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第1部 1.角英出版の結衣とその秘密~木籐との出会い

初投稿です。

ガラケー時代の、都内が舞台のラブストーリーです。

よろしくお願いいたします。


 2007年、一月中旬。


 ある朝、角英出版のカルチャーマガジン編集部に出社したリサは、自分のデスクに鞄を置いて仰天した。奥のミーティングスペースで、横に繋げて並べた椅子をベッド代わりに眠っている人物が目に入ったのだ。呆れた溜息をつきながらマフラーを外し、コートを脱ぐと、近づいて声を掛けた。


「結衣さん! 起きてください。もうみんな来ますよ」


「うー……ん」

と、起き上がった彼女はボサボサのセミロングヘアを手グシでかきあげながら、

「リサ、おはよー」

と暢気に挨拶した。


「もう……、またですか。よく会社なんかに泊まれますね。20代の女子がする事じゃないですよ。大体、風邪引いたらどうするんですか。ただでさえ人数少ないのに」

「はいはい、すいません」

 後輩のリサの小言に適当に返事をしながら、結衣は立ち上がった。顔もむくみ、メイクなど崩れに崩れていた。

「コーヒーでも飲むか」

とゆるゆると動き出す姿に、リサは深く息をついた。

「全く……。オッサンかよ」



 10時になると、編集会議が始まった。カルチャー編集部は、総合出版社である角英の中でもとりわけ地味な存在で、現在発行している雑誌はカメラと車と住居の三誌だったが、売り上げはどれも芳しくなかった。


 その編集部の長である小野は、準メタボ体型の40代で、仕事命のバツイチ男だ。


 小野は朝からハイテンションで、ただでさえ大きな地声を張り上げた。

「えー、残念ながら我が部の車雑誌“スポーツドライブ”は廃刊となることが決まった。ま、時代という奴だな。車に金をかける奴が減ったんだ」


 テーブルを囲む十人程の編集部員は、口々に「やっぱりね」などと囁いた。

 その中で誰かが、

「その割には編集長、ゴキゲンですね」

と言うと、小野は得意げに、

「そうなんだ」

と胸を張った。


「以前から上げていた企画、アラサー女子向けのマネー誌のGOサインが出た。その名も“ガルマネ!”。どうだ、売れそうだろ?」


 部員たちに企画書が配られ、パラパラとそれをめくる音がしばしミーティングテーブルを支配した。

「へぇー。確かに女子向けのマネー誌は目新しいですけど、先発の大御所が数誌ありますよね。今更参入して、読者捕まえられますかねぇ」

「マネーに興味ある女子なんて、そんなにたくさんいますかあ?」

と、反応は今ひとつだった。


 小野はしかしそれを一蹴して、

「バカ! だから潜在ニーズがあるんだろ。これからは女子が投資する時代なんだよ! おい古屋、お前経済学部出身だったな」

と、結衣に顔を向けた。


「はい」

と、結衣が企画書から顔を上げると、小野は眉をひそめた。

「お前また泊まったのか。メイク落ちてるぞ」

「だって、昨日入稿の原稿やってたら電車なくなっちゃったんですよ。泊まった方が睡眠時間とれますし。ちゃんとタイムカードは押してますから、大丈夫ですよ」

 そう言うと、さすがの小野も頭を押さえた。


「リサを見習えとは言わないが……、まだ24だろ? もう少し気を遣ってもいいんじゃないか」

 リサは昨年ファッションマガジン部から移動して来た経緯もあり、メイクも服も常に完璧だった。自分の美しいネイルを眺めながら、

「ホントですよ」と呟いた。


「まあまあ、それだけ古屋が働くから、この人数で三誌も回せるってこともありますし……」


と口を挟んだのは、27歳の竹沢はるかだった。童顔で、誰からも好印象を持たれるタイプだが、『小動物系』などと形容されることが多く、編集部内の男子からは結衣と揃って『チーム・フェロモンゼロ』とあだ名されていた。


