馬車の中
棺桶を思わせる、真っ暗な馬車の中で、一人の男が目を覚ます。
場所の中には男の他に、今目覚めた男よりも一回り程太った男が隣に座り、狐を思わせる、妙な妖艶さを孕んだ顔つきの女が向かい側に座りながら眠りこけていた。
男は隣の太った男を豚、向かいの女を狐と便宜上呼ぶことにした。
勿論、頭の中でだが。
男にはここがどこだか分からなかった、いや、ここがどこかだけでなく、自分は何者か、今は何月の何日か、すべてわからない。記憶喪失という奴だ。
窓から外を見ると、薄暗い草原の上を走っているのがわかる。
男は少し迷った後、豚を肘で少しつついて起こそうとする。
「ふごっ」と男は鼻から音を立てると、目を覚まし、目をこすりながら、あくびをする。
「なぁ、あんた、この馬車、どこに向かうんだっけか」
男は豚に尋ねた。
乗客であるなら、この馬車がどこに向かっているのか、分かるはずだと、思ったからだ。
「あ?何言ってんだ?」
「ほら、行先だよ、わかるだろう、忘れちまったんだ、この馬車がどこに向かっているのか」
「あ?馬車?」
豚はまだ寝ぼけナマコといった様子で問い返してくる。
「おいおい、なんだこれ、てか、あんた誰だ、というか、ここはどこなんだ、俺はいつ馬車に乗せられた?」
「マジかよ、なぁ、あんたも、記憶がないのか?」
「なに?記憶……、あぁ、クソッ思い出せん、あぁ、お前の言うとおりだ……、待て、あんたも?今、”も“って言ったか?じゃぁお前も?」
意外なことに豚も記憶を失っていた。
そうだ、これが馬車ならば御者がいるはずだ、御者ならば絶対に行き先を知っているだろう。
男は窓から身を乗り出すと、御者の方を見る。
御者はまるで、死神のようなコートを来ており、後から見ているため、当たり前ではあるのだが、顔が一切見えず、不気味な雰囲気を全身から醸し出している。
「おい!なぁ!あんた、この馬車は一体どこに向かっているんだい!?」
そう尋ねても、御者は聞こえていないのかなにも返さない。馬車は歩いた方が早いのではないかと思うほど、ゆっくりと走っているので、風で聞こえない、ということはないだろう。
「おい!なぁ!あんた!あんた!聞こえていないのかい!」
聞こえていないはずがない。
「ダメだ、聞こえてないみたいだ」
「聞こえてない?そんなはずがないだろう、聞こえてるのに無視してるんだよ、あれは、クソッ、なんなんだ一体……」
俺が行ってくる。
豚はそう言うと、私と同じように窓から身を乗り出すと、御者に向かって大声で怒鳴り始めた。
「おい!おい!聞こえてんだろ!なぁ!おい!しかとしてんじゃねぇ!おい!てめえ!おい!」
豚の怒鳴り声は相当なものだが、それでも御者が反応する様子はない。
「なぁ、もういいだろう、あきらめろよ」
男が豚の背中を軽くたたきながらそう言うと、豚はあきらめ、馬車の中に戻ってくる。
「クソッ、ふざけやがって、絶対に聞こえてるはずなのに」
「御者はもしかしたら、耳が聞こえないんじゃないか?」
「あぁ、あぁ、そうかもな」
豚はそう言うと、ため息をつく。
「なぁ、あんた、いつまで眠ってるんだ?」
豚が狐に声をかける。
しかし、狐は起きる様子はない。
「なぁ、おいって!」
豚は苛立ちながら、狐の足を軽く蹴る。狐はようやく目を覚ます。
「なによ。あなた、失礼ね」
狐は目を覚ます。
「おい、なぁ、あんた、この馬車がどこに行くのかわかるか?」
「はぁ、なに?馬車?そんなことよりあんた達一体誰なのよ?」
「知るかよ、覚えてねぇんだ、お前は自分が何者なのか覚えてるのか?」
「なによ、急に……、待って、ダメ、思い出せない、噓でしょ、私は、私は……」
「クソッ、お前もかよ……」
やはり狐も記憶喪失になっているらしい。
狐は自分が何者か必死に思い出そうとしているのか、頭を抱えながら俯きぶつぶつ何事かを呟いている。
「なぁ、あんた、このまま馬車に乗り続けて大丈夫だと思うか?降りた方がいいんじゃないのか?」
豚が男に問いかける。
「そうだな……」
男は窓から地面を見る。
やはり馬車はゆっくりと進んでいるので、降りても怪我をすることはないだろう。
男も何度か、この馬車から飛び降りることを考えたが、その度に、なにか途轍もなく恐ろしいことが起こりそうな予感がし、どうしても実行に移せなかった。
「はぁ、あんたもか、俺もどうしようもなく、ここから降りるのが怖い」
「あぁ、理由はわからないけど……」
とにかく理由は分からないが、本能がこの馬車から降りることはやめておけとささやいてくる。
そう話していると、馬車が突然止まる。
さほどスピードは出ていなかったので、止まった時の衝撃はほとんどないに等しかった。
御者が降りてくると、私の隣りと、狐の隣にある馬車の扉を開ける。
「降りろってことか?」
「たぶん」
「あなたたち2人が先に降りてよね」
三人は互いに目を合わせている。
誰も最初に降りようとしない。
「おい、あんた先に降りな」
豚が私にそう促してくる。
依然としてこの馬車から降りることに本能的な恐怖を感じていたが、このままここに立ち往生していても仕方がないと思い、男は馬車を降りる。
降りた瞬間に、背筋に氷を服の中にいれられたような寒気が走る。
その不快感と恐怖から、男はしばらく顔を上げられないでいた。
男が顔を上げると、目の前には大きな洋館があった。
豚と狐もおっかなびっくりといった様子で、馬車から降りると、目の前の洋館を見上げた。
「なんだこれ?」
「さぁ、入ってもいいのだろうか?」
周りにはこの洋館以外には他に何もない。恐らく、この馬車はここに向かっていたのだろう。
男がゆっくりと洋館に近づくと、後ろの豚と狐も付いてくる。
洋館の扉の前までくると、男はドアノブにゆっくりと手をかける。
「これ、開けていいと思うか?」
「早くしろ」
男がそう問いかけると豚はぶっきらぼうに返した。
ドアノブをひねると、鍵などはかかっておらず、簡単に扉が開いた。
男たちが入ると、目の前にはホテルのロビーのような空間が広がっており、正面には上階へと続く階段が続いている。
男たち全員が洋館に入ると、御者は馬車に乗り込み、走り去っていった。
当たりを見渡すと、二つのソファが向かい合って、置かれているスペースを見つける。
「立ちっぱなしもなんですし……」
誰に言うでもなく、私がそう言いながらソファに座ると、豚はまた私の隣に、狐は正面のソファに座り、馬車の時と同じ配置に着いた。
その時三人に奇妙な思いが同時に浮かんだ。
私はこの二人を知っている。
この二人が誰か、なぜ知っているのか、どういう関係性なのかは分からないが、とにかく、この二人を知っている。




