豚の記憶
男の呼吸が激しくなり、顔が青ざめ始める。
「おい、あんた、大丈夫か?」
豚が心配そうに声をかけるが、男に声は聞こえていないようだ。
「なぁ、あんた、おいって!」
豚が男の肩に手をかけようとした瞬間、男は手を振り払い、ソファから立ち上がる。
「お前が!お前が……」
「なんだよ、急に?」
豚は困惑のまなざしで男を見る。
「落ち着けよ、なぁ、あんた、一体どうしちまったんだ?」
「あぁ、あぁクッソ、ふざけるなよ、じゃぁこれはなんなんだよ!俺もお前も死んだはずだろ、ここはなんなんだよ……」
「あぁ、クソッ、クソッ……」
男はぶつぶつと呟きながら、ソファから離れる。
男は入ってきた、扉から館の外へ出て行ってしまった。
豚は男が出ていった後もしばらく扉の方を眺めていたが、男が帰ってくる様子もないため、狐の方に向きなおした。
狐は少しも、男が取り乱したことに興味を示す様子もなく、ただ、じっとどこかを眺めている、どこを見ているのか、あるいはどこも見ていないのか、それは狐にしかわからない。
「なぁ、あんた、どうするよ、俺たちも外に出てみるか?」
「そうしたいなら好きにすれば?私はまだここにいるつもりだから」
「あぁ、そうだな、そうさせてもらう」
豚は扉の方へ行きドアノブに手をかける。
だが、開こうとはしなかった。男はかなり取り乱していたし語調からも、自分に対して、かなりの嫌悪感を抱いている様子だったし、もしかしたら、扉の外であいつが待ち構えていて、襲い掛かって来るかもしれないと、考えたからだ。
過去にもこんなことがあった。
過去?俺は今過去にもこんなことがあったと思ったか?
そうだ、俺は過去にもこんなことがあった。
何故だ、何故俺は過去に誰かに襲い掛かかられたんだ?
違う、襲い掛かかられたんじゃない、俺が誰かに襲い掛かったんだ。
そうだ、そうだ、段々と思い出してきた、俺は誰かに襲い掛かったんだ。
じゃぁ、誰を、わからない、いや、わからないんだ、俺は最後まであいつが誰かわからなかったんだ。
何故、俺は知らない人間に襲い掛かったんだ?
そうだ、警察かと思ったんだ。
ますます疑問が増えた。
何故俺は警察に襲い掛かかったんだ?
そうだ、そうだ、思い出した……。
俺は……。
「私たち、気が合いそうですね!来週が今から楽しみです!」
送られてきたメッセージに思わず、小躍りしそうになった。
二日前に何となしに登録してみた出会い系アプリ、まさかここまでうまくいくとは思っていなかった。
登録して十二時間もかからず、マッチした相手とトントン拍子に話が進み、出会い系アプリのDMから、相手の連絡先を手に入れるまで、一時間かからず、そしてそこから約一日でデートの約束を取り付けることができた。
今まで一切女性と縁がなかった俺は何だったのだろうか、そんな過去を懐かしむような、感情が胸の底から湧いてきた。
とにかくだ、来週、来週に彼女と会うのだ、来週だと、俺は彼女と会えない無味無臭な一週間を過ごさなければならないのか?何と嘆かわしい、いや、だが、来週彼女と会えるのだ、それに待ち焦がれながら過ごす一週間は決して無味無臭などではないだろう。俺の心はそんな想いに満たされていた。
あぁ、そうだ、当日はどんな服を着ていこうか、バイト先と家を往復するだけの俺の生活の中ではデートに着ていけるような服を着るタイミングなんて一切なかった。
服だ、服を買いに行かなければ、香水とかはつけた方がいいのだろうか、自分の体臭に自分で気づくのは不可能に近い、もしかしたら、普段の俺は鼻の曲がるような匂いを振りまきながら歩いているのかもしれない、そんな状態でデートに行っては大変だ。香水もちゃんと買おう。
メッセージが来てから一週間がたち、いよいよデート当日になった。
俺は電車に揺られながら、その揺れ以上に震えている心臓の鼓動を必死に抑えながら、座席に座っていた。
服装は家から少し電車で移動した先にある古着屋で購入したジーンズパンツとシャツ、決してダサくはないはずだ、香水に関しては全くもって知識がないため、ネットで購入した安いものだがないよりはましだろう。
電車が目的の駅に着き、私は電車から降りると、待ち合わせ場所であった時計の下に立ち、今か今かと彼女が来るのを待ち構える。
集合時間から二十分程過ぎたころ、俺の心の中に俺は実は騙されていて、ここに彼女がくることはないのではないかという思いが浮かび始めたころ、彼女は、現れた。
その瞬間、俺の心臓は痛いほどに収縮し、刹那も立たない内に全身の力が抜けるほど弛緩した。
