第1部 5.木籐の私生活
ガラケー時代の都内近郊ラブストーリー、第5話です。
木籐と結衣のプライベートが、また少し交差します。
よろしくお願いします。
三月も終わりに近づいたある日の、夜十一時を回った頃、木籐はやっとのことで代官山の駅に降り立った。
上司に強引に引っ張り出されたが、このところ睡眠不足で疲れ気味だったためか、思いのほか酔いが回った。それでも引き止めようとするほろ酔いの上司を、半ば振り切るようにして帰路に着いた。
自宅まであともう少しなのに、電車で少しウトウトしたのが悪かったのか、足取りは更に重くなり、目眩もひどくなった。頭を押さえながらフラフラと道の端に寄ると、
「……あの……、大丈夫ですか?」
知った声を耳にした。木籐はこめかみを押さえた指の隙間から一瞬目を向けると、
「また君か……」
と呟いた。
結衣は、本音はここでまた木籐と鉢合ってしまうのは避けたかったのだが、彼があまりに具合悪そうだったので、思わず近寄ったのだった。
木籐は心配顔の彼女を見て見ぬ振りをして、そのまま立ち去ろうと足を踏み出した。が、足元は完全に覚束なくなっていた。
「危なっ……」
反射的に結衣が体を支えると、強いアルコールと香水の匂いが彼女の鼻を突いた。合コンか何かの帰りだと思った。
「もう……。木籐さんでもこんなことあるんですね。意外でした。――いや、意外と普通と言うべきか……」
呆れつつ、呟くように話しかけると、
「……悪い」
「えっ?」
「……気分が、悪い」
「……えっ!?」
成り行き上、放って置けずに、彼女は木籐を支えながらマンションまで歩いた。
幸か不幸か、場所は先日の件ですでに知っていたので、労力は最小限で済んだ。
が、それにしても、
「重~っ」
長身の木籐は結衣には重すぎた。本人は立って足を動かしているのがやっとで、八割方彼女に凭れていたので、ドアの前に着いた時には、結衣まで息切れしていた。
「つ……着きましたよ」
その言葉で、何とか自分で鍵を開けて中に入ると、彼はいきなりトイレに駆け込んで吐いた。
玄関で息を整えながら結衣は更に呆れたが、このまま放置して帰るのも何だか気が引けて、ついて行ってジャケットを脱がせてやり、背中をさすった。
「そんなに飲んじゃったんですか……」
沈着冷静な彼の新たな一面にある意味感心しながら、室内に冷蔵庫を発見し、コップに水を入れて持って行ってやった。彼は少しそれを飲んで、力尽きたようにトイレの壁に寄りかかって動かなくなった。
「え、ちょ、寝てます? 木籐さーん、ちゃんとベッド行った方がいいですよ」
普段の自分を棚に上げて、結衣は彼の肩を叩きながら至極まともな助言をした。
が、目を閉じてうなだれた彼は、無反応だった。
「……また運ぶか……」
結衣は溜息まじりに呟いた。
ベッドルームは冷蔵庫のあったLDKの更に奥にあり、さすがに年収一千万越えの独身貴族だけあって、この立地でもゆったりとした広さの間取りだった。
(今はそれがアダになってるけどね)
そのままトイレで眠りかけている木籐の上半身を背中から抱えるように引きずって、ずるずると何とか部屋まで運んだ。
彼に、もはや意識はないように見えた。
さすがにベッドの上に乗せてやるのは、どう考えても無理だった。それで、床の上だがなるべく楽に寝られるようにと、結衣は彼のネクタイとボタンを外し、ベルトを緩め……、ふと手を止めた。
「何やってんだろ、私……。これじゃあ寝込みを襲う肉食女子だよ」
独りごとを言って自分を冷笑し、
「ま、でも木籐さんも覚えてないよね」
と、彼の靴下を脱がし、最後に毛布をかけてやった。
(あ~、疲れた)
脱力してその場に座り込むと、眼下に木籐の顔があって、
「あ、そうか」
と眼鏡を外した。
当然ながら本人は無防備に目を閉じている。
「メガネ、サイドテーブルに置きますよー」
耳の遠い高齢者に話すように、大きめの声で言うと、彼はうっすらと頷いた。
結衣は苦笑しながら、
「わかってんのかなぁ」
と彼の寝顔を見下ろした。
今まで見た事のある彼とは全く違って、その顔はどこかあどけなく、可愛らしかった。結衣は子犬でも撫でるように、額を覆う長い前髪をサイドに流してやると、
「おやすみなさい」
と、静かに部屋を出た。
「……どうしたんですか」
その2日後、結衣は木籐からランチの誘いを受けた。
「空いているか」
「空いていますけど……」
「じゃあ、後で」
九段下まで来てくれるというので、結衣は少し春めいてきた空気の中を、散歩気分で歩いて向かった。
店の前で立っていた木籐に声をかけると、彼は照れたように目を逸らし、すぐに店内へと彼女を促した。
テーブルに着いて対面に座ると、
「――先日は、世話をかけて済まなかった」
恥を忍ぶように、仏頂面で言った。
「覚えてたんですか?」
結衣は驚いて声を上げた。
「飲み過ぎても、記憶を無くした事はない」
「――大丈夫ですよ、お酒の失敗なんて、誰にだってあることですから」
