第106話 老いた王の背中
これは王城の敷地内。
かつて宮廷で起こった物語。
私、レイド=アントロワイズ=シュヴァインヘルト=フレークシルバーは話に耳を傾ける。
ダブルス=ダグラスの生い立ち。
そして追放されるまでの物語を、彼女の口から聞いていたのだ。
それは王のこの一言から始まった。
『ほう、おまえはこの書が見えるのか』
それは孤児だった少女が、慰問中の王の、高価な魔導書に触れてしまった時の出来事。
彼女はお腹が空いていた。
彼女の友達もお腹が空いていた。
だから彼女は金が欲しくて、わざわざ国民のためにアピールし、孤児院に訪問してきた王のアイテム保管空間に干渉し――よりにもよって一番高価な魔導書を選び、盗もうとしていたのだ。
王は全てを見抜き、そして先ほどの言葉である。
アイテム空間に干渉する力。
力の無き者には見えぬ魔導書を見る力。
そして王から物を盗もうとする、その豪胆さ。
全てが王にとっては愉快だったのだろう。
『爺さん、あんたは王様だろう? 金も地位も名誉もあるんだろう? だったら、これくらいくれてもいいじゃねえか、ケチくせえこと言うなよ』
『ふははははははは! 余をケチと申すか』
『気持ち悪い爺だな……』
極めつきは王をケチだと罵った事だろう。
魔術王は、まだ若き少女のダブルス=ダグラスを眺め考えている。
『ちっ……うちのババア連中が気付きやがった。まあいい、盗みが失敗しちまったこっちのミス。好きなようにしておくれよ』
『死を選ぶと?』
『まさか、ガキが自らの命を捧げているのに、孤児院を潰すなーんていう、くそダセエことはしねえよな?』
ならばと、王は交換条件を出した。
ダブルス=ダグラスの魔術の才を指摘し、それを国のために活かせと命じたのである。
王は彼女の命や、孤児院の管理責任を問わぬ代わりに彼女を引き取り。
宮廷へと連れ帰った。
それは少し珍しい野良猫を拾ったような感覚だったのだろう。
王には二人の子供がいた。
既に亡くなっている妻から産まれた、双子。
姉ティアナは武術や魔術に優れているが、考えが足りず。弟ルインはなにをやらせても無気力な問題児。
そんな双子に刺激を与える意図もあったのだろう。
王は言った。
『今日からこの子は宮廷で育てる。おまえたちと年齢も近いそうだ、仲良くしてやれ』
姉ティアナは年の近い子分ができた気持ちだったのだろう。
即座に喜び、そしてすぐにどちらが上かを教え込むように、高圧的な態度を取り始める。
逆に弟ルインは歳が近い友達という感覚で、ダブルス=ダグラスに優しく接していた。
彼等はともに宮廷で育つ。
これは、そんな――。
運よく才覚を認められ権力者に拾われた少女の――どこにでもある物語だった。
数年が経ち、彼等は十歳前後。
ダブルス=ダグラスはやはり、魔術の才に長けていた。
だから少女は魔術王の下で働き、宮廷魔術師見習いとして成長を遂げていた。
少女は宮廷の中で浮いていた。
魔術の才能があることは魔術国家にとっては誉なことだ。
なによりも優先されるのは魔術の才だ。
だから本来ならば少女は少女であっても、宮廷魔術師見習いであっても強い権力を持てるはずだった。
この国で台頭する条件はたった一つ。
その力で攻撃魔術の一つでも覚えれば良かったのだ。
彼女の才能に嫉妬する大人の貴族や大人の宮廷魔術師とて、平伏せさせることができただろう。
けれどそうはならなかった。
少女もすでに十歳。
親分面で無理難題をおしつけてくる姉ティアナに揉まれ、性格も真っ当に育っていた。
王が強ければ強いほど、国は平和で満ちていき……孤児院の数も減っていた。
不幸な子供がいなくなっていたのだ。
だから少女は感謝をした。
自分を拾ってくれた恩人、魔術王を尊敬していた。
だから少女も恩に報いるべく、魔術を磨く。
けれどだ。
魔術王が欲していたのは、王自らが得意とする攻撃魔術ではなかった。
王は優れた攻撃魔術の使い手だった。回復魔術も得意としていた。
当然だ、王は百年以上も生きる伝説の魔術師。
自らの腕のみで国を導き遷都を果たし、まだ不安定だった大陸統一を確定させた覇者。
