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第1部 3.繋がる点と点

ガラケー時代の都内近郊ラブストーリー、3話です。


結衣と木籐に、プライベートで接点ができます。


よろしくお願いします。


 先日の取材から約一週間後、結衣は再度ユナイテッド・キャピタル証券に木籐を訪ねた。彼は相変わらずブース内の自席で真剣な顔でパソコンに向かっていた。


「こんにちは。今日は色校をお持ちしました。一度読んでいただいて、直すところがあればおっしゃってください」

と話しかけると、

「……そっちで適当にやってくれ」

 木籐は彼女の方を見もせずに言った。

 結衣はムッとして、ツカツカとデスクの正面に来ると、

「それでは困ります。私が言葉をつないでいるところもありますし、後々のためにぜひご一読ください」


 ディスプレイをわざと(さえぎ)るように原稿の入った封筒を差し出した。

 それでやっと木籐は結衣に目を向け、渋々それを受け取ってその場で中身を取り出した。結衣が満足げに一歩引いて待っていると、彼は見開き二ページの原稿を一瞬眺めただけで、

「これでいい」

と返して来た。

「はぁ!?」

 結衣は呆れ返ってしまった。のどの奥まで文句が出かかったが、それを何とか飲み込んで、

「ありがとうございます」

 その原稿を引ったくるようにして取った。更にブースを出る前に、

「貴重なお時間をどうもありがとうございました」

と、嫌味を言い捨てて行った。


(全く、無愛想な人。こっちの仕事を何だと思ってるんだろう。よくあれで社会に通用するよ、いくら仕事が出来るったってさ……)

 仏頂面で廊下へ出て、休憩室前を通りかかると、

「ホント、やってらんねーっすよ」

 若い社員らしき男の愚痴が耳に入って、思わず足を止めた。


(へえ、この会社にもフツーっぽい社員がいるんだな)

 木籐以外は、どの社員もごく真面目でやる気に溢れた勤勉な人間に見えていた。

「だって木籐さん何にも教えてくれないし。『ダメだ』の一言じゃ分かりませんよ。オレまだ調査部で一年目っすよ。下の人間育てる気あるんスかね?」

 不満をぶちまけたその男を、少し年上らしい男がなだめた。

「まあそう言うなって。誰だってあの人と同じようには出来ないさ。何たって二十六歳で部長になった人だぜ。宇崎社長にも気に入られてるし、四月からは取締役も兼任するって話だろ」

「え、また出世するんスか!? 結局オレらとは別世界の人ってことスね。何考えてるか全然分かんないし」

「そこをせいぜいうまくやるのさ。お前なんかまだいいよ、新人で若いんだから。簡単に抜かされちまったキャリア十年の岩田さんとかどうなるんだよ……」


 結衣は微かに顔を歪め、気分を害したようにその場を離れた。

(『別世界の人』――か)

 乾いた風が胸中を通り過ぎ、冷たいものを残して行った。

 ハイアークタワーの回転ドアを出ると、キリキリと刺すような冷気が全身を襲い、結衣はマフラーを頬まで上げた。



 その日曜午前、結衣は散歩がてら近所のコンビニに行って雑誌と食料を買い、少し遠回りして帰路についた。昼近くになっていたが気温は上がらず、空は冬の厚い雲に覆われていた。

 通り沿いの小学校から元気な少年達の声が聞こえて、結衣は微笑んで足を止めた。

(寒いのに元気だなぁ)

 フェンスの向こうを眺めると、低学年くらいの子供達がサッカーをしていた。クラブ活動のようだった。大人の男性が二人、熱心に声を掛けている。


(……ん?)

