日本の「空気」とは何か
日本ではよく「そうしなければならない空気があった」とか、「そんなことは言い出せない空気だった」とか云いますが、この「空気」とは何でしょうか?多くの人がこの空気の圧力を感じているようですが、なぜこの「空気」にそんな力があるのでしょうか?
私の考えでは、これは「慣習法」だと思います。
人々の間で、ある行動が繰り返し行われてきて慣習になっており、それが人々の行動規範として法的拘束力を持つ場合、それが「慣習法」と呼ばれます。
つまりは「ならわし」であり、「しきたり」であり、さらには「暗黙の了解」です。
この慣習法は、公的機関が制定し、文章化された法である「制定法」「成文法」と対比されます。
慣習法は世界各地に存在している、また存在してきたものであって、古代ではこれが主な法であったと思われます。
例えば、イスラム以前のアラビアでは、人々は自分の属する部族の伝統的なしきたりを絶対のものとして常にこれに従ってきたと云われます。それによって、食べてはならない食物とか、結婚や離婚のやり方とか、戦争のやり方とか、敵から攻撃を受けた際の報復の仕方とかが規定されていました。
イスラム以後はこうした慣習法は廃れたようですが、イスラム法においても、預言者ムハンマドの生前の慣行が主な法源の一つとなっているところに、この伝統が受け継がれているように思えます。
また、ヨーロッパの大陸部では成文法が主要な法となっているのに対して、英国では慣習法が主要な法であり、大陸法と英米法は異なった法体系を持っていると云います。そのため、英国には他の国の「憲法」にあたる成文法が無いそうです。
聖公会(英国国教会)では、世界各地に布教したあとも、各地の聖公会に共通の教義を明確に定めるのが遅かったと云いますが、あるいはこれも、宗教的な決まりごとも慣習によるところが大きかったからかもしれません。
日本の法体系は主に大陸法によっていて、憲法や民法や商法や刑法などは成文法であり、これによって各種行為が規制されています。しかしながら、実際の生活では慣習法が果たしている役割も大きいように思います。つまり、日本には成文法の他に、ある種の「しきたり」とか「暗黙の了解」があります。
例えば、大抵の人は職場や学校で目上の人に話す時は「敬語」を使いますが、敬語を使うことは別に法律で決まっているわけではありません。(ところによっては明文化されているかもしれませんが)
それでも、人はこうした集団の中で生活するとき、目上の人に敬語を使うことが求められますし、大抵の人はそうして育ってきたので、自然に敬語の使い方が身に付いてきます。
そして、敬語を使うべき(と見なされる)時に敬語を使わない人がいると、その人は不当なことをしていると見なされ、非難されたり制裁を受けたりします。それで人々は、その社会で生きていくために敬語を使うことがルールになっていきます。つまり、この慣習には一種の法的拘束力があるわけです。
その他にも、お辞儀の仕方だとか、名刺の渡し方だとか、席につく際の席次だとか、酒の席では上司にお酌をしなければならないとか、飲み物をとってくる時には他の人の分もとってくるべきだとか、旅行から帰ってきたらお土産を同僚に配らなければならないとかのしきたりが、多くの場所にあるでしょう。職人の間で言われるような「体で覚えろ」とか「盗んで覚えろ」とかいうのも、これに近いかもしれません。こうしたことも、一種の慣習法だと言えるでしょう。
そしてこうした慣習には、上下関係を重視する、いわゆる儒教的な価値観が根付いているようにも思えますが…
そんなわけで、人に何かをするように、またはさせないように強いる「空気」というものも、こうした「しきたり」に従うようにという圧力であることが多いと思います。
で、こうした「しきたり」は、他の様々な要素と関係しつつ続いてきたものですから、簡単には変えられず、また、あまり簡単に変えるべきでもないかもしれません。
それでも、やはり人によってはこうしたしきたりを理不尽だと思い、耐え難いものだと思うこともあるでしょう。では、こうしたしきたりを変えるにはどうすれば良いのでしょうか?
それには、「慣習によって生じた法であるから、慣習によって変わる」と言うべきでしょう。
つまり、今までとは違うやり方を始め、それを続けていくことによって、そして他の人々もそれに倣うようになることによって、そこに新たな「しきたり」が生まれることになるでしょう。人の言うように、「人の通った後に道ができる」というわけです。良くも悪くも。
例えば、「女言葉」というものがあります。「~わよ」とか「~のよ」とかいう言い方ですね。これは昔は広く使われてたみたいですが、最近はあまり使われていません。これは人々が実際に使わなくなったからですし、また昔に比べて(あくまでも昔に比べてですが)、女性に対して「女らしさ」というジェンダーロールが強く求められなくなっているからでしょう。(創作物などでは、逆に、年配の人の話し方とか、育ちのいい人の話し方としてキャラ付けに使われたりもしますが)
また、昔は職場の飲み会には参加が強く求められ、そこで酒を一気飲みさせる習慣もあったようですが、一気飲みの危険性が知られるようになったこともあり、最近はこうした飲み会にも、昔に比べると参加者が少ないようです。ところによってはまだ根強いでしょうが…。
日本書紀の垂仁天皇紀には、古代の日本では身分の高い人が亡くなると、その従者も生き埋めにして死なせていた(殉死)が、垂仁天皇がこの風習をやめさせたというエピソードが載っています。この時、野見宿禰という人が埴輪を作って、生きた人の代わりに墓に供えるようにしたとされています。これはそのまま歴史的事実とは言えないにしても、人の殉死の記録は魏史倭人伝にもありますし、かつての習慣が行われなくなった由縁の記憶でしょう。
また続日本紀には、日本で土葬に代えて火葬が行われるようになったいわれも記されています。これはある仏教の僧侶が火葬にされたことから始まったとされていますが、現代では特に仏教とは関係なくとも火葬が一般的になっています。元々は仏教を通して広まったものが、仏教を越えて受け入れられたわけで、慣習が変われば、それに伴って慣習法も変わるわけです。そしてその慣習が変わるのは、人の心が変わるからです。
垂仁天皇も、「たとえ古くからの風習だとしても、良くないことであるならば、どうして従うことがあろう」と言っていますし、今に行われている理不尽な慣習も、変えられるなら変えていくべきでしょう。いわゆる「公序良俗」も、そうやって出来ていくのだろうと思います。