第1部 2.運命の出会い ―2004年(2年半前)―
ガラケー時代の、主に都内を舞台にしたラブストーリー、2話目です。
結衣と光の馴れ初めの話です。
よろしくお願いいたします。
ある涼やかな秋の午後、銀座のとある一流老舗ホテルで盛大なパーティが開かれていた。会場の入口には、
『高宮光・城之内雪菜 婚約披露パーティ』
とあったが、受付を済ませているゲストに若い世代の者はほとんど見当たらなかった。大多数を占めるのは、政財界の関係者や名の知れた会社の役員相当の肩書きを持った、重鎮クラスの人物たちだった。
広々とした場内はきらびやかに演出され、窓際の明るいスペースに当人たちの席が雛壇で作られていた。が、全体の雰囲気は、若い男女の婚約を祝う華やかさとは違っていた。立食ビュッフェで人々が場内を自由に行き交うその眺めは、まるで社交場のようであった。
ゲスト達は光や両親に謝辞を述べた後は、おのおのの知人や狙いの人物と名刺をかわし交流を広げていた。光の父・登もまた都市銀行の頭取である雪菜の父・城之内紘介とともにゲストとの懇談に余念がない。
光はこの式典に内心飽き飽きしながら、人形のように姿勢正しく自分の位置に立ち、ゲストにそれなりの挨拶を繰り返していた。
隣の雪菜を見ると、時々母親と小声でクスクスと雑談しながら終始にこやかにしていた。知り合いの者が来れば、いちいち両手で握手をし、
「わざわざお運びいただいてありがとうございます」
と、歓迎を態度で表現した。その様子はいかにも楽しそうであった。
光はその無邪気な様子をひどく白けた心持ちで眺めた。
実のところ、この少女と会うのは今日が二度目だった。今年十九歳だと聞いていたが、それ以上に幼い印象で、二十五歳の光から見てもまだまだ結婚などおとぎ話と思っている子供に見えた。今こうして楽し気にはしゃいでいるのも、現実が分からず、綺麗な衣装に包まれてお姫様気分で浮かれているだけなのだろう――と彼は思った。
(全く、皆いい気なものだ)
だがこの婚約について、彼にしても特段異論を述べたわけでもなかった。
父から告げられた時、正直、
(ついに来たか)
と思っただけだった。そして断る理由もなかった。
物心ついた時から、光はこの高宮エステートという不動産業界屈指の大企業の『従僕』として、逆らうべくもない人生を感じ、その決められた枠の中からはみ出すことなく生きて来た。与えられたものは受け入れ、禁止されたものは排除し、一切自分の意志を捨てて日々を費やした。
気づくと、欲望も執着も持たない、ごく単調なこの生活が当然になっていた。
成人してから会社の仕事を徐々に任され、目標を定められればその通りに達成して来た。それを父はいつも無言で見ていた。
(結婚も、仕事の様なものだ)
銀行が身内に入れば事業は更に思い通りに動かせる。会社が安定的に利益を出し、更に大きくなれば、銀行にとってももちろん悪い話ではない。
「――すみません、それ、ジュースですか?」
雪菜がドリンクをトレーに乗せて通りかかったボーイに聞いた。
「こちらは、ワインになります。ノンアルコールをご希望ですね、すぐにお持ちいたします」
彼はにこやかに答えると、襟元のマイクに向かって小声でそのオーダーを繰り返し、会釈して去って行った。
すぐに別の女性給仕係が、雪菜のために数種類のノンアルコールドリンクをトレーに乗せてやって来た。
「これは? 赤ワインのようだけど」
物色しながら雪菜が聞いた。
「ワイナリーで作られた葡萄ジュースでございます」
「美味しそう! それをいただけますか?」
「かしこまりました」
給仕はトレーからワインさながらのグラスを手にし、
「失礼します」
と雪菜の前に置こうとしたが、その瞬間、給仕係の脇を通りかかったゲストが、彼女の肩にぶつかった。
「あっ」
一瞬バランスを失った彼女の手のグラスの中で、ブドウ果汁は大きく円を描いた。そしてそれはわずかにしぶきを上げながら、数秒後に収まった。
「大変失礼いたしました」
グラスの中身が落ち着いてからテーブルの上を見ると、水ならまだしも、鮮血の様なブドウ果汁は少しながら周囲に目障りな水玉模様を落としてしまった。
真っ白なテーブルクロスに染みが出来、給仕は、
「申し訳ございません。すぐにお取り替えいたします」
と頭を下げた。
「いえ、これくらい、私は全然。ただ――」
雪菜は柔らかに返事をしたが、緊張気味に言葉を濁した。