 結衣は目を凝らした。その男性の一人を知っているような気がしたのだ。

 ジャージ姿だが、あの無造作な頭と主張しすぎる眼鏡は――

(木籐さんだ)

 驚きとともに、結衣は目を離せなくなってしまった。

 しばらく凝視していると、もう一人の男性が結衣に気づいたようにこちらを見て、木籐に声を掛けた。それで彼も結衣の方に目を向けたので、慌てて会釈すると、向こうも気持ち程度の会釈を返した。

(やっぱり木籐さんなんだ)

 遠目に眺めながら、改めて思った。なお見続けていると、彼は居心地悪そうにベンチに引っ込んでしまった。

 結衣は彼の意外な休日がとても新鮮で、少し好感を持った。




 深夜、木籐は私用でタクシーに乗っていた。酒は多少飲んではいたが、酔いを感じてはいなかった。

 渋谷から乗った車は目黒へ向かう道中だった。

 電車がまだかろうじて動いている時刻で、まだ人々は街から姿を消してはいなかった。

 タクシーが線路付近の道を最短距離で目的地に進む中、彼は自宅から程近い見慣れた街並に気づいて何となく外を見た。

 まだここで降りるわけにはいかないのだが、平日の夜のこと、さすがに帰宅して落ち着きたい気もあって、過ぎ行く景色を名残惜しそうに眺めた。


 信号待ちでタクシーが止まると、ふと、歩道に見知った人影を捕らえた。

 黒いコートのポケットに両手を入れて、思い詰めるような切ない目で、彼女はある一点を見つめていた。仕事の時とは、まるで印象が違っていた。その目線の先を彼が追おうとすると、


「――あら、あの子。ウチに来てる出版社の……」

 隣の席から、顔を突っ込むようにして木籐と同じ方向を見やって、その女は呟いた。

「ご存知ですか」

 彼はあえて確かめた。

「ええ。広報に挨拶に来てた時に会ったわ。やる気があって、嫌いじゃないわね」

 それだけ言うと彼女はけだるそうに目を閉じ、アルコールで紅潮した頬を彼の肩に凭れた。

 信号は青になり、タクシーは再び進み出した。

「着いたら起こして」

 木籐はされるがままに肩を貸しながら、もう一度窓の外を振り向いた。


 もう何かを見つめるのをやめて歩き出した結衣の後ろ姿が、小さくなって見えた。




 その後、記念すべき創刊号を持って、結衣はユナイテッド証券を訪れた。暦は明日から三月とは言え、まだまだ気温は冬の気配で、温かい日差しはもう少し先までおあずけのようだった。

 受け取った雑誌を、木籐は無反応でパラパラとめくった。

「ま、こんなテイストの本なので……、賛否あるかと思いますが」

 女性向けのポップな誌面を批判されているようで、結衣は苦笑しながら言った。

 真剣に金融に(たずさ)わる彼には、邪道に見えても仕方ない内容ではあった。

「広報部にも一部置かせていただきました。皆さん見てくれるといいんですけど」


 言ってから、結衣は思い出したように手を叩いた。

「そうそう、木籐さんサッカーのコーチされてたんですね。そういうのおっしゃってくれれば良かったのに。記事に入れたかったです」

 木籐は仏頂面になった。

「金融に関係ないだろう。書く必要はない」

「いいえ。そういう意外性が読者を引きつけるんですよ。――それだけで百部くらいは余計に売れたかもしれないのに。残念」

 彼女は心底口惜し気に呟いた。


 木籐は開いた雑誌から顔を上げて、結衣に目を向けた。肩程の長さのセミロングヘアをざっくりと後ろで一つに結んだ、仕事熱心で快活な印象の彼女が、どうもあの夜見た人物と同じとは思いにくかった。

「……? どうかしましたか?」

 木籐が珍しく自分との仕事にまともに応対している上、凝視されて結衣は不思議そうな顔をした。


「いや……」

と、木籐は少し迷って、しかし単刀直入に聞いた。

「先日、深夜に代官山にいなかったか。君を見かけたような気がするんだが」

 ほんの一瞬、結衣は沈黙した。

 そしてすぐににこやかに、

「いいえ、行ってませんよ」

と答えた。

「そうか。――失礼した」

 木籐は話を切り上げたが、それが嘘だと確信していた。何故隠したりするのか気にならないわけではなかったが、自分には関わりのないことだと思った。




 日曜の朝。

 珍しく早起きしてしまった結衣は、カーテンを開けて入って来た明るい陽射しに誘われ、外に出た。まだスプリングコートではヒヤリとする気温だったが、少し歩けば丁度いいだろうとそのまま歩き出した。


