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第1部 9.過ちの種

ガラケー時代の都内近郊ラブストーリーです。


わずかな嫉妬で起こした些細な行動が、いつか自らを傷付ける……


よろしくお願いします。



 その後再びユナイテッドに取材に訪れた結衣は、

「失礼します」

 ブースに入り、木籐と目を合わせた。

 一瞬、先日のランチ同様の苦い空気が漂った。


「連載の件、お引き受けいただいてありがとうございます。引き続き私が担当させていただきますので、よろしくお願いします」

 木籐が口を開くのを阻むように、結衣は早口で言った。その表情も口調も、まるで初対面の間柄のようによそよそしかった。

「――ああ」

 木籐は席を立って彼女に顔を向けた。

「早速、よろしいでしょうか。お時間を無駄にすると申し訳ありませんので」

と、結衣はミーティングテーブルに座った。

 木籐がそれに従って座ると、

「……今回は、様々な金融商品の解説をお聞きしたいと思います。まずは現物株ですが……」


 彼女の顔に、これといった表情はなかった。個人的感情を殺して、ただ記者の仕事を全うしようとしているのだった。

 一抹の違和感を胸に秘めながらも、彼は極力前回と同様に取材に応じた。


 話を聞き終えると、結衣は撮影のため木籐を一階へ誘った。

「五月の発売なので、背景に緑を入れたいんです」

 長いエレベーターの中で彼女は一言、

「お忙しいのに、面倒を言ってすみません」

とだけ言った。

 数十秒の沈黙は、無口な木籐には誰といてもそう珍しいことではなかったが、彼の沈黙と彼女の沈黙とではその意味も重みも全く違っていた。それが、彼には居心地が悪かった。


 ビル敷地内の緑地スペースで、結衣は納得いく写真を撮り終え、

「どうもありがとうございました」

と頭を下げた。

「いや」

 木籐が短く答えると、

「じゃあ、ここで失礼します」

と機械的な微笑を浮かべ、会釈して背を向けた。


「――この間は」

 何かに突き動かされるように、木籐は口を開いた。

 彼女は躊躇したように動きを止めたが、やがてゆっくりと振り向いた。

 その瞳は、まるで敵と対峙した野生動物のように、怯えの同居した鋭さを放っていた。

 木籐は、彼にしては珍しく柔らかい口調で続けた。

「済まなかった。ひどく怒られたらしいな」


 直後、さあっと風が通り過ぎた。緑を巻き込んだ春の風に、結衣は思わず目を閉じた。

 再び目を開けたとき、その瞳にもう鋭さはなかった。

 飛ばされた前髪を直すのに少し俯いて、結衣は何らかの感情を含んだ息を漏らした。

 それからもう一度彼に向き直って言った。

「いいえ。気にしてません。怒鳴られるのなんて、しょっちゅうですから」

 単なる記者ではない、彼女自身が発する言葉だった。

「それに、次号からユナイテッドさんの広告も入ることになりました。木籐さんの提案だって、営業部の方がおっしゃってました。お気遣いくださって、ありがとうございます」

 素直に言葉をつないだ。


「――あれは、一定の効果を見出してのことだ。別に君を気遣ったわけじゃない」

 どこか余所を向いて、彼は言った。

「ええ、そうですよね」

 結衣の頬に真昼の陽光が注いで反射していた。

「でも、そっちの編集担当も私になりましたので、よろしくお願いします」

「それはご苦労だな」

 ぶっきらぼうに木籐は言ったが、彼女はその穏やかな笑みを崩すことなく、再度会釈して広場から外の歩道へ続く短い階段を上って行った。


 それをしばし見送り、彼女の姿が見えなくなると、木籐はほうっと腹の底から息を吐き出した。そしてその事にふと眉を寄せ、一つ咳払いをして自分も広場を後にした。




 五月も終わり、あっという間に初夏の陽気になった。梅雨入り前の風はまだ新緑の清々しさで、外回りの会社員に恵みを与えるかのようだった。

「おお! 毎度辛口、無表情。いいじゃないか」

 “ガルマネ!”編集長・小野は結衣の上げた第三号目の原稿を見て、上機嫌だった。

 結衣が安堵の吐息をついていると、

