62.静かな否定
意識は冷たい波のようにやってきた。
夢でもない。安らぐ闇でもない。
それは、圧力だ。
八尋ひのかはすぐに目を開けなかった。まず感覚を確かめた──背骨に走る微かな振動、低音のような一定の鳴り声。あまりにも静かに流れるようだが、胸の奥まで届いてくる。空気は薄い。一呼吸するたびに何かに濾されたような感覚で肺に入る。
「……うぅ……」
声はかすかにしか聞こえなかった。舌は重たく、喉は渇いている。
瞼の裏にインジケーターの光が見える。自分の目で見ているのではないことはわかっていた。
ついに目を開けた時、見えたのは空でも瓦礫でも、仲間の顔でもなかった。
鉄だ。
異様な幾何学模様を描く湾曲した骨組みが体を囲んでいる。黒いケーブルが腕や脚に張り付き、先程の鳴り声と同調してゆっくりと鼓動している。金属の輪が胸に巻きつき、冷たいが、何かが作動している。
「ああ……」ひのかは浅い息を吐いた。「……捕まったのか。」
声の調子は平板だったが、心臓はそうではない。
鼓動のたびに引き寄せられるような感覚がある。痛みではなく、何かが調整し、読み取り、計測しているような──。
頭上、鉄板と厚い透明パネルの向こう側から人の声が聞こえた。
「同調率、二パーセント上昇しました」
落ち着いた、訓練された声だ。サオ・バイだ。
ひのかは声の方を見つめた。鉄板を透視できるわけではないことはわかっているが。
「何のパーセントだ?」つぶやいた。「割引か?」
別の声が続いた。より低く、冷たい声だ。
「話しかけるな」黒木場が言った。「感情的な反応は変動を加速させる」
「彼女は悪魔だ」サオは短く返した。「変動は本来備わっているものだ」
ひのかは小さく笑った。「聞こえてるよ」
返事はなかった。
ゾルントラは激しくではないが、コントロールされた揺れを始めた。メインエンジンがフェーズを切り替えた。低音の鳴り声は半オクターブ上がり、ひのかの胸が震えるほどだった。
胸の金属輪が温かくなった。
「ふう……」小声で言った。「エネルギーを吸ってるんだね」
インジケーターの光が色を変えた。
サオはレバーを少し引いた。「まだ安定している」
「今のところだ」黒木場が答えた。
ひのかはしばらく目を閉じた。指を動かそうとしたが、反応はあったものの、何かに阻まれた。目に見えない壁が「ここまでだ」と言っているようだ。
小さく笑いながら言った。「礼儀正しいコックピットだな」
誰も笑って応えなかった。
外で何かが動いた。
別の機械の音でも、レーダーの反応でもない。
空気の圧力が変わった。ゾルントラが揺れているわけではない──それに気づいた。
警報は鳴らない。システムはまだこれを脅威と判断していない。
だがひのかは知っていた。
まるで……太陽に近すぎる影のような感覚だ。
「ああ……」つぶやいた。「追いかけてきたな」
黒木場は横のパネルを見た。「何?」
「昔の友達だ」ひのかは軽やかに言った。「いつも我慢強くない方の」
サオは答えなかった。手はすでに方向転換レバーにかかっている。機体はベクトルを変え、灰色の雲の間を斜めに進んでいく。
そして──
空気が裂けた。
爆発音でも、大きな音でもない。
まるで布を強引に引き裂くような音だ。
ゾルントラの外装パネルが白っぽい光を反射した。太陽の光でもなく、機械のエネルギー光でもない。
光は横からやってきた。
サオは低くつぶやいた。「視認距離に入った」
黒木場はついにひのかの方を見た。体ではなく、彼女に取り付けられたインジケーターの方だ。「共鳴レベルが急上昇している」
ひのかはまた目を開けた。微笑みは少し薄れた。「へえ……あいつをもっと怒らせないでよ」
外では、サタンことザラビスがゾルントラと並んで浮かんでいる。接触も攻撃もしない。
ただ見つめている。
目を細め、厚い鉄板の向こうの一点に焦点を合わせている。
「ひのか」
声は距離を感じさせないように骨組みを抜けてきた。
「お前は生きている」
問いかけではない。断定だ。
