際に君はレイドとしか名乗らなかったそうだが、家名はどうなっているのだい? やはり家名がないと、虐められやすくなってしまうだろう? 孤児であったとは聞いているが、その際は孤児院の名を使う事が通常なのだが」
「孤児院の方は調べればでてくるでしょうが……」
「なにかあるのかい?」
「はい――そのあと一度、私には籍を置いた場所があるといいますか……私を拾って下さった方がいまして、恩人、だったのですが……」
「それがどうかしたのか」
「拾われた先で家名を貰っているので、孤児院の名は使えないのです」
第一王子だというのに、自分の国の法を理解していないのだろう。
金髪の貴公子は僅かに訝しむのみ。
「カルバニア国王の王国憲章、第二百二十七節にあるのですが、一度家名が他に移った場合、以前の家名……今回の場合は孤児院の名は使用できないのです。ですので、家名を登録するのは難しいかと」
「そうなのか、では孤児院の後の家名を使えばいいではないか」
「それが……」
言葉を窮し困ってしまう演技の裏。
どこまでも愚物だと、私は内心で呆れていた。
一度拾われたのに、十二歳でギルドにて住み込みで働いていた。
もう一度親代わりの存在から捨てられた、或いは、家出をする理由があった。他にも理由は考えられるが、何かがあったと思うのが普通だろう。
少なくとも問題があった。
拾われ先で何かがあり――家名が剥奪されたのだと、考えが回るだろう。
だが王子はすぐには気付かなかった。
女神アシュトレト以下だと、その時の私はこの男に最大級の侮辱を心で吐いていた。
ようやくその考えに思い至ったか。
「そうか……。すまない……いや、無理に言わなくとも、構わぬのだ」
「申し訳ありません、隠すつもりはなかったのですが……」
「君を拾った家は、取り潰しになったということかな。そうだね、少し強引だが私の権限で家名を再取得することも出来る。まだ覚えているだろうか?」
もう既に、十分だ。
この男はもう――私から離れられない。
それを理解した上で、私はその名を告げていた。
「私の以前の家名はアントロワイズ。レイド=アントロワイズと呼ばれておりました」
「アントロ……ワイズ」
「ええ、我が家は……してもいない汚名を着せられ……家族も、家も、街も……全てを失ってしまい……。当時は私もまだ六歳でしたから、アントロワイズ家がどんな罪をなすりつけられたのかも、よく知らないのです。殿下、殿下はなにかご存じなのでしょうか」
無知な子供の声は、王子の胸に深く突き刺さったことだろう。
「私を拾って下さった義父ヨーゼフも、義母ジーナも、そして姉のポーラも無実なのです。証拠などない……なにぶん六年も前の話です。ですが……私などを拾って下さったあの方々は、悪いことなど、できるはずがないのです……殿下。私はそれを知りたくて、今まで必死に生きてまいりました。殿下、何かを知っているのなら、教えてくださいませんか?」
人には見えぬ女神アシュトレトが、ほぇ~……と言った顔でパチパチパチ。
主演男優賞ものじゃなと笑う中。
王子は言葉を失っていた。
私はその時、第一王子がどんな顔をしているのか。
とても興味があった。
我慢できずに、貌を見た。
ああ。
この顔だ。この顔が見たかったのだと、私は酷く興奮していたことをよく覚えている。
王子の顔は、歪んでいた。
きっと、六年前のことを知っているのだろう。
王太子ならば、次期国王ならば――今この場で、この男は私を殺さなくてはいけなかったはずだ。
けれど。
できなかった。
そうはならなかった。
既に私という存在は、彼の中に入り込んでいた。
深く深く、肉の底の奥にまで――。
男は私を強く強く抱き、震えながらに言った。
すまない……と。
案の定。
彼はもう私なしでは、生きていけないのだろう。
私は徐々に、この国そのものを汚染し始めていた。