「次号のページは順調に進行中だ。一安心だな。と言うわけで古屋、これからちょっとタウン誌の方手伝いに行ってくれ」

 小野はニヤリとして言った。

 彼女は渋い顔で、

「ええ~。どんだけ人使い荒いんですか」

と文句を言ったが、無駄な抵抗だった。



 “グルメTokyo”の担当を訪れた結衣は、そこで店の取材を頼まれた。

「“リアルセレブ御用達のカフェ。清修女学院のお嬢様が集うスポット”!? ひえ~、こんなの載せていいのかな。庶民で溢れ返っちゃうよ」

 呟きながら現地に向かうと、早速いかにも育ちの良さそうな女子グループが店から出てきたのを発見した。

「あの、すみません。私、出版社の者なんですが」

 結衣は前を通り過ぎようとする彼女らの一人に声を掛けた。店を取材する前に、客の評判を確かめようと思ったのだった。


「はい」

 素直に立ち止まった彼女の顔を、結衣は思わず凝視した。それは紛れもなく城之内雪菜――光の婚約者だった。

 しっとりとした色白の肌に、薄い化粧を施し、ナチュラルな色のストレートヘアを一糸乱れることなく後ろでまとめていた。アイボリーの上品なワンピースは、胸下にリボンの切り替えがあり、女性らしい清楚な印象だった。

 よく雑誌で見掛けるような、由緒ある家柄のお嬢様そのままだ。


 一瞬引き込まれたものの、すぐに自分を取り戻した結衣は、仕事を続けた。

「このお店をこれから取材するんですけど、よく来るんですか?」

 彼女はパッと顔を輝かせた。

「はい! 大好きで。ランチでもお茶でも、よく来ますよ」

 雪菜の声に、「なになに?」と友人達も取材に協力してくれた。お嬢様方には本当に上々の評判だった。


「皆さんありがとうございました」

 礼を言って顔を上げると、雪菜の無垢な微笑みと目が合った。

 そのピュア過ぎる瞳を見て、結衣は急に彼女が妬ましくなった。外見も内面も、一点の汚れもない純白のビロードのような彼女が、この先も汚れる事なく幸福を――自分には決して手の届かない彼を――何の苦労もなく手にする事が、とてつもなく理不尽に思えた。


「あ、もうひとつだけ、いいですか」

 わかっていて、意地悪な質問を投げた。

「彼氏さんとかは、反応どう?」

 雪菜は答えなかった。

 さっきまでの穏やかな微笑が、心なしか陰った。代わりに他の子が、

「食事はヘルシーで、あまり男の人向けじゃないよね。カレが甘いものが好きなら、カップルにもいいかもしれません」

と答えた。

 結衣は彼女らに重ねて礼を言うと、店へと足を向けた。


 ドアを開けようとして、結衣は一度振り向いた。濃い緑の茂る重厚な石門の奥へと彼女らは消える所だった。

 セレブ令嬢が集まる有名女学院。ジーンズにシンプルなTシャツの自分は、一体彼女らにどう見えているのだろう。

 結衣は胸に手を当てた。

 本人を目の前にして芽生えた、黒い感情――。自分を疑った。

(嫌なことをしてしまった)

 その思いを振り切るように、勢いよくドアを開けた。

 自分の犯した微細な罪が、すぐに大きな反動となって、我が身に返ってくるとも知らずに。




「雪菜、どうしたの?」

 友人に言われて、彼女は顔を上げた。

「講義終わったよ」

 周囲はざわざわと席を立ち始めていた。

「あっ……、ごめんなさい」

 あどけない笑顔を見せたが、心に小さな刺があるのを感じていた。


 彼――婚約者の光とは、ごく(まれ)にしか顔を合わせない。

 最初に両親から写真を見せられた時、心が躍った。

 幼い頃よく読んだ物語のプリンセスのように、彼こそ白馬の王子とばかりに一目惚れした。

 それまでほとんど恋を知らなかった彼女は、光を目の前にするだけで胸がときめき、話をするどころか目を合わせるのも恥じらってしまうような状態だった。


 しかし、婚約してから三年経ち、周囲の友人達は年相応に大人になって行った。

 そうして次第に恋愛というものの現実の形を理解するようになると、彼女は、今の自分と彼の関係に不安を感じずにはいられなかった。


(本当の恋人同士なら、休日の度に会って、食事して……楽しく過ごすはずなのに)