ひのかは安らぎの息を吐いた。「うん。死にかけたけど、まだだよ」
サタンは手を上げた。
サオは叫んだ。「回避行動、今すぐ!」
ゾルントラは急旋回した。白い光は発射されなかった。サタンの手は動きの途中で止まった。
視線はひのかのすぐ後ろにあるパネルの方へと移った。
「……近すぎる」小声で言った。
手を引き戻した。
爆発は起こらなかった。だが圧力波がゾルントラの側面を直撃し、機体は大破することなく吹き飛ばされた。
サオはしばらく言葉を失った。「あいつ……手加減している」
黒木場は拳を握った。「それは良い知らせじゃない」
カプセルの中でひのかは息苦しそうに喘いだ。回避行動でエネルギーの吸収が加速し、胸の金属輪は熱く鼓動している。
「ねえ……」小声で言った。「この調子じゃ、また気絶しちゃうよ」
サオは答えなかったが、速度はわずかに落とした。
今度はサタンが正面に現れた。
怒っても笑ってもいない。
ただ集中している。
「彼女を解放せよ」
声は平板だが、周囲の空間が狭まるような圧力を帯びている。
黒木場は追加防御層を作動させた。「解放したら、俺たちは死ぬ」
「解放しなければ」サタンは静かに答えた。「ただ時間を稼いでいるだけだ」
ひのかは頭上の鉄の「空」を見つめた。「へえ……彼は正しいよ」
胸の金属輪に細かなひびが入り始めた。
ゾルントラは前進し、サタンは追いかける。
大きな爆発もクライマックスもない。
ただ互いに試し合う二つの力があり、一方は自制し、一方は隙を探している──。
そしてその中心にいる
八尋ひのかは、半分意識が遠のき、半分引き寄せられながらも、一つのことをはっきりと認識していた。
この戦いはまだ始まっていない。
そして始まった時
空は広すぎることはないだろう。
ゾルントラは空中で姿勢を安定させた。
エンジンはまだ轟いているが、今回は回避行動ではなく、内部の負荷のせいだ。
下部パネルが開いた。
八尋ひのかはメインコックピットへと引き上げられた。
体は軽い。あまりにも軽い。これまで張り付いていたケーブルが徐々に外れ、肌にはかすかな光の跡が残った。息は浅く、目は半開きでぼやけて焦点が合わない。
「予備座席に移動せよ」サオ・バイは短く命令した。
黒木場は顔を向けた。「待て。それは手順違反だ」
サオは答えず、いくつかの手動パネルを操作した。本来非作動の予備座席が動き、機械の顎のような固定フレームが開いた。
ひのかはその中にもたれかかっていた。
黒木場は立ち上がった。「サオ。説明しろ」
今になってサオが振り返った。
その笑顔は……不気味だ。
喜びでも達成感でもない。
まるでついに礼儀正しいフリをやめた人のような──。
「疲れた」小声で言った。「ゾルントラのコアと同調する生身のエネルギー源がいるのに、まだ手順なんか考えてるんだ?」
黒木場は拳を握り締めた。「俺たちは人質を連れているのだ、燃料じゃない」
サオは小さく笑った。「それは見方の問題だ」
コックピットの奥にある小さな休憩室へと歩み出した。医療機器とエネルギー変換ポートが詰まった部屋だ。ドアは自動で開いた。
中には、壁に取り付けられた人体固定フレームがあった。
ひのかは体を移される際、小さく声を上げた。目は震え、かすかな光と見知らぬシルエットを見つめている。
「……殿……下?」
かすかに、ほとんど聞こえない声だ。
黒木場は息を呑んだ。「サオ。やめろ」
「大丈夫だ」サオは答えた。「殺すつもりはない。むしろ逆だ」
手は抽出パネルに触れた。
「彼女はゾルントラの一部になる」
コックピットの空気が変わった。
警報でもセンサーの反応でもない。
ただ圧力が──。
ゾルントラは小さく震え、まるで骨組み自体が命令を拒んでいるようだ。
外で──
空が締まり始めた。
ザラビスは追撃をやめた。
宙に浮かんでじっとしており、巨大な鉄塊の中の一点を見つめている。
表情は変わらない。
だが何かが高まっている。
普通の感情でも人間の怒りでもない。
虚無のアドレナリンだ。