そう言われて給仕が顔を上げながら雪菜の視線の先を追うと、彼女の左側にいた光の白い衣装にまで数カ所ポツポツと紅い斑点が存在した。
「――」
近くにいて目撃した人々は皆一斉に黙した。
「お衣装が……。大変失礼いたしました」
と、女給仕が改めて光に対して頭を下げていると、給仕のチーフが小走りで現れ、
「大変申し訳ございません!!」
と、彼女を従えて平身低頭に謝罪した。やがて頭を上げると、
「こちらへどうぞ。ただいまお着替えを……」
と光を促した。それから厳しい顔で「君も来て!」と当の女性給仕を呼んだ。
彼女は残った人々にもう一度頭を下げると、早足でついて行った。
控え室に連れて来られた光が、英国調のソファに座って少しすると、ホテルの支配人までが顔を出した。そして改めて彼に謝罪すると、今度はチーフの方に向かって何事か言おうとしたが、
「あの、別にいいですよ」
と、光は穏やかに口を挟んだ。
「いいえ、我々の落ち度でございますから……」
支配人がなおも言ううちに、替えの衣装が幾つも部屋に届いた。
「お気に召すものがあればいいのですが」
心配顔の支配人の前で、光は少し思案すると、
「いや、いいです」と言った。
「いい、とおっしゃいますと……?」
支配人とチーフは顔を見合わせた。
光は、その二人の後ろで静かに成り行きを見ていた給仕に目をやって、
「僕、自分で買ってきますから。その彼女を、お借りしてもいいですか」
と言った。
支配人達は驚いて彼女を振り返り、当の本人もポカンとした表情になった。
「まあ、せっかくなので責任取ってもらいましょう」
言うが早いか、光は彼女を促して控え室を後にした。
そして駐車場に停めてあった黒い911カレラの助手席のドアを、彼女のために開けた。
「……どうも」
彼女は訝し気な表情で、制服のまま乗り込んだ。光は悪戯な猫のように口の端に笑みを浮かべ、車は高いマフラー音とともに銀座の街へ躍り出た。
すぐに有名ブランド店の前で停車すると、彼は慣れた様子で入口スタッフに車のキーを預けた。そのまま店内に入り、似た様な白系のスーツを物色し始めると、いつの間にか地位の高そうなスタッフが数人ご用聞きの如くつきまとっていた。
光は正装に近い白のスーツを試着して購入したが、最終的にフィッティングルームから出た時、彼はデザイン性の高いダークブラウンの、ややこなれた印象のスーツを着用していた。
その姿を目にして、侍女のように彼の着替えを待っていた彼女は微かに首を傾げた。
それから光が何かをスタッフに指示すると、給仕服の彼女は、彼らの手によってあっという間に華やかなワンピースに変身させられた。
彼のスーツとバランスのいい配色のボルドーのノースリーブワンピースは、サテン地の光沢とウエストから下のふわりとしたシルエットが美しかった。それから襟元にファーをあしらったジャケットとミュールまで用意され、代わりに彼女の制服が店の上質な紙袋に丁寧に入れられた。
「さっきよりいいんじゃない」
店を出ると、光は満足げな笑顔で彼女に話しかけた。
が、当人は仏頂面だった。
「どういうおつもりですか」
彼はそれには答えず、また車に乗ると、会場のあるホテルとは全く違う方向へと走り出した。
「あの……戻らないんですか」
彼女は助手席から訊いた。
「戻るよ。もう少ししてからね」
光は素知らぬ顔で答えた。
「ーー正直なところ、君には感謝してるんだ。あんな退屈な仕事はそうそうない。抜け出したくてたまらなかった」
「仕事、って……」
彼女は呆れたように呟いた。
「皆さんは、あなた方を祝福しに見えてるんですよね」
その言葉に光は冷笑した。
「そんなわけないさ。彼らの頭の中はビジネスの事だけだからね。婚約パーティーなんて集まる口実みたいなものだよ。僕一人いなくたって成り立つんだ」
卑屈に言う光を、彼女は横目で見て肩で息をついた。
「ならお一人でどうぞ。私は仕事中の身ですので、降ろしてください」
車は晴海通りを日比谷方面に向かっていた。赤信号で停止すると、彼は興味深そうに彼女を見た。
「おかしなことを言うね。君は今まさにその職務を全うしてる最中だろ」
彼女はその言葉に無言で視線を返した。光は勝ち誇ったように口元に笑みを浮かべた。
「パーティーで主役の、僕の衣装を汚した失態の責任を取るために、今ここにいるんだろ?」
光はやや口調を和らげて、続けた。
