第116話 女神の玩具
孤児院教会の昼下がりは穏やか。
草原とグルメの香りに満ちた空間、何も知らない者たちは女神の食事を楽しみ。
そして、知っている者達は横目で女神たちの動向を眺めている。
昼食会に参加しているのは、四十人ほど。
私が拠点としている教会のメンバーに、王都にて私を捕らえた青少年たちとその家族。
女神が三人に、それを見張る私。
そのほかにも獣が数匹。
子供たちを護衛する魔猫――王の眷属たる猫魔獣ニャースケと、ニャースケをボスとし群れとなっている猫魔獣。
とはいっても、バアルゼブブは人前なので影の中に隠れたまま。
ニヘヘヘヘ。
ニャースケたちと子供の傍にいるようだ。
猫と子供とは相性がいいので、問題はないだろう。
バアルゼブブが勝手に色々と目移りするのはいつもの事なので、別に構わないのだが――。
会場の端っこ。
なぜかそこには黒髪褐色肌の男。
ルイン王子殿下が既に招かれていたようで。
昼の女神に絡まれてとても居心地が悪そうに、飲み物にチビチビと口をつけている。
アシュトレトがやはり絡む形で、王子のターバン頭に胸を乗せ。
『で? どうなのじゃ? ダブルス=ダグラスといったか、あの存外に豊満な胸をもっておる職人とはどこまで進んでおるのじゃ? ん? 言うてみよ、さあ! 言うてみよ! 妾は知りたいのじゃ!』
「いえ、僕は、その……」
『目線を逸らして、なんじゃ、ほう? 妾に欲情しておるのか?』
「お戯れを……」
相手が魔王の伴侶なこともあり、否定しても不敬。
肯定したら私に対しての不敬。
なかなかに面倒な問いかけだろう。
『妾は欲すらも肯定し豊穣を望む者にして、種族繁栄を尊ぶ者。我が夫レイドを愛しておるが、たまのつまみ食いぐらいは良き余興となるやもしれぬぞ?』
と、口では言っているが実際に彼女が他の者と、そういう関係になった事はない。
こちらをちらりちらりと、露骨に見ていることから妬いて欲しいのだろうが。
嫉妬させようと分かっていて反応をしたら私の負けである。
別に気になどしないが。
なぜだろうか、ルイン王子が顔をぞっと蒼褪めさせ全身の血の気を引かせていた。
その視線の先には私がいる。
耳の先まで隈なく白くさせたルイン王子が、唇と声を震わせ。
「ち、違うのですレイド陛下!」
「――よくわかりませんが、何が違うと言うのでしょうか? 論理的、合理的に説明していただけると助かるのですが」
愛想よく返したつもりなのだが、がたりとルイン王子は立ち上がろうとする。
だが、アシュトレトは玩具を見つけた猫の顔。
肩の後ろから王子の鎖骨に腕を絡め、耳朶に息を吹きかける形で――にやり。
『これ、逃げるでない――面白き余興じゃ、観念せよ』
「む、胸が……っ、胸が当たっております、当たっておりますので勘弁してください!」
『これは異なことを言う――知恵ある妾は知っておる。たしか、こうであったか。こういう時は当たっておるのではない、当てられておるのじゃ……じゃったか? そう言うのがスラングなのじゃろう?』
「それを言うのならば、”当たっているのではない、当てているのだ”だと思いますよ、女神様!? ほ、本当に、魔王陛下に、ぼ、僕が睨まれてるじゃないですか! あ、あれは絶対に内心では怒ってる顔ですよ!?」
王子は本当に困っている様子だが――。
一瞬、私は眉を顰めていた。
ルイン王子は女神と言い切った。
私はまだ、彼にアシュトレトが昼の女神だと紹介した覚えはない。
それだけではない。
この世界は混沌とした坩堝。
伝承ではなく事実として、今までの女神との会話からほぼ確定といえるだろう。
”あの方”と呼ばれるものを追って楽園を去った女神たちが、それぞれに文化や知恵、知識や物語、様々な要素を持ち寄り、力を集合。
天地創造さえ可能な女神の力を発動し、無聊の慰めのためにと作った暇つぶしの世界。
多くの世界を参考にし創造されているのだと、私は認識している。
正しいたとえではないが”AI画像”のような、多種多様な伝承との類似点が多い世界なのだ。
だが。
文化を参考にしていると言っても、その土地のスラングまでも継承しているとは思わない。
なのに、王子は女神にこう訂正した。
”当たっているのではない、当てているのだ”――。
と。
そして、ルイン王子殿下は明らかに何か力を隠している。
少なくとも女神を女神と見抜く力は有しているのだ。
力のない者は、彼女達をただの私の伴侶だと思い込んでいるのに、彼だけは女神だと断定した。
これは女神アシュトレトからの警告。