彼女は写真で見た通りの、いや、もしかしたら、それ以上の美しさで狐を思わせる、きっりとした目、クールビューティーという言葉が似合う、そんな女性だった。
「ごめん、待たせちゃった?」
「いや、大丈夫、待つのは慣れてる」
ここは「ううん、俺も今来たところ」みたいに気の利いた噓でも吐くべきだっただろうか、如何せんデートの経験がない俺には正解がわからない。
「ふふっ、なにそれ」
「あ、あぁ、ごめん」
「やっぱり、思った通り、面白いね、あなたって」
「そうかなぁ」
「いいや、行こ、今日はとっておきの場所に連れてってあげる」
彼女は、そう言うと、俺の手を突然握り、少し早歩きで歩き出した。
彼女が、俺の手に触れている、そればかりか、握ってまでいる!それだけで俺は失神するかと思うほどだった。
その後のデートの内容はあまりよく思い出せないが、何とか思い出せるのは、そのデートが、俺にとって、あまり面白いものではなかったということ、そして彼女は、一切財布を出すことはなかったこと、この二点だけだ。
時刻は夜の十時ぐらいだっただろうか、俺は少し、直前に行った店で飲んだワインが血中をさまよい、ふわふわした気分だった。
俺は意を決して彼女に告白をしようとした。
「なぁ!」
優しく問いかけるように言うつもりだったが、思ったようにはいかないものだ。声は上ずり、小動物ならすぐに、逃げ出すような声量だった。
「なに?」
彼女は、俺の両の眼をじっと見据えている。
それは、俺を警戒しているようにも、迎え入れているようにも見えた。
「その、俺たち、結構、良いコンビだと思うんだ……、だからその……、俺と付き合わないか?」
「ごめんなさい」
彼女の口から出たのは意外な言葉だった。
「ごめんなさい、確かに、あなたは、面白いし、凄いいい人だと思う……、でも、そういう気持ちにはなれない……」
「はぁ?」
こんな時、本来ならば、心の中に沸くのは、悲しみであるはずだが、実際の俺の心に沸き上がったのは、怒りだった。
「なんなんだよ!じゃぁ、なんだ!今日の飯だって、買い物だって、全部俺が出したんだぞ!それなのに、それなのに、お前はなんなんだ!どう思って俺と一緒にいたんだ?どう思って俺と会話したんだ?ふざけるな!なぁ!おい!何とか言ってみたらどうだ!」
やってしまった、と思ったときにはもう遅い、彼女の瞳には、深い、失望が浮かんでいた。
「あ、いや、違うんだ……」
「ごめんなさい、私たち、もう会わない方がよさそうね」
俺はその言葉に何も言い返せなかった。
気づいた時には彼女は、もういなかった、そして、それに気づいた後も、俺はその場に暫く立ち尽くした。
いや、なに、たいしたことではない、分かっていたではないか、大丈夫だ、まだ大丈夫だ、確かに彼女には嫌われてしまったかも知れないが、まぁ、問題はないだろう。俺のことを愛してくれない人間一人に嫌われただけだ。問題はない、そのはずだろう。あぁ、そのはず。大丈夫だ、大丈夫。
帰りの電車に揺られながら、自分に言い聞かせるように考える。何も問題はない、そのはずなのに、この心の中に浮かぶ虚空はなんだろう、あるはずのものが抜け落ちた感覚。
あぁ、苦しい、吐きそうだ、胃が熱い、胃酸が胃壁をものともせず全身に沁み渡り、溶け出していく。ドロドロとなった私は横たわる布団に大きな染みを作り、床を貫通し大地に解けていく。体が重い、頭が痛い。
あぁ、クッソ
まだ間に合うかもしれない、間に合わなかったとしても、何もやらないよりはましだ。
私は急いでポケットからスマートフォンを取り出すと、彼女にメッセージを送った。
「今日はごめん、俺たちならもう一度やり直せるはずだ、もう一度会いたい、予定の空いている日を教えてくれ」
送った、そして、送った後に送信を取り消した、そしてもう一度送りなおした。
次の日、俺は、バイト先に今日は休むことを伝えると、一日中、机の上に置いたスマートフォンの前に座り、何も飲まずに、何も食べずに過ごした、しかし、何も送られてこない、気がついたら、窓の外から夕日が見えた。
気がついたら、もう翌日になっていた。
流石に空腹と喉の渇きに耐えかねて、何かを買いに行こうと思い、外に出た。
そしてなぜか、あの日彼女とあった場所に俺はたどり着いていた。
心がそれを求めていたのかもしれない、あの場所へと行く俺の足取りは決して、理性などという、軟弱なものでは到底止めることなんて出来なかった。
そこで私は、彼女の幻影を見た。
彼女の幻影は、誰かと何事かを話していた。その雰囲気は決して穏やかなものではなかった。いや、彼女とその誰かが穏やか雰囲気ではなかった、というわけではない、その誰かだけが、怒り狂ったように彼女を怒鳴りつけていた。一方、彼女の方はまるで、何も感情も何もかも無いかのように冷たい目でその誰かを見ていた。
