第107話 わずかな命綱
かつての宮廷での物語。
休眠期に入っている魔術王の眠る間に起こった、追放劇を聞き終え。
応接室にいた私、レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト=フレークシルバーは大きく息を吐いていた。
恩師である魔術王の寿命を悟り涙していた、眼帯の女性ダブルス=ダグラス。
その足元が揺らいでいた。
彼女が震えているのではない、影が異様に蠢いていたからだ。
ジジジギギギギギっと羽音が鳴った後。
断続的な声が響く。
『嗚呼、泣かないで、可哀そうな子。悪意に貶められ、王宮を追放された哀れな子』
『あなたは悪くない』
『ぼくには、あたしたちには、余にはその悲しみが理解できるんだよ――』
かつて追放された宮廷魔術師ダブルス=ダグラス。
その零れる涙を拾い上げていたのは、怪しい羽音を膨らませる虫の影。
黄昏の女神バアルゼブブだった。
影からエヘヘヘっと顕現した姿はさながら黒の聖女。
代表とルイン王子殿下は思わず顔を上げていた。
ターバン装備の黒髪褐色肌の王子は、揺れる鈴の音と共に言う。
「あ、あなたは――いったい」
「まあ可愛い子! ちょっとなに!? 転移魔術? めちゃくちゃ美人さんだし、お兄さん、嫉妬しちゃうわよ!?」
女神の美しさにはしゃぐ、大柄乙女な代表とは裏腹。
ルイン王子殿下の瞳は激しく揺らいでいた。
息を呑んでの動揺だ。
この中で唯一、女神バアルゼブブの本質を察したのだろう。
バアルゼブブがなぜ顕現したのかは不明だ。そして彼女はある意味ではアシュトレト以上の騒動の種、三女神の中で一番の問題児。
波乱が起こる前に私は目線を女神に向け。
「バアルゼブブ、子供たちの守りについていたのではなかったのですか?」
『あっちの影にも、ぼ、ぼくはいるよ?』
「なるほど、蠅の王の権能ですか」
それは蠅の数だけ分身を作れる黄昏の女神の能力。
彼女は無限に近い数の分身を、それも能力減衰がない、本体と全く同じ性能の分霊を生み出す力があるのだが――。
実際にニャースケとコンタクトを取ってみると、女神はちゃんとあちらでもキョロキョロと草原を眺めているそうだ。
「相変わらず、あなたはやっていることが人知の外。魔術法則も物理法則も完全に無視していますね……」
『えへへへへへへ。す、すごい?』
「ええ、私にはいまだに真似ができない能力ですし。少し悔しいですね」
『えっへん! ぼ、僕にとってみれば、レ、レイドだって、まだ、おこちゃまなんだよ?』
「実際そうですので、なんとも反論できませんね」
私が手放しに誉めているからだろう。
既にバアルゼブブはドヤ顔。
口を開きさえしなければ可憐で清楚な美貌は、完全に崩れていた。
既に涙を終えたダブルス=ダグラスがいつもの調子で言う。
「またあたいが本気で作った遮断障壁を突破されるって、魔王陛下、この子はいったい……」
「説明すると難しいのですが――信じて貰えるかどうかも、少し疑問と言いますか」
まさか創造神の一柱だと説明するのもどうかと考える中。
震える肩と瞳、そして恐怖を必死に堪えているルイン王子殿下が床に向かい――。
言葉を押し出していた。
「おそらくは魔王陛下の師匠、にあたる上位存在ですね――」
「上位存在? こんなちんちくりんがか?」
「ダ、ダブルス=ダグラス!? 口を慎みたまえ!」
多くの魔術強化装備で身を固めている王子殿下。
本気の制止である。
どうやらこの男、道化を演じていた時も感じていたが――相手の力量をある程度見極めるスキルやアイテム、または実力を隠し持っていると思っていいだろう。
彼女が女神であり、創造神だと気付いているのかもしれないが。
思考に耽る私の前。
ダブルス=ダグラスはバアルゼブブの頭に手を置き、優しく髪を撫で。
「んだよ、上位存在だったとしてもこの子、たぶん良いやつだぞ? 邪気や悪意ってもんを一切感じねえしな」
これは誤解。
悪意なく相手の首を撥ねるタイプなだけなのだが。
バアルゼブブはダブルス=ダグラスを気に入ったようで、その手を受け入れて微笑んでいる。
『と、当然なんだよ? ぼ、僕は、同類には、や、優しいんだからね?』
「同類?」
