第1部 4.光の現在
ガラケー時代の都内近郊ラブストーリーです。
光の視点メインの現在を書きました。
よろしくお願いいたします。
光は幼少期からの世話役、篠田訓久にだけ、結衣との関係を話していた。
篠田は光が物心つく前から高宮家に仕える執事で、温厚で控えめながら、鋭い観察眼で主の欲求を迅速かつ着実に満たす優秀な男だった。
また、光に対しては父母のような愛情を持ちつつ、毅然とした態度で彼の半生を共にして来た。光にとっては、この高宮家で親や姉妹よりも関係が濃く、唯一心を許せる相手だった。
その光の現在を、篠田は複雑な思いで見守っていた。
光が結衣を好きになってしまった事を初めて吐露したとき、正直なところ彼は喜んだ。
昔から何に対しても執着というものを持たず、周囲から求められる課題をただ黙々とこなすだけで、それまでの光の人生はまるで高宮登のマリオネットのようだったからだ。
頭の良い光は、早くから自分の将来が決まっている事に厭世観を持ち、心の底にある強い反発をいつも押し殺していた。その様子を傍らで憂えながらも、篠田は光にどのような救いが必要なのか分からなかった。
だが、彼女との付き合いが光を変えた。
悲観的な態度が薄れ、他者への気遣いが生まれた。
篠田は息子のような彼の成長を、驚きと共に嬉しく感じていたのだ。
――それが今、全く別の局面を迎えている。
光が高宮エステートの子会社、TKプランニングの社長に就任しておよそ一年が経ち、彼女との関係の難しさは時を経るごとに増していた。
どのような理由があろうとも、結衣を正式に高宮家に迎える事は出来ない。このことは、篠田だけでなく光自身も、十分解っている。
仕事を離れると、光は毎日のように自室の窓際で物思いに耽っていた。
窓からは、白木蓮の清楚な花がまるで小鳥のように楽し気に枝に咲き誇っているのが見えた。
「もしも……」
彼はぼそっと口を開いた。控えていた篠田が、数歩彼に歩み寄った。
「もしも、結衣と結婚したら、僕は全てを失ってしまうのかな」
窓の外に目をやったまま、光は呟いた。その遠い目は、篠田の心を射るようだったが、彼は穏やかに、諭すように言った。
「左様かと……。どのような形をとろうとも、高宮家や世間から認められるものではなかろうと存じます。苦境を強いられる事になりましょう」
光は深い溜息をついた。
「彼女と、これからも一緒にいたいけれど……」
「残念ですが、住む世界の異なるお方です。いずれお別れになるのが、お互いの幸福のためかと」
「――もう、下がってくれるか」
「はい」
篠田は一礼すると、音もなく立ち去った。
光は頬杖をついて白木蓮を眺めた。
(あれが本当に小鳥だったら、いつでも自由に飛び立てるのだろうな……)
携帯を手にした。
別れなくてはと思えば思う程、会いたくなってしまう。
結衣はメールを見た。
このところ、以前より呼び出しが増えている。
その度に、心が揺れる。ただ好きで会いたい、では済まされない現実がある。たった数時間のうちに、天上から奈落へ沈むその苦しみを味わうのは、いつも勇気が必要だった。
(この前は、たまたま木籐さんが通りかかって……)
もし声を掛けられなかったら、あのまましばらく立ち上がれなかっただろう。
(――)
結衣は決心して返事を書いた。
『ごめんなさい。今日は行けない』
断ったのはおそらく初めてだった。
何故今までそうしなかったのか、逆に何故今そんな事が出来たのか、不思議だった。
しばらく経っても返事はなかった。
彼がどう受け止めたか気にならないわけではなかったが、結衣の気持ちは幾分落ち着いた。
時計を見ると、正午過ぎだった。ふと思った。
(ちょうどサッカークラブが終わったところだ)
携帯を持ち直して、木籐に電話した。まだお礼を果たせていないし、ランチでも誘おうと思いついたのだ。
だが、だいぶ鳴らしても彼は出なかった。
当てが外れて残念だったが、よくよく考えると光に失礼だと気づき、都合のいい自分を深く反省した。
それから、注文していた本を取りに渋谷に出向こうと決め、部屋を出た。
書店で本を受け取った後は、一人気ままに街をぶらつき、記事に役立つ面白い店や商品がないかと物色した。
休日に溢れ返る人々の喧噪の中にいると、自分の中の手に負えない感情が全て無になったようで安らげた。
こうやってアノニマスに一体化する事が、時には必要だと思えた。
宮益坂付近のベーグルカフェで少し休憩し、駅へと帰路を進み始めた時、西の空は藤色に変化していた。
もう日が暮れるのか、と急ぎもせずに歩いていると、突然後ろから腕を掴まれた。
驚いて振り向くと、それは光だった。
「どうしてここに?」
目を見開いてそう訊くと、光は質問で返した。
「それが君の用事なの?」
普段とほとんど同じカジュアルな服装に、本を一冊持っているだけの結衣に、非難の眼差しを向けた。
彼は仕事帰りのような、落ち着いた配色のスーツ姿だった。
珍しく怒りを露にしている光から、結衣は目を逸らした。
光は結衣の二の腕を掴んだまま、