「ああ……」小声で言った。「なるほどか」
拳を握った。
最初に出るのはエネルギーではなく、静寂だ。空気が動くのを忘れたかのような、わずかな一瞬だ。
コックピットの中で黒木場は突然体を動かした。「サオ──」
遅かった。
ザラビスはゾルントラの正面に現れた。
射撃の構えもしない。
角度を計算する様子もない。
ただ殴りかかった。
宇宙的な爆発でも壮大な光でもない。
ただ一直線の一撃だ。
ゾルントラの鉄板はたわみ、衝撃波が接触点から広がり、外装を引き裂き、半分のシステムを停止させ、巨大な機体は死んだ物体のように落下していった。
中ではサオが吹き飛び、口から血が噴き出した。
黒木場は壁に激突し、意識を失った。
休憩室はひび割れ、固定フレームは崩れた。
ひのかは放り出され、ケーブルも外れたままコックピットの床に落ちた。
ゾルントラは雲の中へと落下していく。
サタンはその上に浮かんでいる。
もはや追いかけない。
「過ちは……終わりだ」
静かに言った。
そして遠くで──
古い戦いの傷跡で割れた広大な平地に
影が一つずつ降りてきた。
普通の軍隊ではない。
将軍たちだ。
彼らのオーラが空気を震わせ、地面がはがれ、空は薄暗くなった。
平地の反対側で
ドラゴンバーストが動き出した。
エネルギーの翼が燃え上がり、ドラゴンの息遣いのような轟音が機械の音と戦いの叫び声と混ざり合った。
演説もない。
宣言もない。
ただ一つの認識が静かに広がっていた──
大戦が始まるのだ。
そして見えない場所で──
誰かが笑った。
姿を現さず。
言葉も発さず。
ただ世界が自らの方向へ進むのを見守っている。
ロヨダの上空で空が裂けた。
雷によるものでもない。
爆発によるものでもない。
ただ一撃によるものだ。
ゾルントラはかすかに回避行動を取った。エンジンはまだ轟き、コックピットのパネルは乱れて点滅している。サオが安らぎの息を吐く暇もなく──
ロボットの正面の空気が消えた。
押しのけられたのでもない。
爆発したのでもない。
ただ消去された。
何かが接触音もなくゾルントラの胸を直撃した。
次の瞬間、巨大ロボットの全身が完全に停止した。まるで世界がそれを動かす方法を忘れたかのようだ。
黒木場は目を見開いた。
「なに──」
その一撃は貫通した。
横からでもない。
上からでもない。
まさに正面から──
そしてコックピットの奥まで届いた。
ゾルントラの内部構造が呻いた。警報でも警告システムでもない。ただ崩れ去る機械の論理だ。
パネルが砕け散った。
キャビン内の重力が逆転した。
サオは座席から放り出され、息を絶やすように壁に激突した。何が起こったのか気づく前に、額から血が滴り落ちた。
黒木場は体を支え、歯を食いしばった。
「……これは攻撃じゃない」
次々に消えていく診断画面を見つめた。
「これは……存在の否定だ」
外で──
サタンは宙に立っている。
手はまだ伸ばしたままだ。拳は開かれていない。表情は静かだ。あまりにも静かだ。
今や制御不能に浮かぶロボットの下で、サタンはわずかに顔を向けた。
ひのかの方へ。
彼女の体からこれまで吸収されていたエネルギーが強制的に遮断された。流れは一瞬にして崩れ、ゾルントラのシステムは内部負荷を安定させられなくなった。
ひのかの体はゆっくりと放り出され、補助コックピットの中に落ちた。衝撃を受けたが、命はあった。
息が詰まるような咳が出た。
視界はぼやけている。
「……ユ……ラ……?」
声はかすかにしか聞こえなかった。
サタンは小さく息を吐いた。
安堵でもない。
再評価の一息だ。
「まだ生きている。よし」
手を下ろした。
それからやっと、世界が追いついた。
衝撃波は遅れて広がり、雲を引き裂き、遠くの空き家を粉砕し、ゾルントラを壊れた人形のように開けた大地へと吹き飛ばした。
サオは叫んだ。
黒木場は完全に制御を失った。
彼らは落下していく。
急速に落ちるのではない──
方向もなく、ただ落ちていく。
サタンは追いかけない。