『そう、き、きみは、難癖をつけられてその存在意義も、地位も、た、立場も奪われ――追放されたんだね?』
「……まあな」
『ぼ、ぼくには分かるよ。悔しさも、寂しさも。やるせなさも――大事な場所を去るあの時の記憶は、僕はいまでも覚えているんだよ』
状況に同情しているのだろう。
バアルゼブブは珍しく女神の威光を存分にギラつかせ、闇の底からくぐもった声を漏らしていた。
『大好きだった国に、要らないモノって捨てられるのは――とても辛いんだよ』
『僕は、あ、あたしたちは知っているんだよ』
『だ、だからね、レイド。ぼ、僕は、こ、この娘に協力してもいいよ?』
グギギギギギと。
女神の首が百八十度回転していた。
「それは協力したいという事ですか?」
『うん、そ、それが嫌なら。代わりに、ぼ、僕がこの国を、この大陸を教育するだけなんだよ?』
それは無邪気で無自覚な殺意。
ジェノサイド宣言でもある。
ジジジジジっと羽音が強くなっていく。
「まあ、あなたが望むことはとても珍しい。分かりました、私もダブルス=ダグラス、彼女に協力をしましょう。バアルゼブブ、あなたの望みはどこまでですか?」
バアルゼブブは一瞬、姿を虫の集合体に変え。
私の膝の上に、黒い霧の塊となって乗り。
『全部だよ』
『ぼ、僕はね。あたしたちはね』
『打ち捨てられ廃棄された屍への恩を知らずに、のうのうと生き続けている人間は嫌いだよ? でも、全部消しちゃったら、レ、レイドも困るよね』
私の事情や状況を考えている。
女神バアルゼブブにとってはとても大きな成長だ。
まあ……普通ならできて当然の配慮なのだが、彼女にとっては本当に善処しているのである。
「そうですね――けれど、あなたが本当につまらない彼等を消したいと願うのなら、私は悪にも魔王にもなりましょう」
私の口は魔王としてではなく、彼女の家族として優しい言葉をかけていた。
「バアルゼブブ。私はたとえあなたが人の道を踏み外そうが、神として荒魂の側面へと転身しようが、たとえ世界全てを敵に回そうが――あなたの味方であると誓いましょう」
『じゃあ、やっちゃおうか?』
「そうですね、やってしまいましょうか――」
ぞくりと背筋を震わせた様子でルイン王子殿下は立ち上がり。
「ま、待って欲しい! レイド殿!」
「大丈夫ですよ、悪いようにはしません。というか、既にチェックメイト済みだという事はあなたが一番ご存じなのでは?」
「そ、それは、そうなのですが――」
「とりあえず、魔術王陛下に起きていただきましょう。これから起こす祭りの前に、書類にサインをしていただく必要もありますし」
ダブルス=ダグラスは訝しみ。
「どういうことだい魔王陛下。うちの陛下は寿命だから治せないって話じゃ……」
「ええ、これ以上の延命は正直お勧めはしません。けれど、痛みを和らげることはいくらでもできますから。医療や回復魔術とは人間の終末を優しく看取る分野においても発展している。治すことだけが医療ではないという事ですよ」
言って私は、王の眠る寝室へと案内させることにした。
◇◆
魔術王が休む寝室に満たされたのは、回復の波動と魔法陣。
ダブルス=ダグラスが生み出した、生活を豊かにする錬金術品で満たされた部屋。
私が開いていたのは、二冊の異界の魔導書。
「っぐ、……な、なんだい、それ……」
鑑定しようとしたのだろう。
突如としてダブルス=ダグラスが瞳を押さえ、口元も押さえ、床に倒れこみかけてしまう。
倒れる前に、ルイン王子殿下が彼女の肩を支えたので問題ないが。
「異神の逸話を記した力ある魔導書、グリモワールですよ。両方共に、百年の間に私が入手した異界から伝わってきたアイテム……どちらにも回復を司る神の力が宿っております。書に記されているのはとても危険な神々なのですが、それは使用を誤った場合の話。安全なのは実証済みなので、ご心配なく」
「回復の、魔導書……? そ、そんなに悍ましい魔力のこもったアイテムがかい?」
実際、この魔導書……。
異界の神の存在を記した逸話魔導書は、かなり曰くのありそうなアイテムだった。
入手方法が特別だったのだが――。
私はその辺りを曖昧にし。
