ひも
〈ひも〉が気になって仕事が手につかない。
かれこれ三十分ほど、インターネットの検索エンジンに何度も「ひも」と打ち込んでいる。
「ひも」「意味」
得られる情報は、ひもの材質、工法の種類などの機械的情報から、「ひも」の意味する語学的情報など実に他愛ない。女性の経済力を吸い上げるヒルのような男を揶揄することが、今直面していることと何ら関係ないことは明らかだ。
とにかく天井から垂れ下がっている〈ひも〉が気になって仕方がない。
「ひも」「天井」
私には建築に関する知識がない。次に検索エンジンにかけたワードがこの二つだ。建築の構造的に意味のある〈ひも〉ならば、触らないにこしたことはない。インターネットから弾きだされた無秩序な情報たちを占めたのは、「蛍光灯のひもが切れました!」といった生活と密着するナレッジコミニティにまつわるものだった。
予想していた検索結果だったが、一応落胆してみる。
無為を感じながらも、状況を振り返ることにした。
私はとある化学メーカーに勤務するエンジニア、三十五歳。
ただし、私はエンジニアとして重大な欠陥を抱えている。〝ある能力の欠落〟といってもいい。そしてそれはエンジニアにとって致命的な欠落なのだ。エンジニアというと聞こえはいいが、企業に属するエンジニアは、つまるところサラリーマンである。サラリーマンエンジニアにとって最も必要とする能力を、私は欠落させてしまっていた。
それは、「コミュニケーション能力」である。
技術力やアイディア力、職業外見上はそれらの能力が必要とみえるだろう。しかしそれらの能力はコミュニケーション能力の傘下に入るのだ。
たとえば、恐怖を覚えるほどの切れ味を持つ包丁を作る職人がいるとする。それは素人がおよそ手が出せぬ領域で生み出される職人性の業の産物である。文字通り〝腕〟から振るわれる、シンプルな素人排除なる「技術力」は分かりがいい。
ならば化学メーカーに属するエンジニアにとっての「技術力」とは何を意味するのか。過去の研究者たちが積み上げた「知識」、生成物の純度を左右しうる「精度」、実験に必要な装置の潜在能力を十分に引き出す「操力」……、「技術力」を意味する領域は多岐に渡る。ある特定の領域をルーティン化して突き詰めることで職人性とも呼べるステージに到達することは可能だ。しかし、それらの殆どは機械と管理にとってかわられつつある。
他の装置で得難い貴重なデータを測定できる装置は、常に予約殺到となる。私が実験したくて、二カ月も前から装置を抑えていたとしても、直前になって押しの強い同僚たちにそのスケジュールはのっとられる。
「ごめん、今すぐって上に言われちゃって……」
こう言われると私は何も言えなくなる。彼らは私のやっていることが、商業的に意味のないことだと決めつけている。
私は他人と話すのが苦手だ。苦手というより恐怖に近い。細菌が体内で爆発的に増殖するのと同じように、本当は体の内側には言いたい言葉が溢れんばかりに湧き上がっている。
しかし、他者の顔を見た瞬間に、存在したはずの言葉たちは霧散する。そして時間がたって、失われた言葉たちへの申し訳なさから陥る自己嫌悪。頭では分かっている。後悔するぐらいなら言えばいいのだ……。そして私は、それぞれの領域で職人と呼ばれる同僚に仕事を相談することもできない。
他者と自分の間で勝手に後悔と絶望を繰り返しながら、私は限られた領域で仕事を続けていた。
気付けば、いわゆるの〝窓際社員〟だった。
業務が細分化され、他者へボールを投げなければ、他者の職人性を利用しなければ「技術力」は無いに等しい。それが私にはできないのだ。
「アイディア力」も同じだ。自己の内面要素だけで、アイディアを生み出すことができる者は一部の天才だけだ。
かのアドルフ・ヒトラーの言葉に、「天才の一瞬の閃きは、凡人の一生に勝る」とある。
たいがいの人間は凡人――そもそも凡人がたいがいの人間という意味だが――で、他者や他の物体、他の事象とすれ違う時に何かを生み出す。私は凡人であるのにも関わらず、「他」を自ら排してしまうがゆえに、「技術力」も「アイディア力」も持たない。干されて当然だった。
干された私に与えられた役職は、「汎用技術室 触媒班 班長」という「やくたたず」をそれっぽく漢字にしたものだった。
「室」も「班」も空しく響く。なぜなら中身は私一人だけだからだ。
そして「汎用」は、古いモデルだったり、使用頻度が下がったりした実験装置を減価償却するまで一か所に詰め込んでおく、という意味合いだった。
「触媒」とは、それ自体が反応するわけではないが、他の反応を加速や減速させる働きをもつ物質のことである。