 確かに時折食事やドライブはするが、それはいつも雪菜が何かしら父に光の話をした後のことで、頻度としてもせいぜい月に一度だった。

 それどころか、数ヶ月会わないことも珍しくなかった。


(でもそれは婚約の当初からそうなのだし……。今更それが変だなんて言ったら嫌われてしまうかもしれない。光さんは特別な方で、とてもお忙しいんだもの)

 そう納得して寂しい気持ちを抑えて来たが、本当は光に愛されていると実感したかった。

 それでも、元来ロマンチストで控えめな性格の彼女は、自分からアプローチすることなど、到底出来ないのだった。



 その日、光は夜十時頃帰宅した。広い廊下を自室へと向かっていると、

「光」

 父親から声を掛けられた。

 彼の部屋へ呼ばれ、向かい合ってソファに座ると、父は息子に秘蔵のブランデーを供した。

「まあ、飲め」

「……どうも」

 油断ならない目で光は少しだけタンブラーに口をつけた。

「最近、城之内のご令嬢と会っていないのか」

 登は口を開いた。

 そのことか、と光は合点が行った。

「そう、ですね」

「いつも仕事にかこつけてあまり会いに行かないようだが、本当はそうではあるまい」


 父の威厳に満ちた眼光を、光は真正面から受け止めた。

「頭取が、何か言っておられましたか」

「娘が寂しがっているようだ、と」

「解りました。すぐに連絡を取ります」

 そう言うと、光は立ち上がった。

 部屋を出ようとすると、登は後ろから言った。

「今更、結婚をやめることなど出来ないぞ。向こうは今すぐでもいいと言っているのだからな」

「……解っています」

 振り返らずに光は答え、ドアを開けた。




 次の日曜、光は雪菜を誘って葉山までドライブした。彼女は喜び、それを彼は微笑と共に見守った。

 海の見えるフレンチレストランで夕食を済ませ、彼女を九時に大田区の自宅前に連れて戻った。

「着きましたよ」

 光はサイドブレーキを引いて、声を掛けた。

 だが、彼女は下を向いたまま、降りる気配がなかった。

「どうかしましたか」

 光は、怪訝な表情で訊いた。

 今日一日の彼女は、終始笑顔だった。何も落ち度はないはずだと思った。


 彼女は大きく息を吸うと、真剣な顔を光に向けた。

「婚約者って、恋人とは違うんですか?」

「……」

 光は黙った。柔和な表情しか見せたことのない彼女が今言わんとしていることをすぐに感じ取った。

(彼女も、いつまでも子供ではない――。そう思うのも当然かもしれない)