「そんなに心配するなよ。少しの間、退屈しのぎに付き合ってもらうだけさ。もちろん、君も楽しめるって保証するよ。僕からの、感謝の気持ちさ」
無言だった彼女は、悔し気に唇を結んだ。
「あんな失敗、今まで一度もした事なかったのに……。ゲストがひな壇の後ろを通るなんて、普通ならあり得ません。そもそも招待客の数が事前情報を遥かに上回っていました。あれは企画側のミスです」
「――言い訳だね」
「もちろん責任は取ります」
反抗的な口調で彼女はそう言って、また黙った。
車は日比谷にある劇場へとやって来た。特別公演のオペラが先程始まったところだったが、光は受付で話を通すと、チケットもないのに特別席へ通された。しかし、ものの十分で「やっぱり気分じゃないね」と席を立った。
受付前で、
「悪い、やっぱりまたにするよ」
と軽く手を挙げて出て行ってしまった。
後をついて出た彼女は代わりに丁寧にお辞儀をして行った。
その後も、光の我がままな散財は続いた。行列の出来ているカフェテリアで、煙草が苦手だからと特別に個室を借り切ったうえ、食べる気もないのに限定品のケーキを頼んだりした。
とにかく一介の民間人には考えられない行動ばかりだった。再びイライラし始めていた彼女は、三軒目の店を出て車まで戻ったところで、
「次は、戻りますよね?」と聞いた。
もう十五時に近かった。パーティは十六時までとチーフに聞いている。終盤まで主役が不在だなんて、いくら何でもふざけすぎている。
光は腕時計を確認したが、
「それはどうかな」
と、からかうように言った。
まるで、彼女が苛立っているのを面白がっているようだった。
彼女は、挑発に乗るように感情を露にした。
「あなたが戻らないなら、私はここで失礼します。これ以上は、仕事と認めません」
その言葉を、彼は一笑に付した。
「君に選択権なんかないんだ。僕が一言文句を付けるだけで、この先ずっと職にあぶれる事になるよ」
彼の態度に、彼女は怒りを超えた冷たい視線を投げた。
「それなら、やってみたらどうですか」
彼は驚いたように言葉を飲んだ。
そして彼女は息をつくと、彼を見据えた。
「あなたは、人々の暮らしの事を何も分かってはいません。あなたみたいな二世三世の甘ったれた経営者が、どんなに財や権力を振りかざしても、私一人社会から抹消する事なんて出来ません。ーーましてや、大切な会社を守って行く事など」
つい先程まで余裕に満ちていた光の顔から、薄笑いが消えた。そして彼女は助手席からホテルの制服の入った紙袋を掴み取り、
「ドレスは、ホテルを通して後日お返しします」
と言い捨てて去って行った。
光は身体がまるで石になってしまったように、去って行くその真っ直ぐな背中を、車の前で立ち尽くしたまま見えなくなるまで見つめていた。
二週間後、彼は国立Y大学の正門前に車を停めた。
午後四時を過ぎ、講義を終えた学生達が続々と門から出て来た。光は車から降りて、その流れに目を凝らした。
学生達は、派手な外車と彼の容姿にチラチラと視線を向けながら通り過ぎて行った。それでも彼はめげずに待ち続け、ようやく目当ての人物を見つけると、駆け寄って声を掛けた。
「ねえ、君」
彼女は一人だった。ジーンズにグレーのストライプシャツというシンプルな服装で、ホテルで働いていた時とは随分印象が違った。
「学生だったとは思わなかったよ。仕事熱心だったから」
呼び止められた彼女は、驚いた顔で彼を凝視した。返事をするかどうか迷っている様子だったが、周囲からの目線に気付くと、彼の腕を掴んで目立ちにくい道の端に寄った。
「わざわざ調べたんですか。いったい何の用で……」
睨むように光を見上げ、言った。
「そんな怖い顔するなよ。咎めに来たわけじゃない。ただ、君ともう少し……話がしてみたいと思って」
彼は笑うに笑えない時のような、頼りない顔をした。
彼女は、しばらく警戒心たっぷりの眼差しで彼を見つめていたが、やがて口を開いた。
「今日はこれからバイトなんです。話している暇はありません」
「いつなら空いてるの」
光が聞くと、
「日曜の午後だけです」
と素っ気ない返事が返って来た。
光はじれったい気分になった。今日だって無理に仕事の都合を付けて来ているのだ。
「やっぱり今日じゃダメかな。そのバイト代、僕が払うから」
悪気もなくそう言うと、今度は彼女は激怒した。
「ふざけるのもいい加減にして。バイト代は、仕事の責任を果たした上で、正当な相手からもらう。金額が同じならそれでいいって事じゃない!」