 はるかの助け舟に、小野は軽く息をついて、

「話を戻そう。“ガルマネ!”はまずは奇数月頭の発行、隔月刊でのスタートとなる。もちろん売れれば月刊化も大いにある。――で、主な担当者は、俺・竹沢・古屋と……それからリサで行く。いいな」

 するとリサが、

「えーっ、マジですか? 何であたし?」

と不平を言った。小野はピシャリとそれをはねつけ、

「バカヤロー! チーム・フェロモンゼロだけで女子が好きそうな可愛い誌面が作れるか。お前もいい加減キャラを自覚しろ」

と、正論なのかよく分からない理屈で制圧した。


 かくして女子マネー誌“ガルマネ!”は三月頭の創刊を目指し、動き出す運びとなった。



 その日の仕事を終え、結衣が元住吉の賃貸マンションに帰ると、母親から封書が届いていた。玄関の明かりをつけてそれを開けると、実家に届いた結衣宛の郵便物と、手紙が入っていた。


 結衣は手紙をざっと読んだ。大体いつも書いてあることは同じだ。元気にしているか、仕事は順調か、自分も元気だ、それから――、相変わらず一人なのか。


『同窓会の案内が来ていたわよ。こういうのに行ってみるのもいいんじゃないかしら。あまり一人で頑張りすぎているんじゃないかと心配です』


 母親の手紙をたたんで郵便物に目を通すと、確かに高校の同窓会の案内があった。

「同窓会ねぇ。語り合う思い出、特にないわ」

 そう独り言を言って、結衣はそれをゴミ箱に捨てた。


 玄関直結の、廊下(けん)狭いダイニングキッチンの奥が六畳強の自室で、そこは色味といいデザインといい、シンプルで機能的な調度品のみで構成されていた。結衣は半分開きっぱなしのクローゼットにコートを吊るすと、すぐにシャワーを浴びた。さすがに一日ぶりに家に帰った実感と疲れを感じた。


 爽快な心持ちでユニットバスのシャワーカーテンを開けると、小さな洗面台に居たたまれなく置かれたボトルが目に入った。洒落たフランス語のラベルのついた小瓶は、この部屋の何とも溶け合わずにその独特な存在感を放っている。


 ――これ、良かったら使ってよ――

 突然、車の窓から伸びた手。あの時、思わず受け取ってしまった。


 結衣はタオルで髪を拭きながら思った。

(相手がいればいい、って訳じゃない)


 化粧水を手にする時に少し鏡に近づくと、そのボトルから、微かに芳香が漂って鼻孔を刺激した。ラベンダーのすっきりと広がりのある香りの奥に、樹木のような濃厚で落ち着いた香りを含んだ、気品に満ちた芳香。結衣はそのボトルをもう一度横目で見て、顔を逸らした。


