【エッセイ】夏目瀬石の「冷やし中華はじめました」♯4 初出勤
苦戦していた職探しの日々にようやくピリオドを打ち、その日久しぶりに通勤列車にゆられておりました。
私はいつも電車の中では本を読むことにしています。ぼーっとしているのは時間がもったいないですし、携帯電話でのネットサーフィンは、気が付いたら「情報の海」に溺れて、無駄な時間を過ごしていることが多いからです。
そこで気軽に小説などを読んだりするのですが、まったくの静寂よりもある程度の喧騒の方が落ち着くからでしょうか、電車での読書が意外と集中できるのです。
その日もつり革につかまりながら、ミステリー小説を読んでおりました。その本は私の大好きな本のひとつで、もう三、四回は読んでいると思います。ところが、いつもならそのストーリー展開に引き込まれ、どっぷりと小説世界に浸るんですが、その日はなぜか小説に集中できないのです。
気が付くと、どこからかコツコツコツという乾いた音が聞こえてきます。そこにいくぶん湿り気を帯びた音がやけに耳を引っかいてくるのです。コツコツコツコツ。なんの音だろう?
辺りを見渡すと、分かりました。少し間をおいた右隣に若い女性が立っていたのですが、そこからその乾いた音が響いていたのです。その女性は付け爪➖ネイルチップというんだそうです➖をしており、それが携帯電話の画面を打つたびに、音が弾いてきたのです。
女性は高級そうなブランド物のバッグを左腕に下げ、隣りでその様子を盗み見ているおじさんの存在に気に掛けることもなく、ひたすら携帯の画面を打っています。
私は周りを見ました。その音に気になっている人はいないようでした。女性の目の前に座っている年配のお爺さんも特に気にする様子もなく新聞を読んでおります。
今日は新しい職場でのはじめての勤務なのでナーバスになっているのかな、私はそんなことを思いながら小説を諦めかけたとき、急に列車にブレーキがかかり、列車がストップしました(後から分かったことですが、線路内の無理な横断があったようです)。
私はつり革につかまっていたので、少しバランスを失う程度ですんだのですが、その刹那、地を踏む大げさとも思える音が聞こえました。一瞬、それは「吉本新喜劇」でギャグが放たれたあとの周りの大げさなリアクションを想起させたのですが、完全にバランスを失した右隣りの女性が足裏で地を踏ん張ったときの音だったようです。
すると次の瞬間、勢いあまったその女性は私たちの間にあったシルバーの手すり(握り棒)を両手で掴み、ポールダンサーのような軽い身のこなしでクルリと半回転すると、ちょこんと目の前のお爺さんのひざの上に腰を下ろしたのでした。その一連の動きはまるでスローモーションのように穏やかで優美でした。
お爺さんの膝上に若い女性・・・。その取り合わせの妙に、私は思わずにっこりしてしまいました。
それから女性はゆっくりと立ち上がると、一瞬はにかんだ笑顔を見せてから、お爺さんに会釈しました。そしてふたたび何事もなかったかのように携帯電話へと戻っていったのでした。
列車が次の駅に到着すると、私は本をカバンにしまい、下車しました。目の奥では先ほどの残像がまだ焼きついております。
そして私はプラットホームを歩きながら思ったのでした。今日から新しい職場でがんばれそうだな。