「他」から孤立する私にとって、皮肉に溢れた存在だ。私は私以外の事物を加速も減速もさせない。新しい「触媒」を設計し、革新的な物質を生み出すことが、対外的な私の業務だった。私の前任者だった人間は、この職場に来て三カ月で会社を辞めたという。触媒を設計するための部署に、それを評価する装置がほぼ皆無なのでは、己の存在価値にどのような愚か者でも気づく。ちなみに、前任者は「壁から泡が出てくる」という謎の言葉を残して会社を去ったそうだ。この部署に異動してくる際に、わざわざ人事担当者にそのことを伝えられた。
前任者が異常をきたしたのか、事実として壁から泡が出てくるのか、私には分かり得ないことである。
一台のパソコンと、旧モデルの赤外吸光分析機と光学顕微鏡、示唆走査熱量測定機がこの部屋にある全てである。一般的な化学メーカーが所有する装置の種類から考えると、ほぼ装置は無いに等しい。それらの装置が、コンクリートをむき出しにした殺風景な四畳半ほどの部屋に押し込められている。
しかしながら、私はこの環境が気に入っていた。
当たり前のように「他」と隔絶された環境は、私に何よりの平穏をもたらしている。苦しい環境ならば、私であっても抜け出たいという感情が生まれ、内面にポジティブな変化を与えることもあるかもしれない。しかしここは絶妙に居心地がいい。どうせ私は閉じこもるだけの貝なのだ。自分を諦めてしまえば、もう傷つくことはない。
パソコンで新型触媒を設計してみては、パソコンの中で自身の仮説を覆す日々。更新され続ける机上の空論。
そもそも与えられたミッション(もちろん形骸的な)が、「何かしらの合成物の圧倒的収率を得られる触媒設計」。ミッションの内容が抽象的な時点で、「辞めたくなるまでパソコンを眺めていること」という裏目的が伺い知れる。
それでも私はこの環境が気に入っていたし、私なりに「圧倒的」な触媒設計を模索していた。これは人事関係者の予想外だったことだろう。
直近、圧倒的触媒設計において壁にぶつかっている。
触媒は「他の物質への見掛け上の干渉が無い」が、「他の物質への刺激とならなければならない」のだが、その両要素が矛盾しあうのだ。
私の所属する会社の製品の一つに、「アイマー」という材料がある。アイマーは、それこそ他を圧倒する性能を有している。
密度が0.500g/cm3、引張弾性率が150MPa、全光線透過率がほぼ100%。
何よりも軽い材質でありながら、何よりも強い、おまけに透明、そういうパラメータである。
しかし、アイマーには商業的欠陥があった。
アイマー合成時の収率が0.001%、つまりは僅かのアイマーを得るために、多大な原料と膨大な生産コストが必要なのだ。まさに机上の空論の産物である。私はアイマーの収率を上げたい。アイマーはもっと評価されて然るべきなのだ。金という要素で消えていった工業品は、枚挙に暇がない。無機質な科学が生み出す奇跡が、有機質な人のエゴで消えていく。私はなんとはなしに親心を覚えるアイマーを世に広めたかった。私は自他共に認める「役立たず」だが、アイマーは違う。しかし、アイマーの収率を飛躍的に向上させる「矛盾なき根幹的触媒理論」が私には思いつかない。
私は天才ではないのだから、「アイディア力」を生み出す力を他ソースに求めなければならない。徹底的な議論、仮説の構築と解体、そこから生まれゆく考察が必要なのだ。頭を抱えるだけの日々を送るうち、ある日汎用技術室の天井から妙な物がぶら下がっていた。
――それが〈ひも〉だった。
天井の中心に十円玉ほどの穴が空いており、そこからぶらんとぶら下がる無気力な〈ひも〉。長さは天井から見えているだけで二の腕ほど。穴の向こうでどれだけ続いているかはわからない。色は白。小指よりも細い、紐形状であること以外特徴らしい特徴の無い物体。
私が気づかぬだけで今までもあったかというと、それだけは有り得ないと断言できる。なぜなら私は、一日のほとんどを天井を見るだけで過ごしていたからである。ついでに言うと穴も無かった。〈ひも〉と同時に出現したと考えられる。
はじめに私は〈ひも〉を意識しないようにした。〈ひも〉に背を向けるようにしてパソコンを起動し、とにかくキーボードを叩きはじめる。
当初上手くいっていた無意識作戦は、唐突に失敗した。
ディスプレイに反射して〈ひも〉の姿が見えてしまった。そうなると自然に、〝誰が?〟〝何故?〟といった疑問が噴出する。
シンプルな物体であるからこそなのか、〈ひも〉の存在感は異様だった。まるで、誰かに見られているような気分になる。そうして仕事(もちろん形骸的な)は手につかなくなり、〈ひも〉に関する情報をインターネットから拾おうとしていたのだった。
それももうやめることにした。
私はインターネット上にある「紐」の情報ではない、今ここに背後でぶらさがる〈ひも〉のことが知りたいのだ。私はその日、何をするでもなく〈ひも〉に存在を脅かされながら過ごした。気にしなければどうということはないのだ。そう言い聞かせながら汎用技術室をあとにした。
