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生立〜運命のバンドとの出会い

ヴィジュアル系から転身して経営者になった僕が、音楽業界に関わる理由

1979年8月4日大阪府吹田市の済生会病院で誕生した。

吹田市て言えば、万博で脚光を浴び、太陽の塔を含めた万博公園が存在しており、若人の大半はエキスポランド(閉園)が初デート場所として重宝されていた。


父親は鹿児島県出身。母親は佐賀県出身。

父は、祖母方家系が営んでいた事業に就くのを拒む為、中学卒業後に大阪へ。

その後、国内最大手の製パン会社に勤める。

母親は、幼少の頃に父親を亡くし、母親と長男が生計を立て、家族7人を養った。

その後、母親も大阪に出て製パン会社に就職。

そこで両親は出会い、僕が生まれた。


3人兄弟の次男である僕。幼少期は好奇心旺盛で、両親にも迷惑をかけた。

そんな僕が「音楽」に触れるきっかけになったのは小学1年生の夏。


父親が務める会社の夏祭り。会社の同僚らで結成されたと思われるバンドを観た。

はっきりと覚えていないが、母親に「ドラムをやりたい」と話し、習い事の一つとして始めたドラム。

そこからピュアな気持ちで始めたドラム。

そして、取りつかれたように様々な音楽を聴いたり、LIVEにも足を運んだ。

一番興味を魅かれた「ハードロック」、その後「ヴィジュアル系」という言葉もできているが、激しいリズムと、奇抜なメイク。見よう見まねで、コピーした。


初めて組んだバンド。中学生だった。他のメンバーは年上。

自分を満足させる為に、ステージにも立った。初めてのステージは、「難波ROCKETS」。

今も変わらなく存在している。身内だけが集まったLIVE。今思えば発表会のようなもの。

ただ、練習スタジオを飛び出し、LIVE HOUSEで演奏する楽しみを覚えた。


高校に進学。同級生とバンドを組んだ。

何か物足りない。今から楽器始めます!のスタンスとオリジナル楽曲をやっていた僕の気持ちに歪みが出始めた。

今思えば、大した演奏技術も無かったし、学生時代を楽しめばなぁと後悔している。


そんな中、5歳歳上のバンドから誘いが来た。

メロディー重視のロックバンド。

尼崎ライブスクエアを拠点として活動していた。

そこに加入し、ライブハウスの店長指導の元で、活動を活発化させて行く。

そして、17歳の時、店長が同じ系列のライブハウスに転勤になると言う事で、本拠地を枚方ブロウダウンに移した。 ブロウダウンには、Motionと言う謎の事務所風レーベルが存在していた。

そこには、JDAやDLだけでは無く、10個位のバンドが所属していた。


1番仲悪かったのは、今も続いているDLでした。

確かに、動員もあったが態度がトゲトゲしいイメージしか印象に残っていない。


そんなDLのプロデュースを担うとは予測せずに、バンド人生後半に突入する。


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