そしてその誰かが怒鳴りつけるのを聞き終わると、何か一言だけ言ってその場を去っていった。
刹那。誰かは舌打ちすると私の方に向かって歩いてきた。
その誰かは、いかにも冴えないという言葉が似合う男だった。
男は俺に肩をぶつけるも、気にせず歩き去っていった。
その時、初めて、その彼女の姿が幻影などではなく、実際にそこにいるということが分かった。
俺はまるで、夢遊病患者のように彼女にふらふらと着いていった。
いつ気づかれてもおかしくはなさそうだが、イヤホンで音楽でも聴いているのか、俺に気づくことはなかった。
彼女は、カバンからスマートフォンを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。
「あぁ、うん、もう用は済んだから、うん、今から、会えるよ、うん大丈夫、ふふっ、うん、楽しみにしてる」
彼女は、そう言うと、スマホをカバンにしまった。
その時になってようやくわかった、俺は騙されていたんだ、この女に。
怒りが胸の奥底からブクブクと湧き出てくる。
足が女に向かって、進み、拳が一発食らわせてやろうと振りあがる。
足音に気づいてか、女が俺の方を振り向いた時には、もう遅い。
振りあがった拳が女の顔に向けて振り下ろされた。
今まで感じたことのない爽快感が、胸にこみあげてくる。衝撃でうつぶせに寝転がった女に私は馬乗りになり、女の髪を掴み、引っ張り上げると、思いっきり、地面に叩きつけた。ゴシュッと、気味の悪い音が、夜空に響き渡る、俺は、そのままもう一度引っ張り上げ、叩きつけた、ゴシュッまたこの音、女は、叫び声一つ上げない、何が起こっているのか、まだ理解できていないのだろうか、それから、俺は何度も女の髪を引っ張り、叩きつけるという動作を繰り返した。
やがて、腕が疲れてきたので、立ち上がり、顔を一度思いっきり踏みつけてから、俺はその場から、逃げ出した。
帰る途中、俺の心は、達成感というスッキリとした清涼感が胸の中を漂っていた。
俺は、ただ一言、女に「お前が悪いんだからな」とメッセージを送った。思わず、笑い出しそうになってしまう。
そして、家に付き、血の付いた手を洗っている時、突然、とんでもないことをしてしまった、という恐怖が達成感をすべて追い出し、俺の心を蝕み始めた。
あぁ、クッソ、あぁ、あぁ、俺が悪いのか?
俺は、その後、風呂にも入らず、そのまま、布団に包まり、がくがくと震えながら、過ごした。
ガチャリと、扉開けられる音で目が覚める。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
まて、今の音は……?ドアが開けられた音?
噓だろ、昨日は、あぁ、そうだ、鍵をかけ忘れていたかもしれない、クッソ、あぁ、なんなんだよもう。
誰だ、誰が入って来たんだ、警察か?
そう考えていると、もう一度ガチャリと音がなった、恐らく、鍵が閉められた音だろう。
何故だ、何故鍵を閉めた、俺を逃げられなくしたのか?
俺は、今入って来た奴に悟られないよう、ゆっくりと、布団から這い出し、廊下へと続く扉の前に立ち、いつでも、立ち向かえるよう、拳を構える。
両腕が顔の前に来たのとほぼ同時、ドアが開けられた。
俺は反射的に拳をその男に突き出した。
入ってきたのは、一人の細身の男だった、俺の拳はその男の丁度正中線上、鼻のてっぺんにあたった。鼻の骨が折れたのだろうか、ぐしゃりと、あの女を殴った時とはまた違う感覚が俺の拳に伝わる。
入ってきた男はそのまま後ろに倒れこむ、俺はもうその時には半狂乱になっていた、馬乗りになり男の顔を殴り続ける。
「お前が悪いんだ、お前が悪いんだ、お前が悪いんだ……」
俺は何度もそう叫んだ、俺の下で倒れ込んでいる男は、あの女ではない、それなのに、俺は「お前が悪いんだ」
そう言いながら、男を殴り続けた。
突然腹部に激痛が俺は何が何だか分からず、思わず、後ろにのけ反り、男を開放してしまう、その隙に男は尻を引き摺りながら逃げようとしていた。
ヤバい、逃げられる、ここでこいつをどうにかして今までのことが解決するわけではないが、俺はとにかく、逃げられるとまずいと思い、逃がすまいと再び馬乗りになろうととびかかった。
その瞬間、また腹部に痛みが走る。今度はさっきのものとは比べ物にはならないほどの激痛だ、
あぁ、熱い、熱い、熱い、腹があぁ、なんなんだよクッソ、なんなんだよ、あぁ、あぁ熱い、熱い、あぁ、寒い。
思い出した、そしてこの二人は