次の日、そんな私をあざ笑うかのように、〈ひも〉はその姿を変えていた。
昨日は帰ってからも結局〈ひも〉に思考が捉われつづけ、ろくに寝ることもままならなかった。考えまいとすればするほど、〈ひも〉に絡みつかれる。
ため息をつきながら、汎用技術室のドアノブに手をかける。ドアを開けば、全てが元通りになっていると盲信するように、勢いよくドアを開いた。
そこに〈ひも〉はあった。
しかも前日より、長くなっている。昨日のうちは私の背丈よりも高いところに先端があった〈ひも〉は、先端が目の高さの位置に来るまで伸びている。
私は明確に驚愕し、〈ひも〉を意識することを隠せなくなった。
――なんなんだこれは。
私はしばらく頭を抱えていた。誰かに相談しようか、そう考えないでもなかったが、土台それが無理なことは自分が一番わかっている。仮に誰かに相談できたとしても、たかだか〈ひも〉が誰かの興味を誘えるとは思えなかった。そうなると例の疑問が再び頭をもたげる。
誰が、何故。
私の知らないうちに、工事か何かが行われたのだろうか。パソコンを起動し、過去数日の工事記録を会社のイントラネットから洗う。すぐさまそれらしい工事は無かったことが明らかになり、より困窮していく。
――引っ張ってみようか。
「紐」の本来の存在意義は、結ぶ、引っ張る。人間は本能的に、「紐」形状の物を引っ張りたくなるものだ。しかし同時に恐怖を感じる。この〈ひも〉が天井の奥で、何かに結びつき、私が〈ひも〉を引っ張ることで、その何かが崩れるイメージが湧き上がったからだ。分からないことは恐怖だ。引っ張るのは、できうる限り正体を探ってからでも遅くはない。
ふと、前任者のことが脳裏をかすめた。
「壁から泡が出る」と言い残した前任者。彼が言っていたことと、「天井からひもが垂れている」と言っている私の状況。私も気を違えたのだろうか。背筋を冷たいものが流れる。私は頭を振って、前任者がそもそも気を違えていたかもわからないと思い直した。顔も知らない前任者を思うことで、不思議と少しだけ闘志が湧いた。
会社にお荷物とされた人間は、一人無機質な部屋で悶えるのか。
私の名前を正確に言える人間は、この会社に誰もいないだろう。
世間的には近しい関係とされる同期入社の人たちにとってさえも、私は存在しないも同じだ。
ここで〈ひも〉にさえも負けてしまうのなら、私は……、私たちは……。
私はデスクからハサミを取り出し、正面から〈ひも〉と対峙した。見れば見るほど〈ひも〉である。変わらず目線の高さに、〈ひも〉の先端がある。
恐るおそる、私はハサミを〈ひも〉に近づけた。無意識にまぶたを強く閉じる。
ぢょきん。
ハサミらしい音が部屋に響いた。私はゆっくり目を開ける。
ハサミから下、〈ひも〉は無くなっていた。その代わり、足元には人差し指くらいの長さの〈ひも〉が所在なさげに佇んでいた。
「切れた」
私はそう口に出し、〈ひも〉を取り上げた。
触っても何ら情報を更新できないほどに、それは〈ひも〉だった。
私は〈ひも〉を切ってやった勢いで、赤外吸光分析機に向かった。赤外吸光分析機を起動する。赤外吸光分析機は、測定対象物に赤外光を照射し、その後の赤外光の挙動を解析することで対象物の成分をある程度特定することができる。
幾つかのモード選択画面、条件入力画面をこえ、私は〈ひも〉の分析評価を試みる。全反射測定モード。〈ひも〉を試験台にセット。ぶぅーんといううなりをあげて、評価が開始される。
1shot……
10shot……
30shot……
赤外光が繰り返し〈ひも〉に照射される。その度に、稜線のように描かれるグラフの線がシャープになっていく。測定終了。すぐさま得られた赤外吸収スペクトルをライブラリに参照する。存外すぐに、可能性の高い材料に行き着いた。
私はその場で結論を出すのをやめ、示唆走査熱量測定機を用いた分析評価に移行する。評価対象物がどれくらいの温度で融解もしくは固化するかを測定するのが示唆走査熱量測定機である。
〈ひも〉をつめ先ほどのサイズに切って、パンと呼ばれる試料台にセットした。諸条件をセット。いかなる材料であってもいいように、測定領域を大きめにしておく。パソコン上の測定開始ボタンをクリック。
1st run……
2nd run……
赤外吸光分析の時とは、別の稜線が姿を現わす。美しき融解曲線。そこから得られた〈ひも〉の融点情報と、先ほど可能性が高いとされた材料の融点とを照らしあわせる。定性から定量へ。
「間違いない……」