ただ見つめている。
「……もういい」
その言葉は赦しではない。
境界線だ。
遠くで、平地が震えた。
ゾルントラが地面に激突したからではない。
それより先に、何か別のものが着地したからだ。
大きな影が水平線に現れた。
整然とした編隊だ。
重圧のようなオーラ。
将軍たちだ。
空はわずかに暗くなり、まるで太陽がこの場所に光を当てるべきか迷っているかのようだ。
サタンは彼らの方へ視線を移した。
興味を示さず。
挑発される様子もない。
「ふむ」平板な声でつぶやいた。「やっと動き出したか」
広大な平地の反対側で──
青い炎、エネルギーの閃光、そして人間ではないような咆哮が集まり始めた。
ドラゴンバーストだ。
二つの流れ。
一つの戦場。
そしてサタンはその間に立っている──中心としてではなく、まだ選択していない変数としてだ。
もっと高い場所で──
手の届かないほど遠くで──
誰かが小さく笑った。
だが何も言わなかった。
まだだ。
そして空の上で──
ノロがいた。
座っているのではない。
存在として在っている。
目は特定の一つの反射光に焦点を合わせている。
街でもない。
軍隊でもない。
ただ今消え去ったばかりの虚無の痕跡だ。
「……面白い」つぶやいた。
薄い微笑みが浮かんだ──勝利の笑いではなく、自らの遊び道具がやっと自らの意志で選び始めたことに気づいた人のような笑いだ。
「悪魔エグアマは完全な姿を取り戻した」小声で続けた。
「人間の変数は依然として残っている」
「そしてザラビスは……」
目の前の鏡に細かなひびが入り、すぐに修復された。
「……道具としての存在を拒み続けている」
静寂が訪れた。
最初から彼の背後に佇んでいた五つの影が──
動かず、息もせず、呼び出す必要もない。
彼らは護戒衆だ。
五人の禁じ手の守り人だ。
力故に将軍ではない。
存在故に神ではない。
世界が導かれることを拒んだ時の、最後の答えだ。
ノロは一本の指を上げた。
それだけだ。
命令に言葉は不要だ。
だが声は静かに、優しく、怒りもなく響いた。
「コトラット世界は抵抗の意味を思い出し始めている」と言った。
「そして抵抗とは……常に道徳の幻想から生まれる」
最初の影が動いた。
神剣庵 深淵が一歩前に出ると、その影はガラスの床に生き物のように這い回った。
「影は異質な意思の香りを嗅いだ」と言った。「あの虚無の痕跡は……この世界のものではない」
「よい」ノロは答えた。
天霧 光雪は拳を握った。周囲の空気は音もなく裂けた。
「ならば、立ちはだかるものは何でも打ち砕く」
獅子葉 虚ろは動かなかった。だが部屋の温度はわずかに下がった。
「死が意味もなく訪れる時」と囁いた。「世界は静まるだろう」
水原 妖血はかすかに笑った。腕の血が勝手に動き、生物学的ではない模様を描いた。
「生きるものは変わる。変わるものは従う」
最後に、蓬莱 簪が一歩前に出た。
オーラもない。
圧力もない。
だが全ての施設が彼女に合わせて調整された。
「命令を確認する」と言った。
「標的:あなたの意志に逆らう者全て」
ノロは立ち上がった。
初めて、鏡に映るコトラット世界の姿が揺らいだ。
「戦争ではない」ノロは微笑みながら言った。
「概念の浄化だ」
わずかに顔を向け、まるで遥か下の世界に話しかけているようだ。
「闘わせよ」
「願わせよ」
「それから気づかせよ──」
五人の護戒衆は消えた。
移動したのでもない。
テレポートしたのでもない。
もはやここには必要ないのだ。
「──道徳とはただの習慣に過ぎず」ノロは続けた。
「そして習慣は……消去できる」
黒き星鏡は、映り込む姿を一つずつ閉じていった。
下のコトラット世界で──
空はまだ割れていない。
人々はまだ息をしている。
戦士たちはまだ時間があると信じている。
けれど──
禁じ手は既に動き出している。
そして今回、
賭けられているものは
勝利ではない──
世界が自らを裁く権利そのものだ。
「次回更新:1月 9日 21:00」