思い出すと少し可笑しくて、結衣が含み笑いで慰めるように言うと、彼は更に険しい顔になった。
彼のプライドをこれ以上傷つけまいと、結衣は慌ててメニューを開いた。
「何にしようかな……」
パスタランチを注文すると、料理を待つ間、長い沈黙が出来た。結衣は、何か話そうと思うのだが、
(参ったなぁ。この前の事しか頭に浮かばない)
結衣が困りつつ外を眺めていると、木籐の方が口を開いた。
「そういえば、水曜日、君はいつもあの近所にいるんだな」
「え……」
急に思いがけないところを突かれ、結衣は焦った。
確かに、光の呼び出しはほとんどが水曜か日曜の夜だった。
「前に車で送ったのも水曜だった」
木籐は更にダメ押しした。
結衣は、以前一度聞かれて、行っていないと嘘をついた事を思い出した。それすら嘘だと見抜かれているなら、もう、ごまかしはきかない。
「ええ……、時々用事があって」
返答に困りつつ、その場しのぎの曖昧な表現をすると、
「あまりいい用事ではなさそうだな」
木籐は言った。
「――どうしてですか?」
驚いて、結衣は思わず訊いた。
「見かけるときはいつも、仕事の時とは違う、暗い顔ばかりしている」
「……」
どう答えたらいいのか分からなくなって、結衣は沈黙した。
話題を変えようにも、そのアイデアは相変わらず浮かばない。
幸い、程なく料理が運ばれて来て、二人は少しの間、無言で食べた。
だが、結衣は途中で腹をくくったように一度カトラリーを置くと、真剣な顔で言った。
「もしも……、今度また私を見掛ける事があったら、その時は無視してください」
――木籐の口にした事は、見たままの事実に過ぎない。
それが自分や光を脅かすとは到底思わなかったが、結衣は直感的に、彼にはストレートな要望を述べた方が伝わる気がした。
彼は無言だった。
だが特に拒絶も感じられなかった。
数秒後、結衣は笑顔に戻って、
「そんなに出没しませんけどね」
と、あえて冗談めかして言った。
食事が済むと、木籐が会計をし、二人は店を出た。
「ごちそうさまでした。本当にいいんですか?」
結衣が申し訳なさそうに言うと、
「そのために呼んだんだ。世話になりっ放しじゃ、気が休まらないからな」
無愛想な返事が返って来た。
しかしそれは、感謝を素直に伝えられないだけなのだと結衣は気付いた。
「お気持ちはよく分かりましたけど、お金なんてかけなくていいですよ。一言ありがとうと言っていただければ十分です」
屈託のない笑顔でそう言うと、木籐は不器用を形にしたような仏頂面になって、
「済まなかったと最初に言っただろう。それに、君のランチ代など大した出費じゃない」
と、説教じみた口調で言った。
結衣は吹き出したいのをこらえながら、
「そうでしたね。でも、もうあまり飲み過ぎないでくださいね」
と、あの晩のあどけない寝顔の持ち主に、親心溢れる一言を残したのだった。
木籐が会社に戻ってデスクにつくと、程なくしてノックも無く女性が入って来た。
「随分早く昼食に出たのね。誘おうと思ってたのに」
ネイビーのスリムなスーツをサラリと着こなし、開いたシャツの襟元にシンプルなダイヤモンドのネックレスを光らせた、キャリアウーマン的な容貌の彼女は、ウェーブのかかった豊かなロングヘアを手で後ろになびかせながら言った。
「この前、大丈夫だった? あなたがあれくらいのお酒で酔うなんて……。余程疲れていたのねえ」
木籐はまた思い出して苦渋の表情を浮かべた。
「そう言ったでしょう。それを承知で強引に飲ませたのはあなたです」
彼女はその返事を聞いていないかのように澄まし顔で彼のデスクに目をやり、そこにあった雑誌に目を留めた。
「あらこれ……」
以前結衣が置いて行った“ガルマネ!”の創刊号だった。
パラパラとめくって、木籐のページで止まって流し読みすると、
「面白く出来上がってるじゃない。写真も上手く撮れてるし。口下手なあなたなんか取材してどうなるかと思ったけど、あの子なかなかやるわね」
と、感嘆した。
それを聞いた彼は呆れた溜息をついた。
「それだって副社長が強引に決めたんでしょう。社長も広報も、オレは向いてないから他の奴にやらせようって言っていたのに」
「ふふふ、そうだったかしら? でも元々あなたの知り合いが、あなたに持って来た話よ。まあいいじゃないの、こうしていい形になったんだし」
無責任にそう言うと、副社長――手塚美利枝は雑誌を閉じて無造作にデスクに戻した。
それから数歩、木籐に歩み寄り、やや声を落とした。
「今夜、空いているわね。――この前の埋め合わせよ」
当然のように言う彼女に、彼は一瞬何かを言おうとして顔を上げた。
「――」
だが、すぐに飲み込んだ。
「どうしたの」
怪訝な様子で美利枝は聞いたが、
「いや、何でもありません」
彼はもう答えなかった。彼女はそんな木籐に隙のない眼差しを投げて、
「じゃ、後でね」
とブースを去って行った。
お読みいただき、ありがとうございました。