「私も初めて目にした時は驚きましたよ――。けれど、蘇生の魔術を研究している過程で、どうしてもこの世界の魔術の限界を感じましたからね。私は外の世界に可能性を見出したのです。その研究結果のひとつがこれ。異界の神の伝承、逸話を読み解き――この世界で発動できる魔術とし既に魔術体系へと落とし込むことに成功しています」
応接室に残っているのも居心地が悪い、とついてきていた代表が言う。
「異界の魔術ねえ。聞いたことがあるわね、あたしたちは大陸神から魔術を授かりはじめて、魔術を発動することが可能になる。けれど、魔術法則が異なる異界では大陸神による魔術の付与は必要なく、一つの大いなる力から力を借り受け魔術を使う……」
「なんだい、そりゃ。意味が分からねえんだが」
「ああ、ダブルス=ダグラスちゃんは攻撃魔術を捨てたからいまいちピンとこないのかしら。んー……たとえばだけど、そうねえ――ここにいる魔王陛下ってとっても強いでしょう? そんなレイド陛下を神と崇めて力を貸して欲しいと願うと、魔王陛下のお持ちになる力を魔術として発動できるようになるとか、なんとか」
多少のずれや認識の差はあるが、中らずと雖も遠からず。
「おや、よくご存じですね」
「これでも商業ギルドの代表、いわゆるマスターですもの。知識だけはあるのよ?」
「あなたも実はすこしは強かったりするのですか?」
「普通よ、普通。そりゃ話を聞かない、聞く気もない嫌なお客様を追い返すぐらいの力はあるけれど、いわゆる初心者狩りならできるレベル。本当に強い連中にはまったく歯もたたないっていう中途半端な感じ。はぁ……我ながら嫌になっちゃうわね」
謙遜を知っている。
自分の実力を知っている。
この代表は自分の実力を過信しないタイプのようだ。
まあ、だからこそ商業ギルドの代表にまで上り詰めることができているのだろうが。
ダブルス=ダグラスが言う。
「それで、それはどんな神様の力を宿した異界の魔導書なんだい?」
「気になりますか?」
「そりゃあ未知のアイテムだ。気にならないって方がおかしいだろうさ」
それもそうだが、説明するのは避けておいた方が無難だろう。
これは――。
女神たちが『あの方』と呼んでいる者の情報を追った時に、偶然獲得したアイテム。
あの方と呼ばれている存在に纏わる、彼に近しい存在の力を宿した書なのだ。
ようするにかつて私たちの女神達も滞在した、神々がいた世界、楽園の関係者。
あるいは楽園を知っている強者。
一冊は禍々しい怨嗟を纏う、逸話魔導書。
まるで『ニワトリ』のような。
【白と黒、二柱の怪鳥が描かれた回復の奥義書】だった。
全ての鱗持つ者の神であり、王なのだそうだが――。
二羽の鶏である彼等は同一個体。同じ魂の持ち主だが、繰り返す世界の中で異なる道を歩んだ恐るべき神鶏であるらしい。
彼等は別々の道を歩みながらも、同じ存在に助けられた経緯を辿っている。
彼等を救った存在の名は、読み解けない。
つまりは――女神たちが追っている、『あの方』とみて間違いない。
そしてもう一冊の書は、盤上遊戯と呼ばれる世界について書かれた逸話魔導書。
表紙に描かれた神は、全部で四体。
ダイスの目で運命が変わる世界を支配する、四柱の獣神である。
一体目は、ダイスと履歴を管理するように世界を眺める幼女が枝に鎮座する、ふわふわな『世界樹』。
二体目は、軍団ともいえる神獣の群れと無邪気に笑いながらも、瞳は笑っていない『巨大熊猫』。
三体目は、宝石の山の上で寝そべり、混沌の海に釣り糸を垂らすナマズの帽子を装備した『猫魔獣』。
四体目が、そんな世界を見守り、眠るふりをして薄らと瞳を開けているタヌキ顔の『猫の置物』。
リーダーは猫の置物らしく、彼もまた『あの方』に救われた経歴を持つ力強き獣神だと、この書には記されている。
二つの書は、いつか女神たちがあの方と再会するための重要なアイテムとなるだろう。
もっとも、こんなことを説明して理解できる人間がいたら変人ではなく狂人。
二冊の逸話を読み解ける者など、数が限られているだろう。
だから苦笑した私はこう告げた。
「まあ……異界のすごい獣神の力を用いた魔術を発動できると思っていただければ」
「お、おう……随分と省いたね。それで……陛下は目を覚ましそうなのかい?」
「それは問題なく。おそらくは十秒もしないうちに――と、言っていたら気が付きましたね」
魔術王は瞳を開け。