〈ひも〉の正体はポリアミドだった。通称、「ナイロン」。鋼鉄より強く、蜘蛛の糸より細い、という触れ込みで発明当初騒がれたナイロン。衣服の材料として世に広まり、最も身近な材料と呼べるようになったナイロン。蜘蛛の糸の細さと比較されたナイロンは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場するような不確かな存在ではない。ナイロンは溢れかえるほどの現実である。
完全に拍子抜けした私は、ハハ……と、あきれるように笑った。
「ナイロン……ナイロン……!」
滲み出るような笑いが止まらない。幽霊の正体見たり。分かることで恐怖が取り除かれる。これが科学の力である。未知を既知へ。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』もナイロン製だったら、あの亡者の二人ともが地獄から脱出できていたのかもしれない。ナイロンは素晴らしい。
まだまだ〈ひも〉に関する疑問は減らないが、私は一つ〈ひも〉の正体に近づき、強気になった。明日はもっと。そう誓って、私は汎用技術室を後にすることにした。
ドアを閉めようとして、天井からぶら下がる〈ひも〉を見た。
自分で引用した『蜘蛛の糸』が今一度想起される。地獄へ垂れる『蜘蛛の糸』。希望を餌に、より深い絶望をもたらす『蜘蛛の糸』。『蜘蛛の糸』と〈ひも〉。唐突に二つの存在を結びつけてしまい、私の高揚感は一気に消沈した。ここ最近のアイマー用触媒設計の仮説の構築と崩壊で、上がって下る感情には慣れているはずであるのに、その感情の起伏は抑制できるものではなかった。
アイマー用の触媒設計の難しさは異常である。
実はアイマーを合成するために必要な物はそれほど多くはない。四種類のアイマー前駆体と合成開始剤、合成の進行をコントロールする触媒、それに水と熱と窒素。四種類のアイマー前駆体はそれぞれに構造異性体を組成内で豊富に内包しており、その構造異性体ごとにまるで反応のしやすさが違う。反応しやすい構造のものほど、合成反応内での強き者であり、強き者が合成のプロセスを破壊してしまう。これがアイマー合成の難度を著しく上昇させている原因である。
アイマーの合成を人間社会で喩えるならば、さまざまな民族を集めた人口百人ほどの村で、健全で安定したコミュニティを形成させるようなものである。集められた多様な民族が、四種類のアイマー前駆体の異様な構造のばらつきをイメージするのに至適である。
そして合成開始剤を投下する行為は、村の活性化を目的として、この村に有限の資金を投下することである。投下してすぐに多様な民族の間で争いごとが起きるだろう。
これを律するのが触媒、この村においては行政の様なものと喩えられる。アイマーに適した触媒がないというのは、役所も、警察機構も、――そもそも法律すらもない状態ということである。そのような環境で、人種、言語、歴史、政治思想、宗教思想――何一つ相容れない村人たちが、単一の自治を成し、人口を維持できるのか。
――できるわけがない。人類の歴史を振り返れば簡単な自明の理である。
触媒の設計を繰り返すなかで、私は仮想の村を何度も廃村にし、そのたびに落胆してきた。
私は今するべきではなかった回想だったと反省し、深くため息をつきながら汎用技術室のドアをぱたんと完全に閉じた。
次の日、私は汎用技術室の真ん中で呆然としていた。
「なぜ……」
自然と口をついて出る言葉。
〈ひも〉はまたも長くなっていた。それも尋常ではないレベルで。
ゆうに〈ひも〉は床に到着し、怠惰をむさぼる蛇のように、ぐるぐると堆積していた。もはやどれだけ伸びたかを知る必要がないほどに、長い。
漂う理解不能な敗北の空気。
――天井の奥に多量にあった〈ひも〉が少しずつこの部屋に降りてきているのか。
――昨日、分析評価のために触ったのがよくなかったのか。
どれだけ思考を重ねても答えが出そうにない。そうすると、昨日の選択肢の存在感が再び増す。
――引っ張るか。
この部屋で可能な八方手は尽くしたのだ。言い訳のようにつぶやく。異様さを増しつつある〈ひも〉。私は一刻も早くその闖入者と決着をつけたかった。
昨日分析評価で使用した〈ひも〉のあまりを、光学顕微鏡で拡大観察した。ロープの目、いや〈ひも〉の目がスケールアップされて表示される。右上から左下に規則的に流れ続ける〈ひも〉の目。インターネットの情報によると、「三打ち」と呼ばれる製法。同じくインターネットの情報から、太さ三ミリメートル、ナイロン製、三打ちの〈ひも〉の耐荷重は、成人男性の体重を容易に支えうるということが確認された。
これなら思いきり引っ張っても〈ひも〉が突然破断するということもないだろう。
私は〈ひも〉に向かい合った。
長く伸びた〈ひも〉を右手と左手それぞれで握った。手のひらに、じわりと汗がにじむ。一思いに行こう、私はそう思った。
両腕に勢いをつけて、私は〈ひも〉を引っ張った。その瞬間、
ヒュルヒュルヒュルッ!
