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第1部 7.木籐、気づく

ガラケー時代の都内近郊ラブストーリーです。


わずかな偶然から、木籐が、結衣と光の隠された関係に気付きます。


よろしくお願いします。


 新年度の浮き足立った世間も、やっとその足が地に着いたかという頃、木籐のいる調査部では新人歓迎会が企画された。

 幹事は一般事務員の鈴木志麻で、三十人規模の飲み会のセッティングを、彼女は密かに喜んで受けた。


 酒も騒ぐのもあまり得意でない彼女は、普段会社の人々との飲み会を何かと理由を付けて断っているのだが、今回は特別だった。

 多忙な木籐が部署の飲み会に参加するのは(まれ)で、志麻の知る限り、歓送迎会に限られていた。普段も個室で一人作業をしているので、彼と個人的に親密になろうとするのは、男女に関わらず難しい状況にあった。


 基本的には女性から特に人気のない木籐だったが、志麻は、以前コピー機の不具合で困っていた所を助けられ、淡い恋心を抱いて来たのだった。



 水曜の夕刻、彼女の予約した店に、仕事のキリをつけた社員達が続々と訪れた。

 ダイニングバーで広めの個室を借り切り、二つの長テーブルに別れて座るような配置だった。

 志麻は前もって、仲の良い同僚の沙和子に頼み、自分が木籐の隣になるよう工作してあった。


 しかしてその通りの席順となり、志麻も心弾む思いで乾杯の挨拶を木籐に依頼し、午後七時、無事歓迎会がスタートした。

「木籐さん、どうぞ」

「ああ、悪いな」

 志麻は、天にも昇る気持ちで彼のグラスにビールを注ぎ、料理を取り分けたり、かいがいしく世話を焼いた。


 だが、開始後三十分程で、木籐の携帯が鳴り、急遽彼は早退することになった。

「悪いな。支払いの足しにしてくれ」

 荷物を手にして席を立つとき、志麻に五万円渡した。

「えっ、こんなに……」

 戸惑いもあり遠慮しようとしたが、近くに座を占めていたほろ酔いの中堅社員達がすぐに、

「あざーっす」

と、頭を下げて彼女の代わりに受け取った。

 そして木籐はさっさと店を出てしまったが、志麻は幹事で帰ることも出来ずに、当てが外れてがっかりだった。




 クライアントに呼び出された木籐が仕事を終えたのは、九時過ぎだった。

 それなりに早い時間だが、飲み会などに戻る気は全くなく、直接自宅へと向かった。


 渋谷から歩いて代官山方面へ帰る途中、少し前方に、自分と同じような会社員風の男が歩いていた。

 なんとなく距離を保ったまま後ろを歩いていると、ふとその男がポケットから携帯を手にした。

 その瞬間、ぽろっと何かが落ちたのが見えた。


 彼はそのまま歩きながら電話をしていて、落とし物をしたことに気づいていないようだった。

 木籐は、何も考えずにそれを拾った。

 見れば、翼の形をした、銀色の小さなアクセサリーだった。


 彼が電話し終えたのを見て、木籐は後ろから声をかけた。

「失礼。落としましたよ」

「え?」


 振り返った顔を見て、木籐は、内心で驚愕した。

(た――高宮光)

 金融業界に明るい者なら、誰もが知る男だ。

 いや、今や一般人にも認知度は高い。高宮グループ後継者で、自身もその関連会社社長を務めている。

 仮に会いたくても、そう簡単に会える人物ではない。

(まさか、こんなところで普通に独り歩きしているとは)

 ――などと思っていることは、もちろん顔には出さずに、

「これです」

と、拾ったものを見せた。


 不思議そうにそれに目を落とした彼は、

「……あっ! すみません、僕のです! ありがとうございます」

と狼狽気味に言い、ずいぶんと丁寧に受け取った。

 まだ手に持ったままだった携帯のほうも確認して、

「金具が取れてしまったのか……。失くさなくて良かった。本当にありがとうございました」

「いえ」

 再び礼を言い、最後にお辞儀をし、彼は元の進行方向へと戻っていった。


 木籐にはすべてが意外だった。彼がこんなところにいることも、礼儀正しい人格者だったことも。加えて――、

(あのアクセサリー、彼のような財力の持ち主が、後生大事にする程のものか?)

