58話「不可視の侵入者」
私は宿屋の一室に戻り、ため息をついた。
ペテリア語の会話についていくのは未だに疲れる。〈自動翻訳〉のスキルがあればいいのになぁ、なんて思いながら、私は備え付けの椅子にそっと腰掛けた。
同室のアーシャさんは街を散歩してくると言って、ノエルさんと一緒に出かけていった。だから、いまこの部屋にいるのは私一人だけだ。
(そうだ、アーシャさんが帰ってくる前にシャワーを浴びてしまおう)
ふとそう思った私は、椅子から立ち上がり、部屋のワードローブにしまわれているバスタオルを手に取った。
その瞬間、背後でガタンという大きな音がして、私は慌てて振り返った。
何の音かと思ったら、壁に立てかけてあった魔法の杖が床に倒れただけか。びっくりして、びくんと震えてしまったじゃない。
今度こそ倒れないようにきちんと杖を立てかけてから、私はバスルームに足を踏み入れた。
私はどちらかというと、お湯をある程度溜めてからお風呂に入る派だ。ヤンテでは公衆浴場があったし、浴槽に浸かるのは日常的に行われていたことだからね。
お湯を出しながら蛇口をひねって、水温を調整する。適度な熱さにすると、私はバスタオルを脇に置いて、お湯がたまるまで待つことにした。
いったんバスルームの外に出ようと部屋の敷居をまたいだ刹那、再びガタンという音がして、私は振り向いた。
また杖が倒れている。さっきしっかりと立てかけたにも関わらずだ。
(おかしいな……そんなに何度も倒れるようなバランスじゃないのに)
私は不審に思いながら、床に落ちた杖を拾い上げようとした。
その瞬間、背後から何か細い紐状のもので首を締めつけられ、私は思わずうめいた。
(なに……!?)
状況が理解できずに困惑する私の首を、紐はさらに強く締め上げる。
私は必死に声を絞り出した。
「erif……oreom……!」
私の手のひらから小さな炎が放たれ、紐を燃やす。首を火傷するかもしれないが、窒息死するよりはマシだ。
「あちっ!」
背後から声がして、私の首を締めつける力がぴたりと止まった。それまで首に巻きついていた紐が、燃えながら床に落ちる。
私はすぐさま杖を拾い上げ、臨戦態勢に入った。
この部屋の中に少なくとももう一人、私以外の人間がいる。
「uohsednuri akerad! iasaniketed!」
杖を構えながら声を上げるも、返事はない。
その次の瞬間、顔面にがつんと衝撃を食らい、私は後方に吹っ飛んだ。
どうやら私とやり合うつもりらしい。
上等だ。私だってこのままやられっぱなしではいられない。私は壁際に倒れ込みながら、杖にマナを込める。
「rednuht ekorodot!」
杖から放たれた雷が空を裂く。残念ながら、あては外れてしまったようだ。
なんとか体勢を立て直した私は、部屋の中央に向かってじりじりと前進する。
一方、私の魔法を目の当たりにした相手は、それ以降近づいてこなくなった。一発当たれば昇天ものの威力なのだから、警戒するのは無理もないだろう。
それにしても、相手が見えないというのはなんともやりにくいものだ。〈動作予知〉は発動しないし、目印がないから攻撃もできない。
逆に言えば、目印さえあれば攻撃が当たるということだ。
(そうか……!)
私は杖を構えてマナを込めた。
「retaw oreragan!」
杖の先端から放たれた水のヴェールが部屋の中をまんべんなく濡らしていく。そして部屋のある一点で、水流が何かとぶつかった。
自身を劣勢とみた相手は、どうやら被弾覚悟でこちらに突っ込んできているらしい。
そこで私はすかさず呪文を唱えた。
「rednuht ekorodot!」
「ぎゃあっ!」
雷に貫かれた侵入者は、ついにその透明な迷彩を解いて姿を現した。全裸のその男は、ぷすぷすと煙を上げながら床に倒れ伏した。
威力を落として撃ったのだが、どうやら気絶してしまったらしい。まあ、暴れられるよりはいいだろう。
私は壁際に置いてあるバックパックからロープを取り出して、その男を縛り上げた。
それから私はアケビたちを部屋へ呼びに行った。こいつはおそらくアーシャさん絡みの敵だと思ったからだ。
そんなわけで、ほどなくして、私とアーシャさんが泊まる部屋に「ビヨンド」メンバー全員が集合することになった。
アケビはバケツに汲んだ水を顔にかけて、侵入者を叩き起こした。目を覚ました侵入者は、自分が置かれている状況を把握すると、悔しそうにアケビを見上げた。
「なあ、お前、どうしてニアを狙った?」
「アーシャって女がそいつだと思ったからだよ!」
「やっぱり、バリーの差し向けた刺客か」
私の予想は当たっていたみたいだ。
男の脇にしゃがみこんだアケビは、面倒くさそうにぽりぽりと頭をかいた。
「これからもお前たちは狙われ続ける! ラピスタンまで無事にたどり着けると思うなよ!」
つまり、他にもアーシャさんを狙う刺客がいるということだ。気が抜けない旅になりそうだと思い、私は改めて気を引き締めた。
一方アケビは、その程度のことは織り込み済みだと言いたげにうんうんとうなずいた。
「ああ、そうかい。ご忠告ありがとさん」
「お、おい、どこに連れてくんだよ!」
「ちょっと”お仕置き“してくるわ」
アケビは侵入者の男を担いだまま部屋を出ていった。そして、しばらく経ってからアーシャさんとノエルさんを連れて戻ってきた。
「三人ともおかえり。して、あやつはどうなったんじゃ?」
無邪気に尋ねるシエラに、アーシャさんは口を押さえながら首を横に振った。
「聞かない方がいい……おえっ」
「まさに悲劇でございました」
「あいつはもう二度と襲ってこないと思うから、安心していいよ」
にこやかなアケビの笑顔が、そのときだけはちょっぴり怖いと思った私だった。アケビを本気で怒らせるのはやめておいた方が良さそうだ。