 ずっと前から置きっ放しのそのボディークリームを、結衣は使うこともしまい込むことも出来ずに、毎日数回、置物でも見るようにただ目にしているのだった。




 数日後、新マネー誌“ガルマネ!”の取材で、結衣は出社後早々に会社のある神保町から新宿へ向かった。


「えー、そのカッコで行くの?」

と先輩のはるかが、外出しようとする結衣を咎めた。

 チャコールグレーのモッズコートの中に、パープル系の綿パーカとカットソーを重ね、ボトムはスキニージーンズで足元はかなり履きこまれたスニーカーだった。


「何でですか? いつもと変わりませんけど」

 結衣が不満げに聞き返すと、

「だって一流証券会社に行くんだよ。いくらあたしの昔の知り合いとはいえ、相手は部長級のお偉いさんだよ……。そんな思いっきりカジュアルでいいのかなぁ」

 はるかは困り顔で言ったが、結衣は取り合わなかった。


「別に私はそこの社員じゃないんですから。こっちにはこっちの仕事しやすい服装ってものがあります」

「まぁ……そうだけど」

 はるかは諦めたように息をついた。

「古屋なら大丈夫か。実は向こうも相当な変わり者だしね……」


 今回結衣が担当するのは、リアルな金融業界の男性社員に仕事内容やマネー運用のことを聞き、読者に金融業界への興味の糸口にしようというページなのだ。


 そのためには、第一回の人物は派手な方がいい。つまり、イケメンで若くて高収入で――などと企画会議で話し合っていたら、はるかが大学の同期にそれっぽい人がいるという。


「イケメンと言えるかは分かりませんけど……。ユナイテッド・キャピタル証券で部長やってる27歳ってどうですか」

「ユナイテッド・キャピタル!? 一流外資系企業じゃないか。年収一千万は優に超えてるな。――よし、決まりだな」

 小野は即オーケーを出した。


 それからはるかがユナイテッドの広報部と本人に許可を取ったのだが、取材となると、急に知り合いだとやりづらいと言い出し、結衣に白羽の矢が立った。冗談で「編集長はやらないんですか?」と聞くと、小野は結衣をギロリと睨み、

「一回りも年下で、俺より稼いでる奴なんかとまともに話せるか」

と、半ば本気かと思わせる勢いで拒否した。



 都営新宿線の改札を出て西口方面に出ると、冷たい北風が顔に吹き付けてきた。見上げると、真冬のどんよりとした空に溶け込むようにいくつもの高層ビルが立ち並んでいる。


 都庁方面に向かって進み、はるかがくれたメモを見直して『新宿ハイアークタワー』の前で結衣は足を止めた。地上三十階、地下三階建てのうずたかいビル。ユナイテッド・キャピタルはここの21~23階部に入っていた。調査部は23階。回転ドアを抜け、通路を隔てて幾つかに分かれているエレベーターホールを見回し、高層階へ行くエレベーターに乗った。


 23階に降り立つと、すぐ脇のカウンターに美しい受付嬢が二人いて、結衣を認めると微笑んで会釈した。結衣が周囲を見回すと、往来する人々は皆スーツやセットアップをかちりと着こなし、背筋を伸ばして歩いていた。角英の編集部のように、穴の開いたジーンズで缶コーヒーを飲みながら歩いていたり、頭を掻きながらあくびしたりしている者は皆無だった。


(なるほど、これは確かに場違いかも)


と、やっと結衣も少し現実が見えたが、彼女は記者として仕事をすることに並ならぬ誇りを持っていたため、それ以上は気にしなかった。


 受付カウンターに近づき、

「角英出版の古屋と申します。調査部の木籐和成(きどうかずなり)さんと十時半にお約束してるんですが」

と述べると、

「ではこちらへご記入ください」

と受付簿を示された。


 記入が済んで許可証をもらい、首から下げていると、

「調査部はこちら左側の廊下、一番奥になります。木籐の席は、調査部に入りましたら突き当たりのブースの中でございます」

 受付嬢は丁寧に教えてくれた。感じの良い対応に、結衣も笑顔で頭を下げてその場を後にした。


(ブースって……個室ってこと?)

 歩きながら結衣は考えた。言われた通りの場所に調査部はあり、廊下と部内を区切るドアは開け放たれていた。


「失礼します」


と声を掛けて中に入ると、二十人程の社員がパソコンから頭を上げて注目した。結衣は自分が動物園のパンダになった気がした。

「えー、角英出版の古屋と言います。木籐さんとお約束で伺いました」


 素通りするのもためらわれたので、自己紹介がてら断った。返事は期待してなかったのだが、一番手前の席の、サーモンピンクの制服をまとった若い女性社員が立ち上がった。首から下げた社員証に『鈴木志麻』と書いてあった。


「木籐はこちらになります。どうぞ」

とにこやかに結衣を先導し、奥のガラス壁で仕切られたブースのドアをノックした。ドアを開けて中に声を掛け、結衣を振り向いて、

「どうぞ、お入りください」

と促すと、自分は入らずに席に戻った。


(はぁ、やっぱ一流企業は対応も感じがいいな)