「あれから、結局仕事して……、帰りの車内から君が見えたから。急いで降りたんだ」
と、すぐ横を通る渋滞した青山通りに目をやった。
車線を埋め尽くすようなたくさんの車と、そこを縫うように走り抜けるバイク。黄昏の時間帯、視界は徐々にトーンを落として行っているのに、ライトを点けていない車の方が多数派だった。
結衣は青くなり、自分の状況を忘れて声を荒げた。
「ここで? 危ないじゃない! 大事な体なのに、事故にあったらどうするの」
その剣幕に、光も平静を取り戻した。
結衣の腕を放し、
「そうだね、ごめん。――今から、食事くらいいいだろ」
「……」
結衣は頷いた。
光に促され、タクシーで表参道に移動した。
車を降りたとき、その窓に映ったカジュアルな自分と気品の固まりのような光が目に入った。結衣は、彼と自分は本当に不釣り合いだと思った。
そのまま光は目の前の高そうなレストランに入ろうとしたが、結衣は止めた。
「私のこの服じゃ……ムリじゃないかな」
コットンのシャツチュニックにメンズライクな黒のワークパンツ。足元はもちろんスニーカーで、さらにショルダーバッグを斜めがけしていた。
しかし彼は全く動じずに、
「大丈夫さ、僕がいるから」
と結衣の手を取った。
「でも……」
結衣は、自分が余計に惨めな気がした。彼はそれを察して、言った。
「ならドレスを買おうか。それとも、君の好きなところへ行こう」
結衣は本当は帰りたかったが、光の気持ちを思って、着替えて彼の行き慣れた店へ行く事にした。
同じ通りのブランドショップで見立てられた衣装は、周りが褒める程似合っていないと思ったが、これ以上ゴタゴタするよりも、光と話して平和に帰宅する事を望んだ。
レストランで個室に通され、テーブルのグラスに深紅のワインが注がれた。
(何を話そう)
照明の抑えられた静かな空間で、結衣は対面の席の光を盗み見た。
グラスを慣れた手つきで軽く回してから口に運ぶ彼は、本来なら結衣の人生には全く存在するはずのない種類の人間だった。
潤沢な財産と由緒ある家柄を持ち、将来はその全てをしょって立つ事を約束されている。加えてフィアンセは銀行頭取の麗しき愛娘。
唯一の間違いは、彼がその運命を苦痛に感じている事だけだ。
(それがなかったら、私なんかがこんな場所にいるはずはなかった)
光が結婚する時までには身を引こうと、漠然と考えて来たが、それはもういつでもいいはずだった。
ただずっと、逃げてきただけで。
少しの勇気さえ出すことが出来れば――
――そう、今、この時でも。
「光さん」
意を決して、口を開いた。光も身構えた。
その時、緊張を破るように結衣の携帯が振動した。
「――ごめんなさい」
彼女は困ったようにバッグを膝に置き、携帯を取り出した。木籐からの着信だった。一瞬迷って動きを止めると、
「出ていいよ」
光が言った。
「僕が君を束縛できる立場にあるとは考えてない」
結衣は息をついて光を見据え、
「そんな相手じゃないよ」
と通話ボタンを押した。
「はい」
『済まない、クライアントと打ち合わせで、今日はクラブに出てなかったんだ。連絡をもらっていたようだな』
「すみません。大した用じゃありません。また……連絡します」
通話を切って、電源も切った。
さっきより、思考回路が煩雑になった気がした。
「あの……」
結衣は光に向き直った。
彼は、自分より冷静に見えた。
「君の言いたい事は解ってる。でも……もう少し時間をくれないか」
結衣は返す言葉が見つからず、首を左右に振る事も出来なかった。
食事を終えて、二人は駅へ向かった。周囲がちらりちらりと自分達を見ているようで、結衣は気が休まらなかった。
それで、気付くと地下鉄の改札まで来ていた光に、結衣は思わず、
「電車で帰るの?」と聞いた。
彼は平然と答えた。
「そうだよ。青山通りで車を降りるとき、運転手はもう帰したしね」
「だ……大丈夫?」
心配顔でまた聞くと、光は困ったように笑った。
「まるで小さな子供扱いだね。僕、二十八のいい大人だよ」
結衣は赤面して顔を伏せた。
「ご、ごめんなさい」
光は優しく目を細め、彼女に手を伸ばしかけたが、すぐにその手をポケットにしまった。
「やっぱり外で会うと楽しいね。結衣のいろんな表情が見られる」
結衣は顔を上げた。
確かに、外で会うのは社長就任前以来だった。
「……うん。楽しかった、私も」
素直に笑顔になれた。
そしてその笑顔が、光を安堵させた。
「じゃあ、ここで。いつも送ってあげられなくてごめん」
別れの挨拶とともに彼が謝ると、彼女は微笑んで首を振った。
「ううん。ドレスと、ディナーありがとう。美味しかった」
光はそれを聞いて、
「いつも律儀だね。結衣のそういうところ好きだよ」
と言うと、反対側のホームへ続く階段へと去って行った。
それを見送って、結衣は溜息をついた。
「こんな普通のお礼、誰でも言うよ。――本当世間知らずなんだから」
それから、履き慣れない細く高いヒールを飼い馴らすように、一歩一歩しっかりと、自分も階段を下りて行った。
お読みいただき、ありがとうございました。