そう強く睨みつけると、
「あなたみたいな人が一番頭に来る」
と、彼を置いて歩き始めた。
一瞬呆然とした光は、我に返ると、小走りで彼女を追いかけた。
「ついて来ないで」
「バイトって、この前のホテル?」
「違うところ」
「そんなにいくつもバイトしてるの」
「……」
光は突き放されても、まだ何故か諦める気になれなかった。
「――分かったよ」
息をついて彼は言った。
「日曜の午後に、また来るよ。それならいいだろ」
彼女は前を向いたまま、足を止めた。
光はホッとして、
「じゃ、十二時半にまた正門のところで待ってる」
と言うと、元来た方へ戻って行った。
足音が遠ざかってから、彼女はそっと後ろを振り向いた。
置いて来た車に向かって歩く、場違いに端正な後ろ姿を眺めて、軽く首を傾げた。
日曜、彼女は約束の時間ちょうどに正門に着いた。
正門前に人影はなかった。学校も休みだから、守衛すらいない。壁にもたれて五分程待った。
(あんなくだらない約束、守る事なかったのかな)
と思い始めた途端、遠くから高いマフラー音が響いて来たのに気づいた。それからあっという間に黒のカレラが目の前に停まって、
「ごめん、思ったより道が混んでて……」
光が車から降りて謝った。
「本当に来たんだ」
彼女は遅刻のことはそっちのけで、感心したように言った。光は褒められたような気がして笑った。
「乗って。お昼まだだろ? 何か食べに行こう」
車は第三京浜を都内方面へと走った。確かに道は混んでいた。
「――どうしてそんなに、私なんかにこだわるの?」
改めて冷静な状況で、彼女は口を開いた。
「女の子に怒られたの初めてだったから、……かな」
あえて冗談のように軽い口調で光は言った。
だが彼女は、先日の別れ際の出来事を思い出したようで、やや表情を硬くした。
車内に緊張が漂い、重たい沈黙が出来た。
「ええと――古屋、結衣……さん」
急に名前を呼ばれて、彼女は光の方を向いた。
「……って言うんだよね。これから、名前で呼んでもいいかな」
「さすが、調べが行き届いてますね」
返事の代わりに嫌味を言うと、彼は心外だと言わんばかりに反論した。
「でも、それだけさ。ホテルの支配人に聞いたら、信用に関わる事だからって簡単に教えてくれないんだ。チーフに頼み込んで派遣元を教えてもらって……、結構大変だったんだよ」
彼女はその様子を想像して、思わず微笑んだ。まるで大人におもちゃをせがむ子供だ、と思った。
「へえ」
隣で光が声を上げたので、彼女は、
「何?」
と顔を向けた。
「別に。そうやって笑うんだ、と思っただけ」
言われて結衣はまた必要以上に無表情を作って、外を向いた。
高速は依然渋滞で、時計は一時に近づいて来ていた。
「ダメだね。この辺で降りよう」
光は言うと、玉川インターチェンジから環八に乗り換え、自由が丘駅付近のパーキングに駐車した。道中、誰かに電話をして何かを依頼していたが、結衣は気に留めなかった。
そこから歩いて程近いレストランに、光とともに入店すると、眺めのいい窓際の席に案内され、着席してすぐに料理が運ばれて来た。
結衣は手配の良さに驚いて、さっきの電話の事を思い出した。
「食べなよ。お腹すいたろ?」
光はワイングラスに注がれたレモン水を飲みながら言った。彼女は目の前に並んだ美しい前菜を眺めて、感嘆した。
「これってコース料理? いつも昼間からこんな大層なもの食べてるの」
「大層? カジュアルイタリアンだよ。嫌いなら、下げさせるけど」
平然と言う光に、結衣は仏頂面になって、
「そんなこと言ってない。――いただきます」
と手を合わせた。彼はそれを珍し気に眺め、「どうぞ」と微笑んで自分もカトラリーを手にした。
「――この前の続きだけど」
食事が進むと、光は話を向けた。
「君はアルバイトばかりしてるんだね」
「まあね」
ショートパスタを口に運びながら、結衣は答えた。
「今時、バイトしない学生なんていないわ」
「どうして」
「お金が要るからじゃない?」
「でも君は、僕からはもらわないって」
結衣はフォークを置くと、ナプキンで口元を拭き、水を一口飲んだ。
「当たり前でしょ。労働の対価以外のお金は、災いの元って決まってるの。――下々の世界ではね」
光は、明らかに自分を否定する刺々しい物言いに、さすがに不快感を露にした。
「そうやって不要に攻撃するのは、単なるひがみじゃないのか。大体君は僕の何を知っていると言うんだ」