と、結衣はほっこりした気分で、部屋を眺めた。


 六畳程の室内の、三分の一は彼のデスクとワークスペースで、残りは少人数用のミーティングテーブルが置かれていた。ドアのあるガラス壁には目隠し用のブラインドもついていて、今は30センチ程降ろされていた。反対側の壁には大きな窓があって開放感があり、いかにも偉い人の個室という感じだ。


「角英出版の古屋と申します。調査部長の木籐さんですね。本日はお時間を取っていただき、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 ここへ来て三度目の自己紹介をして頭を下げた。

 だが、男はデスクのパソコンに向かったまま、結衣に目もくれなかった。


 結衣は首を傾げた。


 時計を見直したが、丁度十時半を回ったところだ。結衣はドア際からデスクの前に移動し、もう一度、

「私、角英出版の……」

と繰り返そうとすると、


「少し待っててくれないか」


とディスプレイから目を離さずに、彼は言った。結衣は一瞬ムッとしたが、はるかが「相手も変人だ」と言っていたのを思い出し、心を落ち着かせた。


(て言うか、“も”って何だ……)

 今更どうでもいいことに引っかかりながらも、結衣は目の前の“変人”を眺めた。

(これは……厳しそうだな)

 どうも見た目は褒められたもんじゃない。もさっと長い前髪が顔の上半分を埋め尽くし、さらに黒縁の分厚い眼鏡をかけている。「輝く現役一流証券マンの素顔」を取材に来たのに、文字通りの素顔は判別不能だ。肌の色は健康的だが、痩せ型だし何だか引きこもりのオタクっぽい……。読者を惹きつける要素を一体どこに見つけようか? ――


「待たせて済まなかった」

と、突然彼はキーボードから手を離し、立ち上がった。


(あ、)

 結衣は意外な思いで顔を上げた。

「――いえ、全然」

 彼は、予想外に長身だった。何でもない買い物で思わぬオマケをもらったときのように、結衣は心を弾ませた。


「じゃあ、まずはインタビューさせてください」

と、明るく言うと、彼は「ああ」と頷いてデスク前のミーティングテーブルに移動した。

「はじめに今回の企画の説明をさせていただきますと、当社で新しく女子向けの金融雑誌を出版することになりまして……」

 結衣が向かいに座り、企画書を取り出そうとすると、


「そんなことはいい。オレに聞きたい話というのは何だ」

 ぴしゃりと彼は遮った。


 結衣は一瞬眉間にシワが寄りそうになるのを(こら)え、さっさと自分の手帳を開いた。

「木籐さんが金融業界に入られたのは、どういうきっかけですか?」

「別に、向いていると思ったからだ」

「そうですか……。じゃあ、その若さで部長になられたのも、向いていたからですかね。お仕事は楽しいですか?」

「ああ」

「普段、どのようなお仕事をされてるんですか?」

「名前の通りだ」

「――は?」

「企業業務の実質調査だ」

「……ですよね……。では――」

 質問をする間、彼はほとんど表情を変えず、「ああ」か「いや」を繰り返した。結衣は内心閉口した。15分後にレコーダーを止めたときには、私が文章に仕立てるしかないパターンだわ、と完全に諦めがついていた。


 結衣が手帳をバッグにしまっていると、木籐はすでに立ち上ってデスクに戻らんばかりだった。

「あ、まだです」

 慌てて声をかけ、結衣も立ち上がった。若干の不快を態度に滲ませている木籐に急いで近寄り、言った。


「今からお写真を撮らせていただきます」

「写真?」

 今度はあからさまに不快な顔をされたが、もはや結衣は慣れ始めていた。

「そうです。カラーページですし、文字だけでは説得力に欠けるので」

 そのまま木籐の腕を取り、強引に窓際へ促した。

「普段と同じにしてもらっていいですから」


 何やら不穏な様子の木籐に、結衣はバッグからデジタル一眼レフを取り出しつつ軽い調子で声をかけた。

 が、カメラを向けると、彼は無言で固まってしまった。

(うーん)