 正直、どうすればいいか迷った。

 本心を打ち明ければ、自分は楽になれる。だが……。

 光は先日の父の眼光を思い出した。

 と同時に、自分が何者であるかも。選択肢などないのだ。


「――同じ、でしょう」

 そう答えると、雪菜は瞳を潤ませ、震える声で言った。

「じゃあ、――証明してください」

「……」

 光は運転席から身を乗り出すと、彼女の頬に手を添え、軽くキスした。

 ほんのわずかな時間の出来事だったが、離れたとき雪菜は頬を紅潮させて恥ずかしそうに目を伏せた。

 どうやら満足してくれたようだと光は思った。

「じゃあ……また」

 車を降り、照れながら彼を見送る雪菜に、

「いつもなかなか会えなくてすみません」

と光は言った。

 普段の非礼を詫びるというより、今後もこのペースが続くということを暗に示したのだった。

「いいえ。お仕事大変なんですもの」

 だが今の彼女には、それで十分だった。



 車を出すと、光は無性に結衣に会いたくなった。

 毎日の仕事よりも気の進まない用事を終え、精神的にも、とても疲れた。

 赤信号で携帯を手にしたが、大田区から彼女の住んでいる元住吉はそう遠くない。このまま向かおうと思いついた。


 およそ二十分後、彼は結衣のマンション近くのコインパーキングに車を停め、歩いて向かった。

 この街に自分を知るものはほとんどあるまいと思うと、既にとても安らいだ気分だった。

 オートロックシステムどころかエントランスホールすら無い、ごくシンプルな賃貸マンションの三階で、直接彼女の部屋のインターホンを鳴らした。

 が、すぐに応答がないので、光は不安になった。


 しかしその直後、ガチャッと解錠する重い音とともにいきなりドアが開き、驚いた結衣の顔が出迎えた。

「どっ……どうしたの?」

 Tシャツにパイル地のショートパンツというラフな出で立ちは、休日の夜を一人気ままに寛いでいましたと言わんばかりだった。

「鳴らしたのに返事しないなんて、ひどいじゃないか」

 玄関で靴を脱ぎながら、光は不平を言った。

「だって、夜の十時だよ。不審者かもって、危険を感じるのがフツーでしょ。相手を確かめなくちゃ出れないよ」

「別に確かめてないじゃないか」

「覗き窓だよ。知らないの? これ」

 結衣はドアの小さな穴を指して言った。

「うちのドアにはないような……」

 真面目に呟いている光を結衣は笑った。

「本当、世間知らずね」


 狭い玄関を上がると、すぐ脇にユニットバス、その向かい側にミニキッチンがあり、ダイニングスペースとも通路ともつかない微妙な広さの空間の、すぐ奥が結衣の自室だ。

 が、当然散らかっているし、物は所狭しと置いてある。結衣は頭を押さえた。

「言ってくれれば、もう少し片付けたんだけど……」

と、こぼしかけたが、振り返ってあまりにもこの場にそぐわない容姿の光がキョトンとした顔で立っているのを見ると、気が抜けてしまった。

「光さんから見たら、ま、大して変わらないか」


 彼は部屋を見回して、

「相変わらず狭いね」

と言いながら、窓際のベッドに腰掛けた。

 以前に何度か来たことがあるが、社長になってからは初めてで、ごく久しぶりだった。

「あの代官山の部屋に住めばいいのに。ここより会社にも近いだろ」

 結衣は床に散乱していた本や雑誌をざっと片付けながら、

「そんなわけに行かないよ」

と笑った。

 それから立ち上がって、

「何飲む? お酒はダメだよね……」

と、キッチンに向かおうとした。


「――いらないよ」

 光は結衣の腕を掴んで引き寄せた。

「君に会いに来たんだから……」

 突然で、劇的すぎるシチュエーションに、結衣の胸はいつも以上に高鳴った。


 だが、抱き合った時に彼の服からふわりと花のような優しい香りを感じて、その弾む高鳴りは鬱蒼と沈んでしまった。

 香水を好まない彼が香りをまとっている理由は明らかだった。

 そしてその相手も、一人しかいない。

 結衣の胸に先日と同じ暗い嫉妬心が湧き上がり、彼の背中に回した腕に力を込めた。

 それに反応するように光は彼女の髪に頬をすり寄せ、唇をつけた。包まれるようなぬくもりに、結衣は目を閉じた。


 そして言い聞かせるように、頭の中で繰り返した。

(別に平気。最初から分かっていることだ。――いつか、別れるのは私の方なんだ)

 今は、自分を選んで来てくれたことだけに、喜びを感じればいい。そう思った。

「結衣……愛してる」

 彼女を抱き、その肌に顔を埋めて彼はうわごとのように繰り返しそう言った。

 いつもより濃厚な時間だった。絡み合う深さも、感情の渦も。


 その恋が刹那だと、今夜、互いに強く感じていたからだろうか。結衣はまるで激流に流される小枝のように、夢中で身を任せた。

 それでも、得体の知れない生き物のような不安感はいつも以上に増して、どの瞬間にも、決して拭い去ることが出来なかった。



 会い続ける限り、この生殺しのような苦痛はずっとつきまとう。甘く優美な香りで誘う、麻薬に似たひとときと引き換えに。



お読みいただき、ありがとうございました。

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