しばらく周囲を見渡していたが――瞳の端に私と、そして女神バアルゼブブを捉え。
顔面蒼白となっていたが。
王は貫禄も威厳もあり、頭の回る人間だったのだろう。
魔術王は体を起こし、深々と頭を下げていた。
「お久しぶりでございます、レイド魔王陛下」
「おや、私をご存じでしたか」
「百年ほど前、フレークシルバー王国での大災厄討伐の席に、ワタクシめも冒険者ギルドからの増援として派遣されておりました故。こちらが一方的に知っている、そういう理由でございます」
王の敬語に、ルイン王子殿下もダブルス=ダグラスもさすがに動揺していた。
魔術王がこれほどの低姿勢を見せたことなど、ないのだろう。
彼等は生まれて初めて見る奇怪な光景に、あからさまに驚いていたのだ。
「なるほど、あの戦いに――百年前のご助力を覚えておらず、申し訳ありません魔術王陛下」
「とんでもございません……どうか頭をお上げください」
「そうもいかないのです。恩人の一人と知っていたのならば、もう少し手心を加えておけばよかったと反省しております。あなたを消さずに本当に良かった」
魔術王は訝しみ、自らの手を眺める。
「休眠期の眠りから起こしていただき、ありがとうございます陛下。魔力も補充していただいたようですが……そして痛みも消えている。これは、いったい。いえ、何があったというのでしょうか?」
「なんといいましょうか。本当に色々とありまして、困りましたね。私の口からは、どう説明したらよいか」
魔術王がルイン王子殿下に問う。
「よもやとは思うておるが、レイド陛下に対しての無礼はなかったであろうな?」
無礼がありまくっているので、なんとも居心地が悪そうだ。
けれどもルイン王子殿下は逃げずに跪き。
「申し訳ありません父上。僕には姉上を止めることはできませんでした」
「そうか――あれはついに、取り返しのつかぬことをしおったか」
「姉上をお支えできず、申し訳ありません。全て、この不肖なる弟の不徳の致すところにございます」
「して、アレはなにをやらかした」
ルイン王子殿下が私を見上げ。
「魔王陛下、よろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。ああ、魔術王陛下。先に言っておきますが、ここにいる三人に非はない。私も”彼女”も彼等を気に入っております。処罰はなしでお願いいただければ、と」
「――承知いたしました、全ては魔王陛下の御心のままに……。ところで、宜しければ確認させていただきたいのですが……こちらの偉大なる聖女様は、やはりあの時の……」
大災厄との決着の時にあの場にいたのなら、玉座の丘に鎮座していた女神を眺めていた筈。
あの時のバアルゼブブは顔を隠していたが。
「ええ、おそらくはご想像の通りかと」
「そうでありますか――ルインよ、魔王陛下ももちろんであるが、このお方にだけは決して、何人たりとも逆らってはならぬ。意見もならぬ、全てを是とせよ。そのご意向を最上とせよ――良いな?」
「それはよろしいのですが……この方は、いったい――」
ルイン王子殿下が目線を向けると、バアルゼブブはエヘヘヘヘヘ!
まあ……バアルゼブブには悪いが、この愉快な生き物が創造神で女神だとは思わないだろう。
アシュトレトもそうだが……、初見でまともな女神に見えるのは女神ダゴンぐらいなもの。
空気を読んだ魔術王が言葉を選び。
「覚えておくが良い、世の中には知ってはならぬ事もあるのだ」
「し、承知いたしました――」
「まあ今の彼女はあなたがたを……特にダブルス=ダグラスさんに同情以上の仲間意識を覚えたようですので、そこまで畏まらなくとも問題ないでしょう。とりあえず、お父上に事情を説明してあげてください。私の口からですと王も緊張なさるでしょう」
頷き、ルイン王子殿下は事情を説明。
魔術王はさすがに頭を抱え――。
女神と――絆という名の命綱を結んだダブルス=ダグラスに、感謝を述べた。
◇
魔術国家インティアルが賠償金により破産。
フレークシルバー王国のエルフ王に買収された――。
との話が広がったのは、王が目覚めて三日後の出来事。
そう。
私は女神バアルゼブブがやりたいことを実行するべく、行動開始。
やはり全て正規の、正式な手付きを経て国を丸ごと買い取ったのだった。