結衣は動じずに答えた。
「知ってるよ。生まれた時からセレブリティなお育ちの高宮光さんでしょ。この前のパーティで、その通りだって分かった」
光の顔に、幾分虚しさが漂った。
「それは、自由な君達から見た都合のいい幻想だ。その金や権力と引き換えに、僕が最初から与えられもしなかったものの存在を、君達は認めようともしない」
声量は抑えながらも、腹の底のやり場のない思いは隠しようがなかった。長い時を重ね、体の中にしっかりと根付いた、怒りとも苦しみとも表現できない灰色の感情……。
結衣は表情を変えて黙り込んだ彼を静かに見つめ、やがて立ち上がった。光が怪訝な顔で彼女を見上げると、
「出よう」
と光の手を取った。操られるように立ち上がった彼に、彼女は初めて優しく微笑みかけた。
光がキャッシャーで会計を済ませていると、結衣は担当だったスタッフを見つけて声を掛けた。
「最後までいただかなくて済みません。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます。ぜひまたいらしてください」
彼は穏やかに微笑んでお辞儀を返し、結衣も安堵をにじませた。
それから待っていた光のところへ戻って、彼にも「ごちそうさま」と笑顔を見せた。
レストランを出ると、店の前の小径から人通りの多い通りに移動して、
「少し歩こうよ」
と、結衣は先を進んだ。
そこにはファッションや雑貨のショップが賑やかに並び、たくさんの若者やカップルが楽し気に往来していた。結衣達も同様に、目的もなく店先を眺めて歩いた。途中でジェラートを買ってベンチで休み、また当てもなく店舗を流し見した。
「へえー、これかわいい」
時々結衣は立ち止まって楽し気に商品を手に取った。
「プレゼントするよ」
と光が言うと、
「ううん、見てるだけだから」
迷うまでもなく首を振り、すぐに棚に戻した。
夕刻に近づいて、飲食店の並んだ通りを歩いていると中華風のいい匂いが漂って来て、光は思わず、
「美味しそうな匂いがするね」
と結衣に言った。
「あそこのラーメン屋だよ。有名店だから、ほら、すごい行列」
示された方を見ると、間口が二間程の狭い店に彼女の言う通りの長い行列が出来ていた。
「ラーメン……。食べたことないや」
光が呟くと、
「じゃ、並ぼう」
結衣は手を引いた。
三十分程で店内に入り、食券を二枚買った。結衣が財布を出すのを光は止めたが、
「お昼ごちそうになったから」
と彼女は取り合わなかった。
光が一口ラーメンを口にすると、
「どう?」
と結衣は聞いた。
「うん……。初めての味だね」
光は何とも言えない顔で神妙に言った。
それを見て結衣は可笑しそうに笑い、
「この味がまた食べたくなるようなら、あなたも見込みあるかもね」
と、悪戯っぽい目を向けた。
「どういう意味?」
怪訝な表情を浮かべた光に、結衣は「さあね」と楽しげに言った。
食べ終わって店を出ると、外は暗くなっていた。駐車場まで二人で戻ったが、結衣は車の前で、
「じゃ、私帰るね」
と乗らない意志を示した。
光は驚いて、
「なら、送るよ」と言ったが、
「いいよ、反対方面だし。ありがとう、楽しかったよ」
結衣は身を翻した。
「待って」
光は急いで呼び止めた。彼女が振り返ると、小走りに目の前まで来て向かい合った。
「また――会いたい。連絡先教えて」
真剣な瞳だった。
「……」
結衣はその目を真っ直ぐに見返して、
「ヘンな人」
と、呆れたように微笑んだ。
その二週間後の日曜、光は再び結衣を迎えに来た。
同じように普通の若者がするような休日を過ごし、帰り際、彼女のマンション前で停車すると、光は結衣が降りようとするのを引き止めて、キスした。
結衣は特に抵抗しなかったが、唇が離れると、
「いつも、二・三回会っただけでこういうことするの」
と訊いた。
「しない」
光は少し頬を紅潮させた。
「嘘ばっかり」
結衣が笑うと、
「……求められてすることはあったけど、自分からは――初めてだ」
彼自身戸惑っているように、目を逸らした。結衣はそれを受け流すように軽く笑った。
「いいよ、別に。あなたのその気まぐれに、しばらく付き合ってあげるよ」
こうして二人の、誰にも言えない特殊な関係が始まった。
イタズラのような偶然から生まれた、ほんの小さな種だった。
だがそれが、いつの間にか深く強く根付いて、切り離せないものになって行った。
お読みいただきありがとうございました。