プロローグ
その日は、朝から激しい雨が降っていた。
空は雲に覆われ、昼間でさえ暗かった景色は、夜になると自分がどこにいるのかすら分からない。
村から少し離れたところにあるこの家は、村の中で一番狼山に近く、異変があればすぐさま村長に報告する役目を受けている。
狼山とは、村の北側に歩いて2日ほどかかる場所に位置する、この国で一番大きな山のことで、その名の通り狼が住み着いている。
この国は北東に狼山、南東に鹿森、南西に猪山、西に狸森、北西に狐山があり、それらの中央に人間達の首都がある。首都を中心に東西南北に町があり、そこから村がいくつかある。それぞれの村で木材や食料を集め、町を経由し、首都まで運ぶのだ。
この村の傍にはそこまで広くない森がある。これは歩いて2時間ほどの場所にあり、この村の住民の多くはそこで林業を営んでいる。
ガスも電気もないこの世界では木材は生活のすべてであり、唯一獣が住み着いていないこの森は、安定して木材を得ることができる貴重な産地の1つだ。
この家の家業は林業で、村の商業組合で他の同業者をまとめ上げる立場にある。
村でも一目を置かれている父、厳しくも優しい母、いじわるながらも優しい姉、父の跡を継ぐため仕事に励む兄。
そしてそんな家族の愛を一身に受け、素直に、純真に育った末っ子。
彼らの幸せな日常は、この日の夜を境に動きだす。
「雨止まないね」
窓から外を眺め、退屈そうに両腕に顎を載せている少年はリオネ。
まだ10歳にもなっておらず、父の仕事を手伝うことができないため、家事を手伝ったり、勉強したりするのが日課だ。
「ここまで荒れればお父さんたち向こうで泊まるかもしれないわね」
「ほらリオネ、おこちゃまはとっととお湯で洗って寝なさい」
暖炉の火にあたりながら縫物をしているのが母親のシェーネ。
愛情深く、村の人たちからの信頼も厚い彼女は、リオネの自慢の1つだ。
「もうおこちゃまじゃないもん」
「それじゃあおぼっちゃま。お湯でお体を洗って差し上げましょうか?」
「1人で洗えるもん!」
「怖くなったらいつでも呼ぶのよー」
リオネをからかっているのが姉のリーネ。
村一番の度胸と料理の腕を持つと名高い彼女は、リオネの密かな自慢の1つだ。
「もうすっかりお姉ちゃんになったわね」
「もっと前からお姉ちゃんだったでしょ?」
「あら、ちょっと前までは恋する乙女だったじゃない」
「・・・うん。でも、いい加減切り替えないとね。リオネもまだあんなだし、いい経験ができたと思って諦めるわ」
「まあ。大人になったわね、リーネ」
「二十歳ですからね、私も」
2人が笑いあっていると、ドアがドンドン!と激しく叩かれた。
「助けて、ください!狼に、襲われて、足が・・・!」
外から男の声が聞こえる。今まで聞いたことのない声だ。間違いなく村の人間ではないだろう。
リーネは狼という言葉を聞いて、咄嗟に暖炉の傍に置いてあった斧を手に取った。
シェーネは窓から外をそっと覗いて、狼が外を囲んでいないかを確かめる。
この世界での村や町への移動は、必ず20人前後の単位で行われる。
通常、狼は10匹前後の群れで狩りをする。狼は2匹で1匹の獲物を狙うため、襲われて人数が減っても狼達が警戒するように、多めの人数で移動するのだ。
仮に男がこちらに移動していたところを襲われた場合、この男はわざと見逃され、この家に辿りついたのかもしれない。
そうなった場合、少なくとも10匹以上の狼に囲われていることになる。男の傍はもちろんのこと、窓を破って後ろから狼が侵入してくることだって十分考えられる。
「外にはいないわ」
「わかった」
リーネはゆっくりと扉に近づいた。扉に耳を当て、外の音に耳をすませる。
男の荒い息遣いにうめき声。雨が地面を叩きつける音。吹き荒れる風。