 ある意味、木籐にとってそれが最も違和感だった。

 確かに、木籐自身は宝飾品に特に詳しくはない。むしろ興味すら薄いから、あれが実は、失ったら二度と手に入らない、とてつもなく価値の高いものだと言われれば、納得するしかないのだが。


 ふと気付くと、前に光はもういなかった。

 この先には、曰く付きのデザイナーズマンションがある。この辺りでは有名な建物だが、コンシェルジュ付きの超高級物件という以外、中身が全く分からない。ほとんどの住居は、常住していないらしいという噂だ。

(なるほど、さては別宅か、女でも住まわせているのか。――あの外見なら、恋人など星の数程いそうだがな)

 木籐は珍しく下世話なことを思いついて、自己嫌悪したように首を振った。


 だが数歩進んで、再び足を止めた。

 急に何かが引っかかった。

 水曜の夜、代官山……。

(いや、まさか)

 自ら笑ってみたものの、笑い切れない何かが心の中でくすぶっていた。



 その思いは、以来ずっと彼の胸の奥に腫瘍のように異物感を発しながら存在し続けた。

 結衣とは半月前九段下で食事して以来会っていない。仕事の関わりも終わった今、会う機会も理由もない。


 だが、

 ――今度代官山で見かけても無視してください――

 あの意味深な台詞が胸の違和感を一層強めていた。

(他人のゴシップなど……くだらない)

 そう考えて思考を打ち消すが、しばらくするとまた同じことを考えている自分に気づく。そんな毎日が続いた。



 しかしある日曜、サッカークラブに、

「こんにちは」

 結衣はひょっこりと現れた。

 毎度の如く、稲葉の下にも置かないもてなしぶりに苦笑する彼女に、木籐は珍しく自分から声をかけた。

「君の雑誌は好調らしいな。このところ忙しいのか」

 元気よく振り向いた彼女のポニーテールが軽やかに揺れた。仕事のときと同様のハツラツとした表情は、この季節によく似合っていた。


「ええ、次号からのネタ探しと他雑誌のヘルプで、あっちこっち行ってます。今日は気分転換と、体力作りさせてもらおうと思って来ました」

と、結衣は快活な笑顔を浮かべた。

「次号もかなり自信あるんです。この前、たまたま伝手があって、未来計画の日村社長に取材できたんで」

「未来計画……。郊外型レジャータウンを次々と成功させているな。若く優秀な男だ」

「さすが、よくご存知ですね。――あ、でも他言無用でお願いしますね。まだ制作中なんで」

 そう生き生きと仕事の話をする様子は、何度か見掛けた夜の彼女とは全く別の雰囲気だった。


 木籐は不思議な気持ちで彼女を見ていた。

「あ、そうだ。差し入れ、前の倍くらい作って来ましたよ。今度は木籐さんも食べてくださいね」

 ベンチに置いた大きなトートバッグを結衣は指差した。

「……」

 気の利いた返事の思いつかないまま彼が黙ってしまうと、彼女はそれを気に留めた様子もなく、遠くで元気よくボールを追いかけている少年達に目を向けた。


 その後、結衣はボール拾いを手伝ったり、休憩中には子供達と戯れたり、終始清々しい表情で過ごした。練習が終わって、皆で差し入れを喜んで食べているのをにこにこしながら眺めていた。

 季節も穏やかで、運動のあと野外で食べる弁当は誰にとっても格別の味だった。再び見事に空になった弁当箱を満足げに片付けている結衣を盗み見ながら、木籐は先日から自分が疑っている憶測について、次第にばからしい空想だと思うようになった。そして何となく心の平穏を取り戻した。



