118話「竜の啼く谷」
竜啼谷は、ジンハオから北に向かって数時間のところに位置している。
そこに向かうための道程の大半は、険しい山脈を登ることに費やされる。
やっとの思いで到着したかと思えば、今度は体力を消耗した状態で谷に棲まうドラゴンたちと戦うことになる。
そんな過酷な場所に好き好んで行く者がいるはずもなく、ナジア人の間では有名な秘境として知られているそうだ。
「この谷がそうか?」
「ああ、そうみてぇだな」
俺たちは〈隠密〉と〈地獄耳〉を使って戦闘回数を最低限に留めながら、竜啼谷へたどり着いた。それでもかなり疲弊したという感覚がある。
その証拠に、吸血鬼の超回復力を持つシエラも、今回ばかりは息が上がっている。
谷はかなり深く、薄い霧がかかっていることもあって、下の方まで見通すことができない。もし足を踏み外して落ちたら、一巻の終わりだろう。
上空では数匹の小型飛竜が飛び交っている。これが谷全体に無数に生息していると思うと、進むのが嫌になってくる。
しかし危険とはいえ、前に進まなければ話が始まらない。俺たちはできる限り物陰を選びながら、慎重に歩いていく。
そろそろ日没の頃合いだ。月が天に昇るとともに、ドラゴンたちは自らの巣で眠りに就く。その隙を見計らって、月雫草の花を手に入れることが出来れば万々歳だ。
「それにしても、どの辺に生えてるもんなんだろうな」
「月の光がよく当たるところに咲くって女官の人は言ってたね」
「満月の夜にしか咲かねぇからな。今夜を逃すと一ヶ月後に先送りだ」
「それは困るぞ。確実に手に入れないと」
俺たちは声を潜めて話をしながら、落月雫の咲きそうな場所を探していく。
〈隠密〉スキルのおかげで物音は遮られているから、別にコソコソする必要はないのだが、ドラゴンから身を隠そうとすると、自然とそうなってしまうのだった。
そうこうしているうちに、いつしか日は落ち、月明かりが俺たちをほんのりと明るく照らし始めた。先ほどより暗くなった足元に注意しながら、俺たちは道なき道を進んでいく。
そのとき、〈千里眼〉で周囲を探知していた俺は、谷を挟んだ対岸に一際明るく照らされている場所を発見した。
その中央には、一輪の青い花が咲いている。花弁の先端が尖った形をしており、月に向かって大きく花開いている。
「なあ、あれってまさか……」
「間違いねぇ、月雫草だ!」
「でも、どうやって取ってくる?」
「そんなの簡単なことだ。なぁ、エーリカ?」
「任せてほしいのだ!」
エーリカは対岸までふよふよと飛んでいき、月雫草を丁寧に摘み取って戻ってきた。
「はい、取れたのだ」
「な? 簡単だろ?」
「うちのパーティもいよいよ人外じみてきたね」
「それは褒め言葉と受け取っていいのだ?」
俺は月雫草の花をカバンの中に大切にしまいこんだ。
「一輪でいいんだよな、ニア?」
「うん。そんなにたくさんは使わないはずだから大丈夫」
「よし。それじゃあこんな危ない場所、とっととおさらばするぞ」
俺たちは引き続き周囲を警戒しながら、元きた道を引き返していった。
ところが、そこでとあるアクシデントが発生した。同じルートを通って戻っているはずなのに、行き止まりにぶち当たってしまったのだ。
「うーん、道を間違えたか?」
「でも、来たときと同じ道のはずだよ」
「というかそもそも、こんなにでかい岩、ここにあったか?」
シエラはそう言うと、大岩を軽く蹴った。すると、その岩はぐらりと大きく揺れ動いた。
「おおぅ!?」
「不安定なバランスで立ってるのかもしれない。やめた方がいいよ」
「いや、その逆じゃ。この岩を壊せば奥の道に通じる隙間ができる。それで元の道に戻れるじゃろ。タオファ、手伝ってくれんか」
「よしきた」
やれやれと肩をすくめるユウキを尻目に、タオファとシエラはそれぞれ構えを取った。
「「せーのっ!!」」
鋭い蹴り足が同時に炸裂し、ズンと鈍い音を立てて大岩が壁から剥がれた。
その刹那、腹の底まで響くような咆哮が俺たちの全身に浴びせられた。
「グオオオオオオオオ!!」
それは大岩などではなかった。地面に丸まっているドラゴンの背中だったのだ。
そのドラゴンは、憤怒と敵意に満ちた目つきでこちらを睨めつけると、唸り声を上げながら首をもたげた。
「で、でけぇ……」
「ドラゴロンだ!」
その体高は優に建物二階分はあるだろう。全身は岩石のような甲殻に覆われており、いかにも頑丈そうな見た目をしている。一筋縄では倒せなさそうだ。
「ど、どうするのだ!?」
「こうなりゃ、やるしかないだろ!」
「ですよねー!」
俺たちはなし崩しに戦闘態勢を取った。
広いとは言えないこの足場でどれだけ動けるかは分からないが、闇雲に逃げ回るよりはマシだろう。