 結衣はカメラを下ろし、おもむろに木籐の隣に並んだ。彼が若干身を引いた気がしたが、気にしないことにした。

「ここ、すごい眺望ですよね」

 大きく取られた窓から見下ろすと、都心らしい洗練されたプラチナ色の街が一望できた。その足元に、砂漠のオアシスのようなひとかたまりの緑地があった。

「こんなところに、――森、ですか? 知りませんでした」

 結衣が感心したように言うと、


「……新宿中央公園だ」

 静かに、木籐が答えた。


 結衣は口元に笑みを浮かべて隣を見上げ、数歩下がって再びカメラを構えた。

「疲れたときに、癒されそうですね」

「まあな」

 木籐が下を向いて呟くように返事をしたとき、結衣は数回シャッターを切った。

「ありがとうございます」

 モニターを見る限り、いい写真が撮れたと思った。木籐も肩の荷が下りたようにデスクについた。


 結衣はそのまま帰ろうとしたが、思い出したように、

「あっ、せっかくなのでその写真も撮らせてください」

と言いながら、パシャパシャと数枚勝手に撮った。木籐は何も言わなかった。それから結衣はモニターを確認して、「うーん」と、厳しい表情で唸った。


「あの、ちょっと申し訳ないのですが」

「何だ」

「そのメガネ、外せませんかね?」

 結衣はデスクに身を乗り出して、眼鏡に手を伸ばした。が、

「オレはこれがないと何も見えないんだ」

 一瞬先に、木籐は眼鏡を押さえた。

「二〜三枚撮るだけです、5秒で済みます」

 結衣は食い下がったが、

「断る」

と断固として拒否された。


「そうですか……。仕方ないですね。じゃあ代わりに、ちょっといいですか」

 結衣は間髪を入れずに、伸ばした手で彼のもっさりとした前髪を適当に分けた。木籐は無言だった。邪魔な前髪が退いて顔の印象が格段に明るくなって、結衣は頷きながらまた数枚撮った。

(まあ、及第点ってとこかな)

 写真を確認してからバッグにしまうと、木籐に頭を下げた。


「今日はありがとうございました」

 彼がこちらを見て安堵したように頷いたとき、

「あ、前髪……。やりっぱなしでした。戻しますね」

「いや、いい!」

 結衣が手を出す前に、木籐は慌ててクシャクシャと自分で戻した。最初よりもさらに寝起き風のヘアスタイルになってしまったが、結衣は見なかったふりをしてブースを後にした。

 長いエレベーターを降りて外に出ると、そびえ立つビルを結衣は振り返った。

(面白い変人さんだったな)

 思わず微笑んだ。




 帰社した結衣は、早速原稿に取りかかった。何度聞き直してもあまりにあっさりした答弁で、最初は書くのに苦戦したが、木籐の冷徹・毒舌キャラを立たせて書こうと決めると、意外にもはかどった。


『金融の世界はシビアだ。素人の出る幕じゃない』


と、逆に読者の第一印象を悪くする見出しを付けた。立ち姿の写真がなかなかの出来だったので、ビジュアル的に大きく使い、毒舌との組み合わせで興味を引けると思った。第一稿を手早く書き終えると、編集長のもとへ持って行った。


「フーン」

と小野は一読して、

「まあこれで行ってみるか」

とオーケーを出した。

「ありがとうございます」

 結衣が去りかけると、背後から、

「このメガネがなければもっとイケたんじゃねーの」

と、駄目出しをされたので、

「それはもちろん、お願いしたんですよ。でも、どうしても無理だっておっしゃるんで」

 結衣も弱り顔で答えた。


 すると横からはるかが覗き込んで、

「うわ、このメガネまだしてたんだ。木籐くん、これ学生の時からだよ。近視と乱視がひどくって、他のじゃダメなんだって言ってたけど……。今ならいくらでもあるだろうにね」