 クラブが解散して結衣も引き上げると、稲葉が木籐の肩を叩き、意味深な笑みを浮かべた。

「なあ、うちのクラブにマネージャーが必要だと最近思うんだ」

 木籐は無言で眉をひそめた。

「結衣ちゃんに来てもらえるように、お前誘えよ」

「そう思うならお前が頼めばいいだろう」

 稲葉の魂胆をすぐに見抜き、木籐は不快そうに言った。

「オレ連絡先知らねーから」

 稲葉はわざととぼけて、

「都合つくときでいいからさ。簡単だろ? ――ま、ノーギャラだけど。何だったらお前が払ってやれ」

と冗談まじりに白い歯を見せて笑った。

 そして鼻歌を歌いながら先にグラウンドを出た友人を見送りながら、木籐は肩をすくめた。




 月曜、結衣が出社すると、編集長の小野が不自然に丁寧な物腰で声をかけて来た。

「古屋、俺は日頃からお前は優秀な奴だと思っている」

「……どうしたんですか、編集長」

 結衣が気持ち悪いものを見るように彼に目を向けると、小野は一度咳払いして続けた。

「実は、創刊号の木籐氏の記事がかなり評判でな」

「ありがとうございます」


 改まっての物言いに結衣が首を傾げていると、

「上からの要望もあって、あれを連載にしようということになったんだ。で、ユナイテッドの広報には俺からさっき話通したから、後はお前が木籐氏に上手く調整取ってくれ」

 小野は種を明かすように結論を言った。

 それを聞いて、やっと結衣は納得したと同時に、異論を唱えた。

「今からですか? 次号分の金融マンコラム、別の人で進んでますよ。それに、それって本人に話通ってないってことですか? 間に合わないかも知れませんよ、お忙しいみたいですから」


 すると小野は急に厳しい顔になって、

「それはそれで載せりゃいい。とにかく次号から毎号木籐氏の辛口コラムを載せることになったんだ。だからお前、今日とりあえず会って来い。ランチ代くらい出してやる」

と、結衣に無理矢理千円札を渡し、デスクに戻ってしまった。大方上層部に持ち上げられて後先考えずに安請け合いしたに違いない、と結衣はしかめっ面でその太い背中を睨んだ。

 それからそのしわしわのお札を眺めて溜息をついた。

「これ二人分? 牛丼屋しか行けないんですけど……」

 隣のデスクで、はるかが吹き出した。


 渋々結衣が木籐にアポイントを取ると、思ったより簡単に彼はランチに応じた。

 ひとまず安堵して、用件は会ってから話そうとパソコンで簡単な企画書と今回のスケジュールを作った。

「ギリギリだなぁ……」

と結衣が呟くと、はるかが覗き込んだ。

「大丈夫、もしキツかったら他の記事代わってあげるよ」

「というかむしろ、木籐さん次第なんですけどね……」

 あごに指を当て、結衣は思案顔で答えた。前回の時、忙しい彼の都合に入り込むのに一番苦労したからだ。創刊号は十分に時間があったから、こちら側で融通が利いたが、今回は数日のずれで入稿が危うくなるほど余裕がない。



(出来れば今日、ランチの流れで取材出来るといいんだけど)

 そう考えながら新宿に着き、先に店の中で席を確保して彼を待っていた。サラリーマンに人気の手頃な和定食の店で、早めに入った結衣の後からも続々と客が流れ込んで来ていた。


 程なくして木籐が現れ、彼女は立ち上がって、

「わざわざすみません」

と挨拶をした。

 彼は相変わらず無口で無愛想で、一瞬目を合わせ、

「いや」

と一言発しただけで着座した。

 結衣は苦笑しつつ、

「まずは注文しましょうか」

 木籐にメニューを差し出した。


 互いに注文を終え、一息ついた所で結衣は本題に入った。

「あの、実は今日は新しいお仕事の件でお呼び立てしました。広報の方から連絡行きましたか?」

 木籐はコップの水を一口飲むと、

「いや、何も」

と、素っ気なく言った。

 結衣は内心がっかりして、作って来た企画書の入ったクリアファイルを渡した。

「要はまた取材させていただきたいんですが……」


 途中まで説明した所で、結衣の携帯が振動した。ファイルを手にした木籐もそれに気づいて顔を上げたので、

「すみません、会社からです。ちょっと失礼します」

 結衣は携帯を手にして席を立った。


 その時、彼の目にその携帯から下がったシルバーのチャームが飛び込んで来た。

 スワロフスキーの輝く、翼のような形。その形を意識して見たのは二度目だった。

 木籐の頭の中が、強い照明を受けたように真っ白になり、そしてすぐにそれは引いて行った。


「――すみませんでした」

 電話を終えて結衣が席に戻ると、テーブルに頼んだ料理が二つとも来ていたが、彼は手を付けていなかった。それを見て、

「待っててくれたんですか? 何かすみません」

 結衣は嬉しそうに微笑み、

「じゃあいただきましょうか」

と箸を取った。


 何口か食べ進んで、それでも動かない彼に気づいて、

「あのー、冷めますよ」

 首を傾げながら声をかけた。

「ああ……そうだな」

と、木籐はやっと姿勢を直し一度食事に向かったが、やはり箸を取らずに口を開いた。

「君は先日、未来計画の社長に取材できたと喜んでいたが、都市開発についてはどう思う?」

「え……、急ですね」

 唐突な問いに、結衣はやや驚いて食事を飲み込んだ。


 木籐は続けた。

「新都心開発では、今一番勢いのあるのは高宮エステートだ。本社の社長は言わずと知れた不動産界の重鎮・高宮登だが、グループ企業のTKプランニング、社長はその二十八歳の御曹司だ。若き才能と言う意味では、君の目指す取材対象にぴったりだな」