 小学校の前を通りかかると、

「おーい」

と言う声が耳に入ったが、まさか自分が呼ばれていると思わずに通り過ぎようとしたら、色黒の男が走って来てポンと肩を叩いた。

「良かったら見て行く? 木籐もそのうち来るよ」

 そう言われて、やっと結衣はこの男が先日見たサッカーコーチの一人だと気づいた。


 木籐と正反対に愛想のいい彼は、この学校で教師をしている稲葉義明と言った。専門が体育で、昔サッカー部だったこともあり、毎週日曜はここの児童中心のサッカークラブの顧問をしているそうだ。人の良さそうな笑顔に誘われて、つい結衣はグラウンドに入ってしまった。


 グラウンドにはまだ子供達は集まっておらず、稲葉は使用する用具類を出したりしながら結衣に話しかけた。

「あいつね、あれでも全中出場チームのストライカーだったんだよ。オレなんかより全然上手かったよ。今はプレーヤーとしてはやってないけど、こうしてボランティアで子供達を見てくれるんだ」

 木籐と中学の同級生だったと言う彼は、昔話をペラペラとしゃべった。思いがけない情報の山に、結衣は楽しく耳を傾けた。


 そのうちに木籐がやってくると、稲葉は慌てて口を閉じたが、悪戯っぽい目線を結衣に向けて笑った。 「お前、余計なことしゃべっただろう」

 それに睨みをきかせる木籐は、今までと違いとても人間らしく見えて、微笑ましかった。

「すみません。色々聞いちゃいました。でも、いい話ばっかりですよ。沈着冷静なビジネスマンの木籐さんが、こんな意外性を隠し持ってたなんて……。本当に、もっと早く知っていればなぁ」