強者の頂にある者だった。
そんな強者が欲していたのは攻撃魔術ではなく、安定した国を維持するための、生活のための魔術。
国民の生活に根付く錬金術や、嘘や模造品を暴く鑑定。
魔術がなくとも誰でも他者の傷を癒せるアイテム精製や、貴族の髪を彩る彫金といった分野。
だから少女は攻撃魔術の才能を伸ばすことを諦めた。
成長期の子供という、一番に魔術を伸ばせる限られたボーナス期間の中で、王が望む国のための魔術を磨き続けたからである。
更に三年後、結果は実った。
ダブルス=ダグラスは十三歳にして、技術の天才。
実際には子供なので雇えないが――徒弟を従えることができるほどの、マスターレベルの錬金術師へと成長していた。
魔術王は少女だったダブルス=ダグラスに言った。
『ダブルス=ダグラスよ。余の魔導書を目視できる、その攻撃魔術を読み解くことさえできるおまえならば――この国一番の攻撃魔術の使い手になれたであろう。攻撃魔術さえ学び伸ばせばこの宮廷で、無能の臆病者と馬鹿にされることもなかったであろうに』
そう。
ダブルス=ダグラスは攻撃魔術が何よりも求められるこの宮廷で、攻撃魔術を捨てた故に、その立場は弱かった。
宮廷魔術師の頂点と立てるほどの魔力を持ちながらも、出来損ないと罵られ続けた。
それでも、少女は自分の道を貫いた。
少女だった少女は言った。
『あんたが欲しているものが、あたいを変えちまったんだろ。ったく、無責任な爺さんだぜ。勝手にあたいを拾ったその時から、なーんも成長してねえんだな』
『おかしな娘だ。まったく、誰もおぬしに、余の希望を叶えよなどと命じてはおらぬ』
『それでもあたいは――あんたの理想と信念だけは、すげえ気に入ってんだ。破壊や殲滅の魔術ではなく、人々のための魔術を望み続けたあんたの……かつての夢ぐらい、拾ってやりたいと思っただけさ』
魔術王は人の身でありながら勇者や魔王に匹敵する強者。
だが。
その本来の性根は、他者を攻撃することを嫌う穏やかな人物。
けれど、彼がこの大陸を真の意味で統一しなければ、この大陸の戦いは終わらなかった。彼は平和のために、自らの理想を捨てた。
攻撃魔術の鬼となった。
そして大陸は統一され、この地はインティアル大陸となり。
今の平穏が築かれた。
ダブルス=ダグラスは多くの攻撃魔術を拾えるだけの、特大な魔力容量と才能を持ちながら、その才を捨てた。
才が大きかったからこそ、空いた隙間も大きかった。
何でも拾えるその魔術の手で、彼女は王が成しえなかった、本当に作りたかった魔術の平和利用の道を掴み――インティアル大陸の生活基盤を整えた。
だが、それは攻撃魔術を至上とする宮廷の中では成果ではない。
だから、姉ティアナはいつかのあの日に、ダブルス=ダグラスを罵り決別した。
魔術王の一番弟子でありながら攻撃魔術を捨てた舎弟を馬鹿にし、侮蔑するようになっていた。
決別はダブルス=ダグラスが十五歳の頃。
その時既に、王は自らの寿命を悟っていたのだろう。
長くを眠るようになり、起きているときに公務を長く続け――それを支えるダブルス=ダグラスに、老いを隠せなくなっていた魔術王が言ったのだ。
『いままで、よく働いてくれた。これまでの給金は全て、商人ギルドのおまえ名義の金庫に入れてある。ここはもうよい。おまえは自由に生きよ。ここはもう、おまえに感謝をしない愚か者ばかり。おまえが作ってくれる数々の生活品の価値が分からぬ、攻撃魔術にしか価値を見出せない愚者の集い。だから、もういいのだ、ダブルス=ダグラス。おまえを解放しよう』
いままで、本当にありがとう。
と。
王は自らの衰退とともに腐っていく宮廷に気付いていたのだ。
だが、もうその衰えは止められないと知っていたのだろう。
王は戦しか知らぬ王だった。
攻撃魔術を全ての上位に設定した、かつての自分の過ちだと魔術王は考えたのだろう。
だから。
ダブルス=ダグラスに暇を与えようとした。
王の目が弱くなっていくにつれ、攻撃魔術を扱えぬダブルス=ダグラスへの周囲の嫌がらせは強くなっていく。
唯一の味方は、幼い頃から共に育った道化のルイン王子殿下だけ。