という音ともに、天井の穴から〈ひも〉が飛び出した。私は、予想に反した〈ひも〉の排出に反応することができず、尻もちをついた。鈍痛がじわじわと上半身に登ってくる。〈ひも〉を見上げながら、脳内のどこかに押し込めたはずの記憶が蘇る。
私も少しは私に希望を持っていたころの記憶――。
汎用技術室所属となる前、私は三十人体制ほどの部署にいた。部署の大きさを推し量るバロメータは、単純にいって組織が擁する人数である。一つの組織として、三十人の人数を擁するのは比較的大きな部署であると言えた。私がその部署に所属していたのは、決して期待されてのことではない。様々な部署でお荷物とされ、転々とするうちにその部署に行き着いただけのことだった。大きな部署では、一人や二人お荷物がいたとしても大勢に影響はない。
そこで、私なりに組織の歯車の一つになろうと努力した。はたからは見るには、誰もそう捉えられなかったと考えられるが。
私の視点からは、人は人として映らない。「人たち」という巨大な生き物として映る。「人たち」という巨大生物は、常にその表情や形態を変える実態のないまぼろし。「人たち」は、もちろん人で構成されているのに、私は愚かにも「人たち」と捉えた。
ある日私は、隣の席の「人たち」の一人が、頭を抱えていることに気がついた。しばらく、その一人を意識していた。その一人がため息をつきながら離席したので、その理由を明らかにしたかった私は、その一人の机を覗き見た。その一人の実験ノートには、目的の物質がうまく合成できていないことが書き記されていた。それに対する解決法を技術論文から知り得ていた私は、その一人の実験ノートにそれを付記した。私は会社の役に立つことが、組織の歯車をなす方法だと考えていた。だからその一人の技術課題を取り除いたことで、間接的な会社への貢献――組織の歯車になる――を果たした気でいた。私の中で「その一人」は、「彼」という呼称となった。初めて抱く他者への近親感が、「その一人」を「彼」へ昇華させた。彼は解決法の付記された実験ノートを見て、不思議そうに辺りを見まわしたあと、ただ目を丸くして立ちすくんでいた。彼は周囲に誰がそこに解決法を書き記したのか訊いてまわっていたが、当然誰も名乗りあげることはなかった。
ほどなくして彼はその解決法を実践し、目的物質の合成に成功した……ということを、回覧の報告書から知った。これで私はますます増長した。彼の実験ノートに、それからも私の知り得ている問題の解決法やアドバイスを記し続けた。そして、私は唐突にそれが間違った行動であったことを知った。私が彼の実験ノートにとある解決法を書いているところを、ついに彼が目撃したためだ。
「てめぇ、どういうつもりだ」
私を突き倒し、彼はそう言った。歯車の一つになれたと信じていた愚かな私は、彼の突然の怒りの発露にただ驚くことしかできなかった。誰からも認識されない代わりに、他者の怒気とは無縁だった私。彼がプライドを刺激された痛みのかわりに、肉体的な鈍痛がじわじわと私の上半身に登ってくる。
仮に何かの組織の中で、他者への明確な殺意を露わす者がいたとする。その者は「邪悪」と呼んでいいだろう。実際にその殺意を実らせなくても、その者は組織からも社会からも必然的に弾かれることになる。では、「殺意」でなく「好意」だったらどうか。ある者が、組織への「好意」を現す。しかしその「好意」が一般的に受け入れがたい思考プロセスを経て発現したのなら。
私にとって恐ろしいのはそのどちらの場合でも「弾きだされる」という結果が同じことである。
行為の源泉の質は問題ではない。問題となるのは、行為のベクトルが「同じ方向」を向いているのか否か。彼の誇りと熱意が形となる実験ノートに、私は土足で踏み込んだ。彼は施されるように与えられて得た結果を、単なる幸運と捉えるような人間ではなかった。客観的に組織の、他者の行為のベクトルを判別できなかった私が汎用技術室にいるのは必然である。ここに来てから、私はそれまでの記憶を極力思い出さぬように努めた。孤独でいられるここで、これ以上心の血を流す必要はない。