(天候のせいで何もわからないけれど、この人が傷を負っているのは本当みたいね。このまま出入口を塞がれたまま死なれても困るし、ここは覚悟決めるか)
「せーので扉を内側に開きます。その時に全力で中に飛び込んでください。いいですね?」
「わかったりました・・お願いします」
静かに鍵を開ける。狼が飛び込んできてもいいように足の位置を整え、斧を握り直し、深呼吸をする。
「いきますよ・・・せーのっ」
バンッと勢いよく扉を開けると、ずぶ濡れの男が中に飛び込んできた。リーネは男のつま先にあてながらも、扉を閉め、錠をかけ、近くの木箱を扉の前に置いた。
先ほどは男がいたせいで見えなかったが、この地域の村には扉越しに狼が見えるよう、下の方に小さな覗き穴があけられている。その蓋を外し、外を眺める。
風で激しく揺れる木々。雨でぐちゃぐちゃの地面。男のものと思われる血だまり。
狼除けの柵は無事。ただ出入り口の柵が開きっぱなしだ。おそらくこの男が入ってくるときに開けたままにしたのだろう。外の血を見る限り結構深い傷のようだから、そこまでの余裕がなかったのだろう。
(普通だったらもう狼に囲まれている。足に傷を負ってやつらから逃げられるわけがない。それとも他の人たちが襲われているうちに逃げたのかしら)
どう考えても怪しい男だが、リーネとシェーネであれば足に深手を負った男1人程度どうとでもなる。リオネがお湯浴びから戻ってくる前に、傷の手当てと血の跡を消さなくてはいけない。
「失礼しますね」
シェーネが裁縫用のハサミで男のズボンを切る。太ももが噛まれており、狼の牙がかなり深くまで届いているようだ。これでは血が止まってもしばらく足は使い物にならないだろう。
「かわいそうに、今止血しますね」
「すいません・・・」
リーネが水と乾いた布を持ってきて、シェーネが傷口を洗い、そこから少し上の位置で縛る。
「ぐっ・・・!!」
「今日はこんな天気ですから、明日お医者様のところに行きましょう。そのころには夫も帰ってきているでしょうし」
改めて傷口を拭き、全体を覆う。傷口を焼いてしまってもいいが、消毒もせずに塞ぐわけにもいかない。ここまで足を引きずってきたのならば、破傷風になってもおかしくだろう。
「替えの服を持ってきます。父のですから大きいかもしれませんけれど。それまで暖炉の前で温まっていてください」
「何から何まで、ありがとうございます」
「困ったときはお互い様ですよ」
シェーネが血の跡を拭き、リーネが着替えを持ってくる。
この2人がやけに手馴れているのは、狼山の傍という立地に加えて、この村の教えに基づくものだ。
狼は賢く、決して獲物を逃さない。助かったものがいれば、その周りには狼がいると思え。
自分の身は自分で守り、他者を守れるだけの力をつけよ。
この村では古くからこの教えが伝わっており、実際に彼女たちも何度か狼と遭遇したことがある。
というのも、リオネがまだ5歳前後のことだ。村から少し離れた平野で友達と遊んでいたら、突然1匹の狼が現れた。その狼に友達は全て殺され、助けに来た大人たちも何人か殺された。
その時のことを彼は覚えていない。だが時折狼との傷を負った人を見るとひどく怯えるのだ。いつか乗り越えさせなければいけないことはわかっているのだが、家族は皆、彼のことを甘やかしてしまう。
「お姉ちゃん。次、いい、よ・・・」
湯浴びから戻ったリオネの動きが止まる。
知らぬ間に現れたびしょ濡れの男から視線が離れない。
正確には彼の表情。荒い息遣い。そして赤く染まった布から。
「リオネ、もうお湯浴び終わったのね。お客さん来てるからもう寝なさい」
リオネの息が荒くなる。瞳孔が開き、じんわりと汗が出る。
「おじ、さん。足、どうしたの・・・?」
「ここに来るまでに転んじゃったらしいの。ほら、リオネが飛ばされちゃうくらいの風が吹いているでしょう?」