もはや宮廷にいても不幸になる。
ダブルス=ダグラスがどれほどの天才でも、攻撃魔術がなければ人権はない。
実際、少女は片目を怪我で失っていた。
ダブルス=ダグラスは自らの片目に鑑定の魔術を埋め込んだのだと笑っていたが。
実際は、他の宮廷魔術師から酷い八つ当たりを受け――もはや治せなくなり、代わりに魔道具を刻んだだけ。
それでも十五になった少女は、頷かなかった。
宮廷の中は、彼女が作った様々なアイテムで溢れている。
魔術犯罪者を取り締まる魔力封じの檻も、彼女の作。
常に特定の温度を保つ、氷の魔術の部屋も彼女が設計したオリジナル錬金術。
『あたいがいなくなっちまったら、あんたの愚痴を誰が聞くのさ』
『愚痴を漏らさずとも、人は死なぬ』
『だが、どんどんと心は壊れていく。あたいは……ここがどんな外道の住処でも、受けた恩だけはきっちり返してから飛び出たい。そう願っているだけさ』
漏らす言葉と目線の先にあったのは、宮廷から去っていくまともな人材。
姉のティアナ殿下が虐め倒した騎士団長の背である。
騎士団長は戦いの中で魔力を失い、攻撃魔術が発動できなくなりつつあった。
だから、王女たるティアナ殿下は無能は要らぬと騎士団長を追放した。
騎士団長には人望があった。
だから、彼を追って宮廷を後にする者たちは――その恩に報いようと睨むように宮廷を睨み、この国を出ていくのだろう。
ルイン王子殿下が騎士団を捕まえ。
姉の暴挙を謝罪。
旅費を手渡し、どうか国を恨まないで欲しいと頭を下げていた。
『あいつら、引き止めなくていいのかい?』
『もはやティアナより余は弱い。攻撃魔術が全てである故に、今の余の話など聞こうとはせぬだろう』
『情けない王様だな』
『ああ、まったく。まったくだ――』
反論ではなく肯定だったことが、ダブルス=ダグラスには衝撃的だったのだろう。
『この国はもう、ダメそうかい?』
『余の育てたこの国は才能に恵まれておるが、その才覚に溺れておる。もはや修正はできぬだろう。そして余は良き王となるように努力をしていたが、良き父にはなれなかったようだな。ルインはともかく、ティアナにはもう、誰の言葉も届かぬ。そう遠くない未来において……また、おぬしのような哀れな孤児が増える時代が訪れるのであろうな』
それは王としての見通しか。
あるいは未来を眺める魔術だったのか。
それはダブルス=ダグラスにも分からなかったようだ。
だが、老いた師を前にして少女だった宮廷魔術師は言った。
『そうかい。それでも、まだあんたが生きている間は――あたいはこの国を見捨てないよ』
それは決意の言葉だったのだろう。
だから。
彼女は王を治す術を探し続けた。
様々な技術。
様々な生活魔術がその時に生まれた。
それは王を治すための研究の副産物。
そしてようやく、彼女は異界から入り込んできた文献を読み解き。
何でも治せる治療薬エリクシールを完成させた。
だが伝説の秘薬さえ作れるようになっても、それでも王は治せなかった。
エリクシールを作る費用は莫大だった。
けれど効果は絶大なはずだった。
実際、実験に協力をした、かつて追放された騎士団長の魔力は、研究中の試作品【劣化エリクシール】によって完治したのだから。
それでも、王は治らない。
費用だけが掛かり成果がない。
それが姉ティアナの逆鱗に触れたのだろう。
ダブルス=ダグラスは酷い罵詈雑言を受けた。
多くの宮廷の者から、罵倒された。
金を盗み、横領までしていると嘘までつかれ蔑まされた。
ルイン王子殿下が姉を殴ったのはその時が初めてだった。
唯一、彼女を信じたのは道化のバカ王子。
それがダブルス=ダグラスにとっては救いだったが、同時に、初めてルイン王子殿下の道化の仮面を外させてしまった失態でもあった。
だから。
彼女は宮廷を去ることを決意した。
それでも国を見捨てたわけではない。
約束通り、王が健在の限りはまだ捨てられない。
だから。
王が深く眠るようになり――。
その病を治せなかったからと周囲から誹りを受け、王が眠っている間にと宮廷から追い出されても。
彼女はまだ。
この国にいる。