私は〈ひも〉を前にして尻もちをついたままの態勢でいた。心と記憶と肉体の強固な連結は意思でどうにかできるものではなかった。記憶を意図的にに封印などできぬことを知り、その日はそれ以上〈ひも〉を解明しようとすることはできなかった。飛び出た〈ひも〉は沈黙のまま積み重なり、複雑に絡みあっているように見えた。
次の日、〈ひも〉はいよいよ明確な狂気を発露した。
〈ひも〉の長さは、再び頭の位置まで短くなっていたが、その先端の形状が異質であった。ちょうど頭部がすっぽり収まるサイズで描かれた円。〈ひも〉から初めて明確なメッセージが放たれる。
「首を吊って、死ね」
不思議と驚くことはなく、むしろようやくか、という気になった。初めからそういうことであったのだろう。〈ひも〉は地獄へ垂らされる蜘蛛の糸で、深い絶望をもたらすもの。本当に蜘蛛の糸の強度ならば、私の体重には耐えられない。しかし〈ひも〉は《ナイロン製》、《太さ三ミリメートル》、《三打ち製》であるので、その点の問題はない。
もはや誰からのメッセージであるかはもうどうでもよかった。案外、それは〈ひも〉自体からのメッセージで、誰かの意思が介在しているというわけでもないのかもしれない。きっとそうだ。その方が納得できる。
先端に輪を形成した〈ひも〉。今回は躊躇いもせずに、輪を掴んで引っ張る。ピンという張り具合を確認できた。昨日のようにヒュルヒュルと飛び出してくるわけではない。私の体重を支えるにあたり、こうでなくては困る。
椅子を踏み台にして、私は〈ひも〉が形成した輪の前に首を差し出してみた。なるほど死ぬにはちょうどよい長さだ。そう……ちょうどよい……。私のような不要な存在には……認識すらもされない存在には……まるでプランクトンのような存在には……いやプランクトンなら何がしかの栄養になる……私は栄養にすらならない……彼の感情も理解せず自分を押し付けた……私のような害悪は何故生まれ……何故私はエンジニアなどやっているのだ……生きる意味は……だから……〈ひも〉は……現れた。
地獄へ垂らされる〈ひも〉は絶望をもたらすのではなく……「死」という本当の救済をもたらしてくれる……。……地獄の底へ落ちていく思考を止めることが……できない……。救われるのかもしれない……。
……。
…………。
…………待て。
……一種の酩酊状態だった私を現実に繋ぎとめるものがあった。論理的に物事を考えるエンジニアの遺伝子が、非論理的な結論を許さなかった。
〈ひも〉が私に死の望むのはなぜなのだろうか。彼に、組織に、社会に、人類に無用な存在だから……などというのは根拠に乏しい。何故私は〈ひも〉の提案を抵抗なく受け入れようとするのだろう。
私の死が〈ひも〉の意思ならば、〈ひも〉に私の死によるメリットがなければならない。汎用技術室の住人がいなくなり、〈ひも〉が汎用技術室を支配できるからか。しかし前任者は「壁から泡が出る」と言った。〈ひも〉のことには触れていない。〈ひも〉が旧来の汎用技術室の住人であったとは考えにくい。ならばやはり〈ひも〉はこの会社の「人たち」の意思により、ここに設置されたのか。しかし結果に死を求めるのであればそれも考えにくい。いかに私が爪はじきものだったとしても、会社の中で人が死ねば問題となるであろう。私が精神的にも物理的にも邪魔なのであれば、飼い殺しになどせず、クビにすれば済む話だ。
やはりいずれのケースでも〈ひも〉による私の死では誰も得をしないと考えられる。いや、もう一つのケースを考えておかねばならない。私自身が死を望んでいる場合だ。
私の潜在的な望みが、〈ひも〉の形で質量を伴ったとしたら。これが病んだ精神の見せる幻だったとしたら。これであれば、需要と供給が確かに繋がる。ならば私は死にたいのか。私はアイマーを見捨てて死にたかったのか。それはない。私が死ねばもう誰もアイマーを気にかける者はいなくなるのだから。
私を現実に繋ぎとめるきっかけが論理的思考の遺伝子だったとしたら、私を完全に現実へ引き戻したのは、意外にも親心であった。私が死んで困る「人たち」はいなくとも、私と共に消えていく物はあるのだ。本当は消えるべくして生まれた存在なのかもしれず、アイマーにとってははた迷惑な親心なのかもしれない。しかし私はアイマーにしか存在意義を見出せないのだ。私の我儘を許して欲しい。