「でも、血が、赤い、赤いよ?」
言葉がたどたどしくなり、息をするのも辛そうに胸を抑える。顔には大粒の汗がつたい、あきらかに様子がおかしくなっていた。
「大丈夫、大丈夫よリオネ。ここには私がいて、お母さんもいる。あなたは何も怖くない、安心して。大丈夫、大丈夫よ」
リーネが優しく彼を抱きしめる。お互い立ったまま抱きしめると、丁度リオネの頭がリーネのお腹の位置になる。
男が見えないように、血の匂いがしないように、息遣いが聞こえないように、少しでも安心できるように。頭を撫で、片耳をそっと手で覆う。
「お姉ちゃん、なんだか今日は眠れそうにないから、一緒に寝てくれる?リオネがいないと寂しいの」
「・・・うん、いいよ」
「ありがとう、リオネは優しいね」
2人は2階にあるリオネの寝室に向かった。リオネの希望で数年前から1人で寝るようになったのだ。
一度シェーネに目配せして、リーネはリオネを連れて2階へと上がっていった。
「・・・すみません奥さん。ご家族に迷惑をかけてしまって」
「構いませんよ。それより今日はどちらからいらしたんですか?」
「北町から、東町に行く人たちがいて。一緒に東町へ行くところだったのですが、川を渡るときに狼に襲われてしまって。他にも一緒に逃げている人がいたのですが、いつの間にか1人になって・・・」
「どれくらい前かわかりますか?」
「さあ・・・ただ襲われたときはまだ明るかったと思います。ここまでの暗さではありませんでした」
「そうですか・・・」
北町と東町の間には狼山から鹿森にかけて大きな川が流れている。橋はいくつかあるが、この天気でその橋を渡るのは些か無謀だ。地元住民はまずしないだろう。
北町から東町へ定期的に行商人が行き来しているのは事実だが、仮にも商人が、こんな天気に大事な商品を載せて、増水した川を渡るだろうか。ここら辺の橋はお世辞にも立派とはいいがたく、なんなら強い風が吹いただけで渡るのが恐ろしくなるほどなのだ。
それに、ここまでの傷を負って狼から逃げきれたとというのが信じがたい。
狼山の狼以外にも野良狼はいるが、こんなところにはいないはず。少なくともあの山の狼達ならば、手負いの獲物をみすみす逃がすことなんてありえない。
(考えても仕方ない、か。ひとまずは明日ね)
「動くのも辛いでしょう。敷くものを持ってきますので、よろしければどうぞ」
「何から何まで申し訳ない。この御恩は必ずお返しいたします。」
「ええ、楽しみにしています」
シェーネは2階へと上がりながら火を消して、外をのぞいた。
あたりは暗く、相変わらず雨が降っている。風は少し収まってきたようだが、どのみち今日はもう遅い。夫と息子が帰ってくるのは明日になるだろう。
(狼はいない。そもそも遠吠えもなかった。逃げている獲物を遠吠えで脅して、逃げ回らせてから襲うのがやつらの常套手段なのに。一体なぜ?)
シェーネは元々用心深い性格だ。それはリーネにも受け継がれており、彼女も終始男のことを疑っていた。今頃はリオネを寝かしつけている頃だろう。さっきの様子を見るに、彼のトラウマはまだ癒えていないようだ。
(ちょっと前まではリーネの方が慰められていたのにね、我が子ながらいい子に育ってくれた)
あの傷なら立ち上がることもままならないだろう。仮に起き上がれてもバランスを崩して倒れるだろうし、その際は音で目が覚める。
今夜は何年かぶりに川の字で寝ようと、彼女はルンルン気分で、愛する子ども達のいる部屋に向かった。
初投稿です。
GW最終日に投稿しております。
皆様この連休中はいかがお過ごしだったでしょうか。
私は暇つぶしに始めたこの作業に全ての時間を費やしてしまいました。
ランウェイで笑うつもりが、ウゴゴゴ
少しでも皆様の暇つぶしになれれば幸いです。
よろしくお願いいたします。