 結衣はまた記事のことを思った。


「そっか、雑誌の編集者なんだってね、君」

 興味深そうに稲葉は言った。

「そうです。今女性向けの金融雑誌に力を入れていて。その取材をさせていただいたんです」

「いいなあ。雑誌に載ると、モテるかな?」

 ミーハーな稲葉に、結衣は苦笑した。

「モテる人もいますよ。編集部にファンレターが届いたり」

 すると木籐が、

「お前は結婚してるだろう」

と友人を制し、結衣を見た。

「ただでさえ不要な記事に、不要な情報を増やすだけだ」

「そんなことないです。絶対載せるべきでしたよ。ホントもったいない……。え? て言うか、記事ごと不要ってどういうことですか……」

 相変わらずの毒舌に結衣は力一杯反論し、最後は小声で愚痴った。

 隣で稲葉が笑って、

「こいつ、ホント女っ気ねーのよ」

とまた茶々を入れた。木籐の居心地悪そうな仏頂面が、面白かった。


 結衣は、久々に楽しい気分だった。

 ――と、ポケットの携帯が鳴った。メールが来ていた。


『今日、会いたい。三時にいつもの部屋で』


 光だった。結衣は目を伏せた。そしてそっと携帯をしまった。

 その時、結衣の様子が変わったことに木籐は気づいたが、何も口には出さなかった。

 少年達が集まって、クラブの準備が整うと、

「じゃ、私そろそろ帰ります」

と断って、結衣は引き上げた。

 稲葉はこっそり木籐をつついて合図を送ったが、彼は知らん顔を貫いた。

「全く、それこそもったいねーだろ」

 稲葉は一人、大きな溜息をついた。




 創刊号の評判は、社内外で好評だった。発売二週間で目標売り上げを上回り、社内では地味な存在のカルチャー部は珍しく脚光を浴びた。

 小野は得意顔で、第二号へ向けて更に毎日ハイテンションだったので、編集部員達は嬉しさ半分、煙たさ半分と言うところだった。


 とはいえ、発行直後の今月は実務よりも企画出しがメインで、他雑誌のサブスタッフとして仕事する他は、“ガルマネ!”チームは比較的ヒマだった。


 結衣は、昔からなりたかった記者の仕事が好きな反面、仕事から解放されると他に何もない自分に(さいな)まれる傾向にあった。

 それが光との関係から来る空虚さだと十分承知していたが、自分ではどうすることも出来ずに、持て余していた。


 今日も呼び出しを受け、仕事を片付けて代官山へ出向く。その胸の内には、好きな人に会える嬉しさと同じくらい、寂しさと苦しさが同居していた。

 彼の、結衣と会うためだけの別宅を訪れ、その腕で抱きしめられれば、即座に体中が熱くなる。

 自分だけに向けられる素直な微笑みに、幸せを感じる。甘いキスも、温かい肌の感触も、「愛してる」の言葉も――そこに嘘はなく、一点の曇りもない。


(だけど……)


 数時間の後、光はすっと彼女の腕を離れ、済まなさそうな顔で行ってしまう。名残のキスをして、足早に。


 彼は結衣に対して、愛情的にも物質的にも惜しみなく全てを注いでいた。だが、時間的そして空間的に制約を受けすぎていた。二人はこの部屋から一緒に出ることも(はばか)られるくらい、関係を制限されていた。



 光が帰ったあと外に出た結衣は、まだ少しヒヤリとする空気の中で、しばし立ち尽くした。


 週中日の夜更け、この街でも人はまばらだった。結衣は来た時よりもずっと寂しい気持ちに耐え切れず、近くのコンビニに退避した。

 店内を彷徨って、ホットの缶コーヒーを手にレジに行った。財布を開くと、彼から預かったクレジットカードが入っていたが、一度も使ったことはなかった。

 現金で支払いを済ませ、店を出た。

 目の前のガードレールに凭れて缶を開け、一口飲んだ。

 ――虚しい。

 結衣は目を伏せた。




 光と付き合ってから、これまで結衣は二度、真剣に別れようとしたことがある。


 一度目は、関係が始まって間もなく、彼を本当に好きになってしまったと自覚したとき。

 二度目は、去年彼が高宮エステート子会社の社長に就任したときだ。結果的には、別れられなかった。――お互いに。


 初めの頃は良かった……と結衣は思い返した。

 互いに軽い興味本位で、何をするにも気楽だった。多少大っぴらに外で遊んでも危機感も罪悪感もなかった。明るい時間にドライブしたり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、普通のデートめいたことを重ねた。


 そして、自然に体の関係も深いものになった。

「婚約者がいるくせに」

「顔と名前しか知らない子さ」――



 結衣はずっと、恋愛などバカにしていた。

 誰のことも、好きだとも必要だとも思ったことはなかった。だからこの関係も、異世界の存在として互いの文化の違いを楽しんでいただけだった。


 それがふと気づくと、その婚約者にうっすらと嫉妬を感じていた。彼が自分の運命への不満を口にするたび、

(この人は、自分の手の届かない人だ)

と痛切に感じさせられ、悲しくなった。


 そんな初めての苦しみに、耐えられなくなってある日言った。

「もう、会うのやめよう」

 待ち合わせた彼と顔を合わせたとき、それだけ言って背中を向けると、

「待って。どうして急にそんなこと言うんだよ」

 光は迷いもせずに後ろから抱きしめた。

「だって……、婚約者がいるお金持ちなんか、好きになったって仕方ないじゃない」

 力強い彼の腕が、余計に結衣の胸を締め付けた。


「そうかもしれない……。だけど……」

 光は結衣の髪に頬をすり寄せ、言った。


「離せない。僕はもうとっくに、君を愛してる」


 結衣は嬉しいのか悲しいのか分からずに、溢れ出る涙とともに彼に飛び込んだ。

 それは、更なる茨の道への入口だった。



 そして光が社長に就任すると、“見目麗しい若き不動産界のプリンス”、また“事実上の高宮グループ後継者誕生” として、マスコミは面白がって騒ぎ立てた。業界人だけでなく、一般への認知度が格段に上がり、彼は名実共に『公人』になった。