私は〈ひも〉が形成している輪から首を外し、踏み台としていた椅子からゆっくりと降りた。
そうして踏みとどまったものの、なぜだかここまで考えてきた前提――〈ひも〉は何かを伝えようとしている――が間違いだとは思えなかった。〈ひも〉を擬人化して捉えること自体、論理的思考とは相反している。自己矛盾にはとうに気づいていても、〈ひも〉には〈ひも〉自身の意思があると思えてならなかった。それを紐解くために、これまでの〈ひも〉の動きの整理を試みる。
〈ひも〉は突然現れ、天井からぶら下がった。
次の日、〈ひも〉は長くなった……いや、伸びた。そして〈ひも〉は私に切られ、〈ひも〉の材質はナイロンだと同定された。
さらに次の日、〈ひも〉は一気に伸びて、〈ひも〉は私に引っ張られることになった。引っ張られた〈ひも〉は絡まったように見えた。
そして〈ひも〉は輪の形で結ばれた。
伸び、切られ、引かれ、絡まり、結ばれた。およそ〈ひも〉が体現できる動詞は出尽くしたかのようだった。私が接触しなければ、〈ひも〉から直接的に何かを私に働きかけることはこれまではなく、見かけ上の干渉のない〈ひも〉。しかし私は〈ひも〉の刺激を無視できずに、〈ひも〉は私の思考を縛りつけた。
そうだ、〈ひも〉には「縛る」という動詞もある。
そのとき、私の脳内に一つの絵が唐突に現れた。
アイマー前駆体が無限の〈ひも〉で縛られた姿。
伸び……切られ……引かれ……絡まり……結ばれ……そして縛る。触媒は「他の物質への見掛け上の干渉が無い」が、「他の物質への刺激とならなければならない」。〈ひも〉とはまさにそういう存在ではなかったか? 〈ひも〉の性質を有した触媒ならば、アイマーを安定的に生産できるのではないか?
再び、アイマーの合成を喩えた多様な民族の村へ回帰する。
多様な民族に言語を超えたシンプルなルールとして〈ひも〉を用いる仮説を立てる。
多様な村人たち――アイマー前駆体――を〈ひも〉で〝縛る〟。いかに多様な民族であろうとも〝縛る〟ことで彼らの動きを制圧できる。しかし、〈ひも〉が支配因子となっては元も子もない。村人たちを〈ひも〉で縛って管理するのでは、単なるファシズムである。村に必要な自治とはそういうことではない。〈ひも〉はあくまで「ルール」であり、恐怖政治のモニュメントとなってはならない。ならば〝縛る〟ものを土地とするのはどうか。離散しやすい村人たちに、村と村ではない場所に境界を敷くために〈ひも〉を用いる。これでルールのなかった世界にはじめて、「境界」というルールが生まれる。
それでもまだ村には問題が山積みである。そもそも彼らは言語を介したコミュニケーションができないのだ。アイマーと私はその点だけが似ている。世界のコミュニケーションツールがモールス信号のように単純なインプットとアウトプットで構成されていたら……私にだって他者との交信ができたかもしれない。私は他者とのコミュケーションが失敗するたび、そのような想像をしていた。〈ひも〉をつかって彼らがモールス信号レベルの交信ができるようにしてあげられるのではないか。
一人の村人と、もう一人の村人の間に〈ひも〉をはしわたし、両者の腕に〈ひも〉の両端を〝結ぶ〟。
YESなら〈ひも〉を一度だけ〝引いて〟。
NOなら〈ひも〉を二度〝引いて〟。
そのような本当にシンプルなコミュニケーションツールでいい。
それだけで彼らは、肌の色も目の色も思想も言語も違うために「何か」だったもう一人を、確かに意思を持った「人」であると認識できるようになる。いずれツールは発展し、新たな共通言語を生むだろう。
それでも有限な資金――合成開始剤――が与えられた時に、村人たちは容易に混乱し始めるだろう。奪い奪われ、強き者はより強くなり、弱き者はただ淘汰されていく弱肉強食の、一見安定なようでその実バランスを大きく崩した世界に堕ちる。真の平衡には、やはり小さくとも「罰」が必要である。そしてこれも〈ひも〉で解決できると私は考えた。