「じゃ、十年近く使ってるってことですか? もう顔の一部になっちゃってるから、外してくれないんですかねぇ」


 わいわいと話していると、リサもやって来た。

「ホントだぁ。このメガネはないですよね。いくら年収良くても、合コンではモテないですねぇ」

 ファッションと合コンマニアのリサに、木籐はコテンパンにされてしまった。


 散々な言われように、さすがに木籐が気の毒になって来て、結衣は小野に、

「じゃ、これで進めますよ」

と皆の前から原稿を引き上げてデスクに戻った。


 椅子を引いて座ろうとすると、散らかった机の上の携帯がメールの新着を告げていた。結衣はそれを読むと、時計を確認し、急いで仕事の続きに取りかかった。


 七時過ぎ、周りがまだ定時前と同じ様なペースで働いている中、結衣は、

「お先に失礼します」

と席を立った。

「あれ、今日は早いね」

 はるかが声をかけると、

「とりあえずキリついたんで」

と手短に答えて結衣はさっさと編集部を出た。


 それを見送ったはるかは不思議そうに、

「古屋って時々ああやって早く帰るよね。彼氏もいないのに。何かあるのかな?」

と呟いた。

「――知ってました? 一応ウチの会社、水曜はノー残業デーですよ」

 後ろにいたリサがその呟きに正当な返事をした。そして、

「という訳で、じゃ、私も合コンなんで」

と、調子良く立ち上がってはるかと小野に手を挙げた。



 会社を出ると、結衣は自宅のある元住吉ではなく、代官山で下車した。

 その目的地は、いつも一つだ。

 華美ではないが、上品な佇まいの白いマンション。それは、どことなく人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。駅から徒歩5分くらいの立地でありながら、人の出入りは有るか無きかのごとくひっそりとしている。それもそのはず、建物は植栽でしっかりと囲まれているうえ、メインエントランスは最も人通りのない側にしつらえてある。ぱっと見には一体どこが入り口なのか、頭を悩ませられる。夜でも明かりのついた窓はごくわずかで、空室だらけのようだった。いや、もしくはそもそも住居ではないのか、それとも巧妙に灯りを制御しているのか……。


 この辺りの人間には、『訳アリ物件』と噂されていた。


 一息ついて、結衣はそのエントランスホールへと踏み入った。バッグからカードキーを取り出して、住人のように自動ドアを解錠した。輝く大理石で埋められた天井の高いホールを過ぎながら、コンシェルジュに会釈し、エレベーターで最上階へ向かう。リゾートホテルのような絨毯敷きの廊下を進んで、1001と書かれた部屋のチャイムを鳴らすと、すぐにドアは開かれた。


「会いたかった」

 結衣を招き入れた男は、そう言って彼女を優しくハグした。


「うん、私も……」

 身を任せながら、彼女は控えめに応えた。

 奥へ続くLDKは三十畳程もあり、寛ぎを極めた調度品のみが揃う生活感のない空間だった。全て清潔に手入れされ、美しく整っている。南側は全面ガラス窓で、手アカ一つない。


 結衣がコートを脱いでハンガーにかけていると、

「何か飲む?」

と、キッチンで冷蔵庫を開けて彼は振り向いた。

(ひかる)さんは、何飲んでるの」

 結衣は聞きながらリビングのローテーブルに目をやった。

「僕はペリエ。車だしね」

「じゃ、私も」

と、彼女もアイランドキッチンの奥の冷蔵庫に向かった。光が冷えたグラスとペリエのボトルを結衣に渡した。

「ありがとう」


 ソファに並んで座ってグラスを口に運びながら、結衣は光の横顔を眺めた。色白な肌に繊細な鼻筋、すっきりとした二重瞼の奥には深い琥珀のような色の瞳。柔らかなストレートヘアも、華奢な体つきも、まるでこの部屋の様に一点の落ち度もない。


(なんでこんな人が、私の隣にいるんだろう)