 メディアが過熱している間は、プライベートでもカメラが付いて回った。

 その様子を目の当たりにし、結衣は、

(今度こそもうダメだ)

と切実に思った。


 別れを言う覚悟で、ささやかな就任祝いのプレゼントを持って、やっとのことで彼とホテルの一室で会った。

「おめでとう。光さんなら、立派な経営者になれるよ」

 光は冴えない表情で彼女の差し出した小さな箱を受け取ると、

「前に、僕みたいな男には会社を守れないって言わなかったっけ」

と皮肉った。

 結衣は思い出して微笑んだ。

「言ったね。でも、もう大丈夫。その言葉、取り消すよ」

 一度言葉を切って、続けた。

「――それから、この関係も」

 光は息を呑んで動きを止めた。

「さすがに、もう無理でしょ? だから、これで終わりにしよう」

 冷静なフリをして、小さく笑って言った。

 人形のように動かずにいた光は、小箱を手にしたまま、

「嫌だ」

と、結衣に身体を寄せて、その肩に額を(もた)れた。


「そんな、子供みたいなこと言わないで」

 結衣も切なさに涙が込み上げた。

「不安なんだ。僕には社長なんかやる強さも能力もない。ただ、この家に生まれてしまっただけなんだ。――もし叶うなら、このまま君とどこかで静かに暮らしたい」

 結衣の肩に顔を伏せて、涙声で光は言った。


 突き放さなければいけないと、頭の中で理性が諭した。しかし、マスコミの前では生来の社長然とした態度を崩さなかった気丈な彼の、自分にだけ弱音を吐くその姿が、たまらなく愛おしかった。

 結衣はそっと光の顔を両手で包み、優しく言った。

「逃げないで。私なんかで良ければ、そばにいるよ。大丈夫、あなたにはその力があるから、高宮光として生まれたの」


 それからしばらくして、光は高宮グループ管理下にあった代官山のマンションを自分の会社の物件にし、結衣と会うために自ら一室を購入した。


 今となっては、その時から二人は、その部屋で寝るだけの関係になってしまった。




 コーヒーの缶をゴミ箱に捨て、再びガードレールに凭れると、結衣は携帯を手にした。

 天使の羽をモチーフにしたシルバーのチャームが、街の光を浴びてきらきらと揺れている。光のために買いに行って、つい自分のも買ってしまったのだ。

 結衣はそれを手のひらにすくった。


(別に、あの時の選択を後悔しているわけじゃないけど……)

 そのチャームの輝きとは裏腹の、今の自分をあざ笑うような夜だった。

(こんな事、思い出さなきゃ良かった)