 彼はまくしたてるように一息で言ったが、結衣は途中から表情を失くし、持っていた箸を置いた。

「まあ……そうですね」

「何故取材しないんだ。いつも次のネタを探しているんだろう」

 木籐は重ねて言った。


 結衣は、彼が今投げかけている本当の問いを感じないわけにはいかなかった。しかし、それ自体が信じ難いことだった。代官山で数度遭遇しただけで、そこまで見抜けるものだろうか。一流証券会社の調査員とは、こんなにも油断ならないものなのか。

 恐怖とも畏怖とも言える思いが体中を支配し、強張らせた。

「――若社長は、マスコミ嫌いで有名ですから、うちみたいな雑誌に応じてはくれないでしょう」

 証拠があるわけではない。悪あがきかもしれなくても、簡単に認めるわけにはいかなかった。

 ――いや、例え証拠を羅列されたとしても、真実を言うことは出来ない。光の立場がある限り。


 だが、結衣の即座の決心をいとも簡単に打ち砕くが如く、彼はすぐに質問を変えた。

「水曜の夜、君が代官山にいるのは……高宮光と会っているからなのか」

 思わず結衣は顔を逸らした。

「……プライベートな事にはお答えしません」

 木籐にとっては、認めたも同然だった。


 重い沈黙が漂った。

 先に木籐が口を開いた。

「悪かった。知ってどうしようとも思っていない」

 その言葉で、結衣はギリギリの平静を保った。

「いえ……。木籐さんは、信頼できる人だと思っています」

 そして肩で息をつくと、

「すみません。――お先に失礼します」

 財布から千円札を出して、テーブルに置いた。これ以上この男の前で時を過ごすのは恐怖だった。

 残った木籐は、苦渋の表情で目の前の空席を見つめた。

(――どうして――、あんな問いつめるようなことを言ってしまったんだ)