 答えの明白な疑問が、毎回頭に浮かんでしまう。

 結衣の視線に気づいたように、光はグラスを置いて微笑んだ。結衣も微笑み返したが、多分あまり笑えていなかったと自分で思う。


 が、それも大して重要ではなかった。彼はもう結衣を抱き寄せ、髪にキスしていた。体が触れると、ネクタイを緩めた彼の襟元からよく知っている芳香が微かに漂った。


「ごめん、私、タバコ臭いよ。会社から直で来たから」

 結衣は申し訳なさそうに言った。光は煙草が好きじゃなかった。それに、自分の身体に染み付いている編集部の濁った空気が彼の中に入っていくのを思うと、罪悪感があった。

「いいよ。結衣のせいじゃないし」

と、光は一度身を引いて向き合い、いたずらっぽく笑って彼女の頬に手を当てた。

「ここで全部、僕の匂いにしてあげるよ」

 キスをして、ソファに倒れ込んだ。


 数時間後、ベッドで素肌のまま寛いでいた光は、

「シャワーを浴びてくるよ」

と、上体を起こした。結衣も同様に起き上がって頷くと、

「結衣もおいでよ」

と無邪気に誘うので、彼女は子供のわがままを聞くように笑って付いて行った。


 軽く汗を流して脱衣所に出ると、先に上がった光がボディークリームを塗っていた。脱衣所はあの独特な芳香でいっぱいだった。

「この季節は、特に乾燥するから……」

 腕のクリームを伸ばしながら、光は言い訳のように言った。

「大変だね。でも私、その香り好きだよ」

 結衣は微笑んだ。彼は嬉しそうに「結衣も使ったら」とボトルを渡した。


 彼女の部屋に置きっ放しの小瓶と同じ、フランス語のラベルがついていた。


「ありがとう。でも私、そんなにデリケートに出来てないみたい」

「――あ、今また僕をバカにしたろ?」

 光は大げさにすねた顔を作った。

「してないよ」

 笑いながら、結衣はそれを使わずに棚に戻した。使わない理由は他にあった。


 そのまま二人は着ていた服を元通り着込んだ。光は時計を確認して、

「時間だからそろそろ行くよ」

と、残念そうに言った。結衣が頷くと、


「結衣は泊まっていっていいんだよ。住んだって構わないし。いつも言ってるけど、ここは君のための部屋なんだから」


 光は気遣うように言った。結衣は答えずにただ微笑んだ。

 玄関でもう一度キスをすると、光は慈しむ様な表情で結衣の頬を撫でてから、部屋を出た。


 一人になった結衣は、深い溜息をついてリビングに戻った。使った物を全て片付けて、およそ二十分後、自分も部屋を後にした。




 光は広尾の住宅地の一角に車を一時停止させると、リモコンキーを暗く重厚な門に向かって押した。ゆっくりと門が開き、彼はその中へ車を滑り込ませた。


 昭和初期に建てられたと聞く重厚な邸宅の、二階にある自室に向かって歩いていると、背後のドアが開く音がした。


「光」

と、低く太い声が彼を呼んだ。


 温かそうなナイトガウンに身を包んだ隙のない立ち姿の紳士が、厳格な視線で彼を見ていた。


「お父さん。まだ起きてらしたんですか」

 光は振り向いて言った。


 父はその問いに特に答えず、咎める様な表情で続けた。

「随分遅かったな。飲んではいないようだが」

「当然ですよ。飲酒運転で事故などとなったら、会社のイメージに大打撃ですからね」

 彼の答えに父は頷くと、


「お前はマスコミを避けているつもりだろうが、世間は高宮エステートグループ後継者のお前を十分認知している。常に公人であることを忘れるなよ。夜遊びも感心したものじゃないが……、外泊だけは慎むように。城之内家に疑いを抱かせる様な行為は、最も愚かだ。忘れるなよ」

 畳み掛けるように父は厳しい言葉を発した。


 光は軽い溜息をつくと、

「ええ。少し気晴らしに走りに行っていただけですよ」

と返し、会釈して背を向けた。


 背後で父が自室に入ったドアの音が聞こえると、彼は立ち止まって振り返り、悲哀と苦痛の混じった視線を投げた。




読んでいただき、ありがとうございました。

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