 チャームを隠すように携帯を両手で握りしめた。


「――おい」

 突然、声を掛けられて結衣はドキリとした。

 身の危険を感じて恐る恐る顔を上げると、それは木籐だった。

 結衣は胸をなで下ろした。

「こんな時間に、一人で何してるんだ」

「ああ――いえ、別に……」

 言葉に詰まって目を落とすと、彼の手のコンビニ袋が目に留まった。弁当が入っているようだった。

「今まで、お仕事ですか?」

「まあ、そういう日もある」

 木籐は何でもない事のように言った。

「体壊しますよ。ちゃんと食べないと」

「別に、長生きする事が目標じゃないからな。それより、今から帰るのか。もう電車無いんじゃないか」

 話が自分に戻って来て、結衣は渋い顔で立ち上がった。


「大丈夫です。タクシー使いますから」

 そう言って道路に目を移した。何も詮索されたくなかった。空車のタクシーが通れば、今すぐに手を挙げるつもりだった。

 木籐はその様子を黙って見ていたが、やがて言った。

「あの学校の近くか? 深夜だし、随分かかる」

「ええまあ……。でも、自己責任ですから」

 投げやりに言った。仕事の時は喋らないくせに、こんな時にどうしてそう関わってくるのか、八つ当たり的な苛立ちを覚えた。


 すると、

「――送ってやろう」

 彼の口から、思いがけない言葉が聞こえた。結衣は一瞬耳を疑った。

「えっ? ――何言ってるんですか。木籐さん今帰ったばかりですよね。それに、明日も仕事でしょう」

「構わない。うちはフレックスだ。どちらにしろ早く出社する気などなかったしな」

「……」

 結衣は妙な気持ちだったが、黙って木籐に従うことにした。少なくとも、一人でいるより虚しさが紛れるのは確かだった。


 彼はそのコンビニからごく近くのマンションへ向かい、地下駐車場に降りた。シルバーのフェアレディZの前で立ち止まると、スーツのポケットからキーを取り出した。結衣は内心驚いた。送ってくれるという言葉の意味を、車を目にするまで深く考えていなかった。



 車は駒沢通りから環七を抜け、深夜の川崎市へ滑り込んだ。三十分もかからずに、結衣の住む街へ辿り着き、

「この辺です」

 彼女は薄暗い街灯のみの照らす住宅街の一角で降りた。ついさっきまでいた、代官山の洗練された風景とは別世界のようだった。

「じゃあな」

と、すぐに去ろうとする木籐に、

「あのっ……」

 結衣は急いで声を掛けた。車中では、ほとんど何も話さなかった。

「あ……ありがとうございました。気をつけて帰ってください」

 彼は軽く頷くと、再びアクセルを踏んだ。その車のテールランプを見送って、しばしの間、彼女はさっきまでの虚しさを忘れた。




 次の日曜、結衣はたくさんのおにぎりと唐揚げを作って、小学校を覗いてみた。先週と同じく、少年達がサッカーをしていた。

 稲葉と、木籐の姿もあった。


 少し緊張しながらグラウンドに入って、二人に声を掛けた。稲葉が先に振り向いて、

「おお~、また来てくれたの。嬉しいなぁ」

と、満面の笑みで迎えた。

 木籐も顔を向け、頷いた。

 それを見て結衣はホッとした。

「あのぅ、お弁当を作って来たんですが……、良かったら皆さんで召し上がってください」

「えー! 本当に? ありがとな。いいにおいだなぁ、休憩入れるか」


 稲葉は喜んで少年達を呼び集めた。

 一年生から三年生までの低学年クラブで、まだあどけない瞳をした弾けるような笑顔が二十人程集まった。

「このお姉さんが弁当差し入れてくれたぞ。ありがたく、仲良くいただくんだぞ」

 稲葉が言うと、わーっと歓声が上がり、一斉に結衣に、

「いただきまーす」

と頭を下げた。結衣は今までに味わった事のないシチュエーションを新鮮に感じながら、

「どうぞどうぞ」

と微笑み返した。美味しそうに頬張る子供達の姿を嬉しく見守りながら、ふと気づいて木籐を振り返った。


「木籐さんも、良かったらどうぞ。この前のお礼のつもりなので……」

 すると彼は素っ気ない態度で、

「そのことなら、別に気にしなくていい」

と、ぶっきらぼうに言った。その反応に、

(予想はしてたけどさ……)

 結衣が口を尖らせていると、

「それに――」

 木籐は目線を子供達の方へ向け、

「もうなくなったみたいだしな」

と呟いた。

「えっ……」

 結衣が同じ方向を見た時、

「ごちそうさまでしたぁ」

 子供達は元気よく散り、空の弁当箱が姿を現した。

「ホントですね……」

 結衣は喜びつつも苦笑いしながら言った。

「次は、もっとたくさん作ってきます」

 木籐は何の返事もしなかったが、結衣はその反応をプラスに受け取った。


 その二人の様子を、少し離れたところで稲葉はこっそり微笑みながら見守っていた。



お読みいただき、ありがとうございました。

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