私にルイン王子殿下を警戒するように促すための作戦。
……、というわけではないだろう。
酔ってもいないのに、この悪絡み。
さすがは空気を読んだとしても無視する自由人、昼の女神アシュトレト。
おそらくは完全に計算外であり、これは本当に絡んでいるだけ。
眺めていた女神ダゴンが私に目線で合図を寄こし、頷いていた。
私のみに届く魔術による会話、明け方の女神ダゴンの淑やかなる声が聞こえてくる。
『どうやらアシュちゃんが不意にあの殿方の正体に関して、ヒントを出してしまったようですが。ふふふふ、きっと、計算外でしょうね』
『でしょうね。はぁ……それにしても、私に嫉妬させたいからと、王子に胸を乗せる必要がありますか?』
『あら、うふふふふふ』
珍しくダゴンはくすりと、手放しに微笑んでいる。
『ダゴン? 何か気になることでも?』
『まあ旦那様ったら――うふふふふ。気付いていらっしゃらないのですか?』
『なにがでしょうか――』
『だって旦那様。アシュちゃんが王子に絡んでいる姿を見て、ものすごく嫉妬なさっていますわよ? これはアシュちゃんの勝ちだと、あたくしは考えてしまいますもの』
聖職者の服を纏うダゴンはすぅっと瞳を細め、胸の前で指を当てている。
私とアシュトレトのやり取りを心から楽しんでいるのだろう。
別に私は嫉妬などしないが。
なぜか私はムスっと腕を組んでいて。
『まあ、あなたがそういうのでしたら……この私でも、多少は嫉妬という感情が浮かんでいるのかもしれませんね』
『あたくしは――素直になれない旦那様も、愛おしく思っておりますわ』
『他人事のように言っていますが。ダゴン……あなたはもし私が、そうですね――たとえばティアナ姫と一夜のそういう関係となったとして、嫉妬したりはしないのですか?』
ダゴンは余裕ぶったまま。
実際に、余裕そうに――。
『前にアシュちゃんが語っていたでしょうが、あたくし達にとってこの世界の人類はそれほど大きな存在には思えていないのです。子犬が女神の主人に懐いていたとして、気にも致しませんわ。そして三女神の中だけでしたら、嫉妬などしません。少しは自分だけを構って欲しいと思う事はあるでしょうが、それでも、アシュちゃんもバアルゼブブちゃんも大事な家族。あたくしたちは三女神。運命共同体なのですから――けれど』
一瞬、女神ダゴンの顔がぐじゅりと顔のない黒い炭の塊となり。
聖職者の服の隙間から、ぐじゅりと名状しがたい水棲生物の触手を覗かせ。
背筋を凍り付かせるほどの、ぐじゅりとした声を紡ぎだす。
『あたくしたち以外の女神とそういう関係になるのだけは、我慢なりません。それは旦那様もよくお分かりだとは存じておりますが――』
『創造主にして神たるあなたがたは下等生物たる人類に嫉妬したりはしない。ムシケラを相手に本気で嫉妬するのは恥ずべき行為だから。しかし、女神相手ならば違う。たとえ力ではあなたがたが上位でも、女神は女神。対等な存在となるので、嫉妬という感情が強く発生する――このようなイメージでしたが、どうでしょう』
ダゴンは満足した様子で微笑み。
いつもの清楚な顔に崩れた顔を整え始める。
他の者からの目には、何一つ変化はないのだろうが。
この中で今のやり取りに気付いていたのは、私達の関係者を除けば、魔術王の子供たるあの姉弟だけ。
ティアナ姫はぞっと背筋を震わせながらも、言われた通りの指示を実行。
アシュトレトとバアルゼブブが用意した”正体不明な物体”を、誰もが口にしないように行動中。
しかし、ルイン王子は気付いているのに気付いていないフリをしている。
敵か味方か。
はっきりさせる必要もある。
アシュトレトに絡まれている状態なので――助け舟の意味も含めて私は近寄り。
太陽を吸った土と草の香りの中――。
「アシュトレト、少し席を外してください」
『――ふむ、まじめな話か。良かろう、すぐに終わらせよ。妾はまだこやつに絡みたい、どうやら、なかなかどうして面白い玩具とみえる』
「ほどほどにしてあげてください。たとえ正体が何だとしても……おそらくルイン王子はどう転んでも、善人ですので」
女神アシュトレトは微笑み、次の誰かに絡むべく優雅にこの場を後にする。
美を司る女神の香りが残る場所にて。
単刀直入に私はルイン王子に問うていた。
「あなた、地球からの転生者ですね――」
よほど動揺したのだろう。
ぼろり……と。
王子の手にしていたグラスが、草原に落下する。
指は震え、声も出ないのだろう。
しかし、まともに顔色を変えた。
その反応こそが答えだった。