眠る彼、見つめる彼女
某高校四階の、一番奥――よもや誰も気に留めないのではないかと思うほどひっそりとした場所に、その部屋はあった。知らない者が行こうと試みれば、確実に一度は迷うような位置だ。
シンとした空気に包まれながら歩いていき、いつもの通り迷うことなくその部屋へとたどり着いた私は、ガラガラという無遠慮な音を立てて目の前のドアを開いた。
普通の教室の半分ほどのサイズしかない狭い室内には、さまざまなものが無造作に置かれており、いっそカラフルと言ってもいいほどごちゃごちゃとしている。初めて来たときはあまりの散らかりっぷりに目の前がちかちかして倒れてしまいそうになったくらいだが、今となってはこの空間こそが日常だ。むしろ片付いている方がおかしいくらい。
足の踏み場をどうにか探しながら、その辺に積んである本やら何かの書類やらをかき分けて進んでいけば、最奥にほんの少しだけすっきりと片付いたスペースがあった。
わずかな空間の中に、生徒用の椅子が五つばかり、整然と――というよりはほとんど隙間なく、と言った方が正しいかもしれない――並んでいる。その上を陣取るように、一人の男子生徒が横たわっていた。
律儀に靴を脱いでいるらしく、片膝を立てて寝転がっている。ほっそりとした、それでいて私のより大きくてしっかりしている両手は、お腹の辺りで組まれていた。
何かが聞こえる気がして密かに耳を澄ましてみると、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。それを聞いて、私は小さな溜息を吐いた。
――また寝ているのか、この人は。
呆れてものも言えないとはこのことか、と内心毒づいてはみたけれど、いつもと何ら変わらないこの状況に心のどこかで安堵している自分がいた。
足音を立てないように、そっと傍に近づく。覗きこんでみれば、目を閉じたその人の顔がドアップで私の目に飛び込んできた。
ほぼ毎日見ているもののはずなのに、やっぱり何度見ても慣れない。無意識のうちに、息を呑んでしまう。
全体的に線が細くて、どちらかというと女顔。だけどよく見ると一つ一つの顔のパーツがはっきりと浮き上がっていて、彫が深い顔つきをしていることがわかる。繊細な刀で隅々まで丁寧に彫られた、美しい彫刻のようだ。
いつも悪戯な輝きに満ちている黒い瞳が、今は白く柔らかな瞼に包まれ閉じられている。薄い唇――ひとたび開けば、日本語なのかどうかすら怪しい次元の言語が飛び出してくる――は少しだけ開いていて、そこから僅かに息が漏れていた。
「……ふふっ」
その唇が、不意に緩やかな弧を描いた。彼のことだから、夢の中でも何か愉快なことに巻き込まれて……いや、自ら首を突っ込んでいるのかもしれない。いずれにせよ、心の底から楽しそうな表情に、それを見ていた私の頬も自然と緩んでいた。
「先輩……」
口をついて出たのは、ほぼ吐息で構成された呼び名。それも、きっとひどく甘ったるい類のもの。
彼は反応するように一瞬ピクリ、と弓なりの眉を動かしただけで、目を覚ますことはなかった。良かったような、悪かったような。私に気付いてほしかったような、気付かないままでいてほしかったような。
横たわる彼――先輩の顔の前にしゃがみ込み、その頬に触れる。どうか起きませんように、なんて心の中だけで祈りながら。
触れた箇所から、じんわりとほのかな温もりが広がり、私の指に伝わってくる。先輩の、体温。
いったん意識してしまうと、胸の鼓動がどんどん早まっていく。あぁ、私は今……この狭い空間の中で、先輩と、二人きりなんだ。
先輩を、独占しているんだ。
――この片思いが、報われるものでないことくらいわかっている。何故なら先輩は、私を女として見ていないから。
いつだって顔を合わせればからかわれて、いいように遊ばれて。子供にするみたいな頭の撫で方をされて。
『ホント君って、見てて飽きないよなぁ』
そんな風に言われるのは、もはや日常茶飯事。そのたびにドキドキしてしまう私は、多分とっくの昔に重症患者なんだと思う。
恋の、病の。
楽しそうな笑顔を見られるのは嬉しいけれど、そういう態度にほんの少しだけ胸がちくりとしてしまうのは事実。
彼にとって私は、弄り甲斐のある後輩。
ただ、それだけ。
彼の視界に少しでも入れるのなら、彼に存在を認めてもらえるなら、それでもいいって。そう、思っていたはずなのに……。
「人間って、欲深いですね。先輩」