強き者が勢力を広げるのと共に、〈ひも〉が追跡を始める。強き者が「境界」の中でいかに逃げようとも〈ひも〉はどこまでも〝伸びて〟追跡する。やがて強き者を捕えたら、〈ひも〉は伸びた〈ひも〉同士で一気に〝絡まり〟強き者を拘束する。これで強き者はそれ以上の成長を止めることになる。〈ひも〉は「法」を体現する存在へ。
有限な資金は村人たちを隅々まで潤していく。
〈ひも〉によって「境界」と「交信」と「法律」が生まれる。
言葉にしてようやく、それらは「紐」という道具の発明により人類が受けた恩恵そのものであることに気がついた。
最後に「他の物質への見掛け上の干渉が無い」という課題を解決する。この「他の物質への見掛け上の干渉が無い」というのは、合成物の最終組成内に触媒成分が存在しないか、もしくは触媒成分が全く無干渉な成分に変化していることをいう。
だから合成の最後に、役目を終えた〈ひも〉はちりぢりに〝切れて〟細分化する。
村人たちは〈ひも〉が消えたことに、すぐには気づかないだろう。
それでも〈ひも〉は確かに存在した。
村がそこに今もあるのだから。
仮説をより詳細な化学に落とし込んでいく作業にシフトして、〈ひも〉に分子式を与えていく。形容されていた〈ひも〉に現実的な体が生まれていく。私のノートに、Cと、Nと、Oのメイン骨格に、その他のエッセンス的な分子をを有した〈ひも〉形状触媒が生まれた。
〈ひも〉形状触媒の設計を開始してからその段階に行き着くまでに、どれだけ時間が経ったか自分では分からなかった。もしかしたらいく日も経過していたかもしれなかった。
私は汎用技術室の中のある変化に気がついた。
「ひもはどこへ……?」
あれだけ私を苦しめた〈ひも〉は忽然と姿を消していた。
――半年後。私は社長賞を受賞した。
アイマーが〈ひも〉形状触媒の助力を受け、ついに商業ベースに乗ったのだ。
〈ひも〉形状触媒がアイマーに与えた収率、98%。
アイマーがついに世界を変える。
社長賞とはいうものの、私がやったことは理論構築とそれを技術報告書にまとめあげたことだけだ。私の構築した〈ひも〉形状触媒を具体的に工業化したのは、前部署の「人たち」である。
それでも会社にもたらした利益は大きく、私も望外に功績を認められた。そうして一応の社会的成功を収めた私は、同期入社の「人たち」から、元の職場の「人たち」、その他大勢の「人たち」に祝福された。正直に言って、それらの言語的な祝福はそれほど嬉しくはなかった。それよりも嬉しかったのは、私の出した技術報告書の「回覧済み」の部分に、私が傷つけてしまった「彼」の押印があったことだった。私は結局その後も「彼」と言葉を交わすということはできていないが、心の中に彼の「認め印」があって、静かに私を認めてくれている気がした。
〈ひも〉はいったい何だったのだろう。〈ひも〉の正体を突き止めるべく、測定した赤外吸光分析の測定結果も、示唆走査熱量測定の測定結果も消えていた。あれらは幻だったのだろうか。
「天才の一瞬の閃きは、凡人の一生に勝る」
ヒトラーの言葉。私が実は「天才」で、〈ひも〉は「閃き」を具現化したものだった……いや、私は天才ではない。ただ、アイディア力がコミュケーション能力の傘下にあるという認識が間違いだっただけなのだろう。
孤独な存在でもアイディアの種は平等に存在しているのかもしれない。
前任者は「壁から泡が出る」といい残した。もしかしたらそれは何かの閃きの前触れだったのかもしれない。
私は今よりずっと大きな役職につくことを上に言われたが、断った。私は一応の功績を残しはした。しかし、私のコミュニケーション能力のなさは、サラリーマンエンジニアにとって致命的な欠陥であり、それが改善されたわけではないのだ。
アイマーの工業化よりも難度の高い仕事だけはもらうことにした。自分勝手ではあるものの、それが私の存在意義だと信じている。
その仕事は生産不良だらけの、「リレン」と呼ばれる物質の生産安定化。私の経験した仕事の中で最も難度が高いと想像している。今度は村どころではなく、宇宙レベルの生命体群と向き合う必要がある。
私は変わらずに汎用技術室に向かう。
汎用技術室のドアを開く。
〈あな〉だらけになった壁が私を出迎えた。