 帰社した結衣は、すぐに千円札を小野のデスクに置いて、

「すみません、やっぱり無理です」

 神妙に言った。小野は一瞬ポカンと彼女を見上げると、次に顔を真っ赤にした。

「馬鹿野郎! ムリって何だ! 白紙のページ載せる気か!?」

「――すいません」

「ああ、もういい。――おい、竹沢! お前明日行って来い」

 小野は結衣を見限ったように遠くのはるかに声をかけ、乱暴にタバコを掴んでデスクを離れた。


 すぐにはるかが立ち上がって、その場に残った結衣に近づいた。

「どうしたの? 古屋らしくないじゃん」

「すいません」

 少し笑顔に戻って、結衣はまた謝った。

「大丈夫だよ、旧友パワーであたしが話つけてくるよ。そしたら編集長もゴキゲン直るって」

 はるかは頼もしくうなずいたが、結衣は複雑だった。



 翌日、はるかは木籐のブースに来ると、友人らしく気の置けない態度で勝手にミーティングテーブルの椅子を引いて座った。

「今日は何の用だ」

 木籐が聞くと、

「だから連載の話よ。どうしてもダメ? 広報がいいって言ってるんだからさ……」


 はるかは最初から非難をにじませた。すると彼は何でもないことのように、

「断った覚えはないが」

と言い放った。はるかはハトが豆鉄砲を食らった時の顔で、

「ええ!? だって古屋、ダメだったって昨日編集長にめっちゃ怒られてたんだよ」

 今度は完全に彼を非難した。木籐は結衣の企画書をもう一度流し読みしながら、

「それは悪いことをしたな」

と平然と言った。


 はるかは呆れて、首を振った。

「全く、どうしてそう行き違うわけ? 相変わらずねぇ。言葉も態度も足らなすぎるのよ、木籐くんは。だから優子だっていなくなっちゃったんじゃない」

 木籐が反応して書類から顔を上げると、はるかはハッと口を押さえた。

「ごめん、つい……。まだ気にしてた?」

「いや。――大昔の話だ」

 顔色を変えずに、彼は読み終えた企画書をクリアファイルに戻した。


 はるかはホッとしたように微笑み、それから両手で頬杖をついて窓の外を眺めた。

「もう七年も前だもんね。社会人になるとあっという間だね。あたしも今頃は彼と結婚してるハズだったんだけど」

 溜息まじりに、独り言のように呟いた。

「全く、それこそ八年も付き合ってるのに、未だにプロポーズの気配もないし。木籐くんに限らず、男って生き物は鈍いのかなぁ」

「――そもそも、何故そこまで結婚したがるのかが分からん」

 はるかの愚痴に同情もせずに彼は答えた。


 それを聞いて彼女は大げさに頬を膨らませてむくれ、

「グチる相手を間違えたわ」

と立ち上がった。そして自分の使命を思い出したように、真面目な視線を彼に向けた。

「じゃ、連載の方よろしくね。担当、どうする? ウチとしては、古屋を推したいんだけど」

 少し間を置いて、

「彼女で構わない」

 木籐は答えた。

「でしょ? あたしの有能な後輩だから」

 はるかは満足そうに頷いた。

「スケジュール見たでしょ。多少忙しくても、都合つけてあげてよ。一日分のロスの代償ね」

 最後まで友人らしく上からものを言って、手を挙げて去って行った。



 はるかが辞すると、木籐はパソコンに向かったが、画面を見ずに思案に耽った。

 大学時代に付き合った優子。ゼミが同じになる前から、構内で会うと何となく微笑んでくれていた彼女。同じゼミに入り、何度か話すうちに彼女の好意を感じ、自分もまたそう言う思いを彼女に対し持っていると感じるようになった。二十歳を過ぎた程度でいっぱしの大人のつもりだったから、すぐに深い仲になった。

 しかし、恋人の存在と学業や将来のビジョンは、木籐にとって当然ながら全く別次元のものだった。そして彼は、それは他人に於いても真理だと信じていた。


 だが優子は違った。

「木籐くんは、最初から私のことなんか好きじゃなかったんでしょ」

 別れるとき、彼女は言った。

 ――そんな事はない――

と、彼は即答できなかった。優子は傷ついた目をした。

「木籐くんに、勉強や夢より大切なものなんてないもんね。――私、大学辞める。今の生活全部捨てて、あなたのことも忘れて、自分をリセットしたい」

 彼女は涙を見せて、それからわずか半月後、本当に大学を辞め、カナダに行ってしまった。四年生の春のことだった。


(あいつは一体オレに何を求めていたんだ)

 残された木籐に、答えの見つからない疑問だけがくすぶった。

 トラウマなどと言う気はない。ただ、今はもうパートナーが必要だとは思わない。

 木籐は眼鏡を外して目頭を押さえた。

 少し疲れた。――昨晩、あまり眠れなかったせいだ。

(……)

 目を閉じると、覚悟を秘めたような強い眼差しが瞼の裏に浮かんだ。

 それは、優子や、他の誰とも全く種類の違う存在感で、昨日からずっと彼の脳裏を支配していた。


 コンコンとノックの音がした。

 軽く返事をすると、

「あの、コーヒーをお持ちしました。川田さんがお休み明けで、お土産のチョコレートを配っていたので……」

と、志麻はトレイを持って中に入った。

「ああ、ありがとう」

 木籐は目を押さえていた手を離し、彼女の方を見た。視界の中の余りにボヤけた風景に、すぐに眼鏡をかけ直した。

 もう一度目をやって、ぼうっと立ち尽くしている彼女に、

「そこに置いておいてくれ」

とデスクの端を指差した。

「は、はい」

 その通りにして、彼女はすぐにブースを出た。

 木籐はその後ろ姿にふと視線を向けて、

(そう言えば、彼女は何となく優子に似ている)

と思った。


 席に戻った志麻は、少し頬を染めていた。

 隣の沙和子に、

「ねえ、木籐さんがメガネ外したとこ、見た事ある?」

と、小声で聞いた。沙和子は、

「ないよ。だって超近眼で乱視で、メガネないと何にも見えないんだって、皆言ってるよ」

と、当然のように言った。

 志麻は笑いたいのを悟られないように、唇を結んだ。

「そうだよね……」

 自分だけが見た彼の素顔を、他の誰とも共有したくはなかった。




お読みいただき、ありがとうございました。

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