89話「怪現象の正体」
深夜遅くになって、俺はふと目を覚ました。お手洗いに行きたくなったのだ。
屋敷の外ではまだ雨が降り続いているらしく、ザーザーという雨音が壁越しに聞こえてくる。
冷えた空気に身を震わせながら、念のため護身用に魔剣を掴むと、俺は自分の部屋を後にした。
便所は階段を降りて、廊下の突き当たりにある。
俺はきしむ床板を踏みしめながら、一階へと降り立った。
相変わらず人気はない。マナを動力にして動くランタンの光を頼りに、物寂しい雰囲気の屋敷の中を進んでいく。
やがて廊下に足を踏み入れた俺は、自分の目を疑って立ち止まった。
ちょうど中央のあたりに、白いワンピースを着た長い金髪の少女が立っている。
その体は半透明で、向こう側の壁が透けて見える。髪は全て前に垂らしており、その表情はうかがえない。
「デテイケ……」
腹の底まで響いてくるようなおぞましい声で少女はつぶやいた。
それでも俺は冷静に相手を見定め、じりじりと距離を詰めていく。
「デテイケェ……!」
すさまじい冷気が少女の体から発せられ、俺は思わず目を細めた。
間違いない。この屋敷で起こる怪異の原因は、彼女だ。
ならば、ここで白黒はっきりつけておかなければならない。
俺は臆することなく幽霊少女に駆け寄り、魔剣をその首元に突きつけた。浅く傷ついた首筋から血がたらりと流れ落ち、少女は目を見開く。
「なっ……!?」
「こいつは魔剣だ。幽霊だろうが幽魔だろうが簡単に斬れるんだぜ」
「それは想定外だったのだ……!」
幽霊少女は悔しそうに歯噛みした。
今度の声は年齢相応の少女のものに聞こえた。おそらくこっちが地声なのだろう。
「俺たちに色々仕掛けてたのはお前だな?」
「そ、その通りなのだ……」
幽霊であるというアドバンテージを失い、身の危険を感じたせいか、彼女はしおらしくうなずいた。
「どうしてこんなことをするんだ?」
そう問いかけた途端、幽霊少女はぷりぷりと怒りながら口を開いた。
「ここは私の屋敷なのだ! よそ者が荒らし回るのは許されないのだ!」
「荒らし回る、って……雨がひどいから、ちょっと泊めてもらおうとしただけだよ」
「ダメなのだ! 対価もなしに泊めるなんて、そんなの常識的に考えておかしいのだ!」
たしかに、この幽霊少女がこの屋敷の現在の持ち主だとすれば、そう主張するのはおかしなことではない。俺は少し考えたあと、口を開いた。
「それじゃあ、対価を払えばいいんだな? 何をすればいい?」
「えっと……それは……お部屋の掃除、とか?」
「分かった。みんなでやるよ。それでいいか?」
「うん――って、泊まる気まんまんなのだ! 私はまだ許してないのだっ!」
「はいはい、分かった分かった」
地団駄を踏む少女を失笑しながらなだめた後、俺はクランメンバーたちに声をかけて回り、一同をリビングルームに集めた。
みんなとても眠そうだ。ニアなんかは、大きな口を開けてあくびをしている。夜中に叩き起こしたのだから無理もない。
「こんな真夜中にどうしたんだい、アケビくん」
「みんな揃ったな。よし、出てきてくれ!」
俺が一度大きく手を叩くと、幽霊少女が天井を貫通してすっと姿を現した。
「紹介するよ。こちらがこの屋敷の主、えーっと……そういやまだ名前を聞いてなかったな」
「エーリカなのだ。よろしくなのだ」
「ゆ、ゆ、幽霊!!」
シエラはジュリアをわなわなと指差しながら、数歩後ずさりした。自分自身が伝説上の存在なくせに、やっぱりこういうのは苦手らしい。
「幽霊で何が悪いのだ? 好きでこうなったわけじゃないのだ」
「そ、それはそうかもしれんが」
「こら、あんまり機嫌を損ねると呪われるぞ」
「はっ!? 幽霊最高!」
「褒められてるんだか、バカにされてるんだか、分からないのだ……」
エーリカは呆れ顔でシエラを見つめた。一方、俺たちは珍しくおどおどするシエラを見てくすりと笑った。
「それはともかく、怪奇現象の正体はエーリカだったことが判明した。この屋敷をきれいに掃除すれば、いたずらはもうしないそうだ」
「なんだ、そうだったのか。怯えて損したよ」
「友好的で安心したぞ。危ねぇこともできるんだろ?」
「まあ、やろうと思えばできるのだ」
「物理でどうにもできない相手は苦手じゃ……」
「シエラ、大丈夫だよ。いやな感じ、もうしない」
「まあまあ、いまから戦り合おうっていうわけじゃないんだから」
このパーティはどうにも好戦的で困る。もう少し穏便に済ませることを覚えてほしいものだ。
「それじゃ、明日の朝からお掃除開始ってことでいいか?」
「その辺のことは任せるのだ!」
「ふあ~あ……もう少し寝ておきたいから、私は部屋に戻って寝るよ」
「わたしたちも部屋に戻ろうよ」
「そうじゃな。妾も少し落ち着く時間がほしい……」
流れ解散になり、ニアたちはぞろぞろと退室していく。その背中を見つめながら、エーリカは不思議そうにつぶやいた。
「お前のパーティ、私を見ても全然ビビらないのだ」
「そりゃまあ、かなりの場数を踏んでるからな。ちょっとやそっとのことじゃ驚かないよ」
「そっかぁ……ふふっ……」
なんだか嬉しそうな笑みを浮かべて、エーリカはふわりと宙返りした。
その様子を見た俺は、ふと声をかける。
「もしかして、寂しかったのか?」
「そ、そ、そんなことないのだ! いきなり屋敷に押しかけられてメーワクなのだ!」
エーリカは慌てて首を横に振った。しかし、にやけたその口元は隠しきれていない。
「へえ、そうかよ」
俺はそれ以上何も言わず、肩をすくめた。
奇妙な出会いではあるが、これもまた運命の糸に導かれた結果なのだろう。
暇そうに空中に浮かんでいるエーリカにしばしの別れを告げた俺は、ようやくぐっすりと安眠することができた。