あなたがモテることくらい、知ってる。いくら口を開けばおかしなことしか言わなかったとしても、ひとたび野放しにすればどんどん変な方向に行ってしまうような人だったとしても。
あなたは、黙っていればひどく美しい、気高い花だから。
もちろん私は、その綺麗な見た目だけを好きになったわけじゃないけれど……。
頬に触れた手はそのままに、先ほどより距離を詰める。互いの吐息が、顔にかかりそうなくらい近くに寄ってみたけれど、相変わらず彼は気持ちよさそうに眠っているだけ。
それを憎らしいとも思うけど、気付かないで、とも思う。
そのまま私は、どんどん顔を近づけて――……その唇に、私自身のそれを軽く触れ合わせた。
数秒ほどで離したけれど、心臓が先ほどと比べ物にならないくらいばくばくと音を立てて、一向に落ち着かない。ぶわっと身体中の温度が上がって、全身に汗をかいたみたいな気分になった。
彼はやっぱり、素知らぬ顔で眠っている。
目の前のあまりに平和的な顔を不意に歪ませてやりたい衝動に駆られ、私はその白い頬をつねろうと手を伸ばした。
――パシリッ。
「っ!?」
突然の音と衝撃に、びくりと身体が強張る。恐る恐る見てみると、お腹の辺りで組まれていたはずの大きな手が、私の手首を包んでいた。視線を滑らせれば、ニヤリと意地の悪い笑みを湛えた彼のキラキラした瞳にぶつかる。
ふふ、と愉快そうな笑みを零した彼は、まるで寝起きを装っているみたいにとろんと目を細め、微笑んだ。
「おはよう」
「せん、ぱい」
平静を装おうと呼んだ声は掠れ、目指していた冷静さの欠片もない。
「ホント君って、飽きないね。……欲しいよ」
私の態度がよほどお気に召したのか、彼は可笑しそうにククッ、と喉奥で笑った。最後にポツリと付け加えられた言葉に、毬みたいに心臓がぽぅん、と跳ねあがる。
「いやぁ……驚いたね」
寝起きとは思えないほど明瞭な声で、彼は茶化すように言った。
「まさか、君に寝込みを襲われることになろうとは」
「襲っ……」
その言葉で瞬時に全てを理解し、カァッ、と顔が熱くなる。
つまり彼は、さっきの口づけの時点でもう既に起きていたということだ――!
羞恥に耐え兼ね口を開閉させる私を見ながら、彼は笑みを深めた。私の腕を掴んでいない、もう片方の手をおもむろに伸ばしたかと思うと、自らの顔のところまで移動させる。
長い指が、艶めいた唇をつぅ、となぞった。その仕草と浮かべた表情があまりになまめかしくて、物欲しげにごくり、と唾を飲む。ずっと見ていたらおかしくなってしまいそうで、思わず目を逸らした。
「……ねぇ」
聞こえてきた低い声に、おずおずと逸らしていた視線を戻す。クスリ、と笑みを零した彼は、起き上がることをしないまま、つんつん、と自らの唇を人差し指で幾度か指し示した。
そのジェスチャーが示す意味を測りかねていると、その指が私の唇に触れられる。まるで私が先輩の人差し指にキスしているみたいな、この状況にまたドキドキした。
そっと指を離されたかと思うと、色気を含んだ低い声が吐息交じりに、今度は明確な言葉で問うてきた。
「もう一回、してくれないの? キス」
それとも、起きているときは無効だったりする?
答えかねた私の口は、「あの」とか「その」とかよく分からないことばかりを紡ぐ。頭が混乱して、うまく言葉を繋ぐことができない。
やがて、じれったいとでも言うように、掴まれていた腕がいささか乱暴に引かれた。互いの顔同士がぐっと近づいて、危うく心臓が爆発してしまいそうになる。
「好きなんでしょ? 俺のこと」
わざわざ毎日こんなわかりにくい場所まで来ては、寝てる俺を飽きもせずに見つめてさぁ……明らか、俺目的でここに来てるでしょ?
図星を突かれ、ぐっと押し黙ってしまう。もともと、言い訳のための言葉なんて用意できていなかったけれど。
「答えてよ」
「言ったら、先輩は答えてくれるんですか」
声を振り絞ってようやく出たのは、精一杯の強気な言葉。どくどくと鳴り響く心臓の音に邪魔されて、それはずいぶんと震えていた。
いつもの悪戯っぽいものとは違う、妖艶な光を湛えた黒い瞳が、スッと細められる。
「君次第、だね」
「そうですか。……じゃあ」
明確な答えを与える代わりに、愉快そうに歪んだ皮肉気なその唇を塞いでやった。柔らかく温かな感触を覚えるがままに閉じていた瞼を上げ、至近距離で視線を絡めれば、彼は瞳だけで満足げに微笑む。
後頭部に手を添えられたかと思うと、まるでこの行為自体が答えだとでも言うように、彼は口づけを深めた。




