第25話: 腐敗した世界に灯る小さな炎
コトラット砂漠の夜風が、そっと吹き抜ける。
細かな砂埃と、雨さえも洗い流せなかった古い血の臭いを運んで。
何もない空間の真ん中で、
小さな焚き火だけが、かすかに燃えていた。
ちっぽけで、もろい。
だけど、一時的なら…闇を退けるだけの力はある。
その近くに、二人の影が座っていた。
ソニアが大きく息を吸い込む。
肩が上下に動く。
大きすぎる修行着は汗と雨で湿り、肩からずり落ちそうになっていた。
彼女の前に立つのは――サタン。
彼女が名付けた、明らかに人間ではないこの存在は、
手に漆黒の鎌を持っている。
その鎌は…ただの武器ではない。
まるで現実にヒビが入ったかのようで、
近づく光さえも、スパッと切り裂いてしまう。
サタンは無表情に彼女を見ていたが、
以前のような「空っぽ」さは消えつつあった。
何かが、少しずつ変わり始めている。
「もっと、力を抜いて持て」
彼の口調はまだぎこちない。
まるで、初めて先生役をやる人間のようだ。
「まるで…巨大な虫を殺そうとしてるみたいな握り方だな」
ソニアが意識してみる。
…が、見事に失敗。
手から鎌が滑り落ちそうになる。
サタンは手で顔を覆う。
「これはもう、『恥ずかしい』レベルじゃない。『心配になる』レベルだ」
「だって! こんな大きな武器、初めて持つんだもん!」とソニアが反論する。
「ああ、見ればわかる」
一瞬、沈黙が流れ。
そして――
二人同時に、くすりと笑った。
奇妙なことだ。
この世界は悲鳴で溢れているのに、
ここにだけは…笑い声がある。
めちゃくちゃだけど、本物の修行
時が過ぎる。
ソニアは転び、
起き上がり、
また転ぶ。
テントを刺しそうになり、
焚き火を切り裂きそうになり。
その度に、
サタンはただ突っ立って見ている。
ため息をつくこともあれば、
かすかに頷くこともある。
別に我慢強いわけじゃない。
どう反応すれば正解なのか、
そもそも彼にはよくわかっていないだけだ。
「もう一度」
ソニアが再び鎌を構える。
今度は、少しだけ安定している。
その瞳が…変わった。
右目の中で、『ヘルアイズ』がゆっくりと脈動する。
消えかけた炭火のような、鈍い赤い光。
サタンはそれを見ていた。
(ほう…適応力が高いな)
(この人間…案外、悪くない)
数分後。
ソニアの動きは、ようやく「めちゃくちゃ」ではなくなっていた。
上手いかと言われれば、まだまだ遠い。
だけど…自分で自分を傷つけない程度にはなった。
サタンが頷く。
「まあ、及第点だ。俺が本気で武器になってやれば…すぐには死なないだろう」
ソニアが少しだけ頬を赤らめる。
「じゃあ…私も、いつかサタンを守れるくらい強くなりたい」
サタンがパチリと瞬き。
表情:無。
思考回路:ショート気味。
「…それは、不要だ」
即答だ。
「俺はそういう概念に収まるレベルじゃない」
少しだけ間を置いて、
声のトーンを落として付け加える。
「…だが、一緒に行く。それでいいだろ」
ソニアが笑顔になる。
なぜだかわからないけど、
その言葉は、とても大切なものに思えた。
炎と、思い出と、壊れた世界
夜は更けていく。
焚き火は小さくなり、
コトラットの空は相変わらず暗く、希望などどこにもない。
ソニアは膝を抱えて座っていた。
「ねぇサタン…私、昔の話、ちゃんとしたことなかったよね?」
向かい側に座るサタンは、
地面に鎌を突き立てている。
「話してみろ。俺が…聞いてやる」
短い言葉。
だけど、昔は「退屈」だけが世界だったこの存在にとって、
これは大きな進歩だった。
ソニアがゆっくりと語り始める。
蜂蜜パンのこと。
おバカだけど優しい父さんのこと。
暖かい母さんのこと。
そして…弟の、リュウのこと。
サタンは遮らない。
だけど、彼の手が…
だんだんと、強く握りしめられていく。
話が、炎に包まれ、
血に染まり、
叫び声に変わる頃。
その名前が出た。
『アステロン教団』
空気が変わる。
音が消え、
重たい圧力が降りてくる。
「団長は…」ソニアがささやく。
「ノロ。『運命を紡ぐ者』って呼ばれてる人」
沈黙。
薪がパチリと音を立てる。
サタンは目を閉じる。
彼の心の中に、
明確な「怒り」という感情はまだない。
だけど、一つだけ確かなことが生まれた。
> これは、間違っている。
この世の理不尽を知る存在にとって、
それは…行動するには十分すぎる理由だった。
「わかった」
低く、つぶやく。
「これは…俺の問題でもあるな」
「人間らしく」するための、不器用な努力
沈黙が重すぎて、
耐えられなくなった。
なぜかわからないが…
サタンはこの空気が嫌だった。
(泣かせたままじゃダメだ)
(俺が…何かしなきゃ)
(ミジャルンだったら、どうするんだろう…?)
彼は突然、立ち上がった。
バンッ!!
手近な丸太を地面に叩きつける。
ソニアがびくりと肩を跳ねる。
成功。
サタンは心の中でガッツポーズ。
(作戦、成功)
そして、彼は全力で「真剣な顔」を作る。
「こんなこと…絶対に、許されることじゃない」
ソニアはポカンとしている。
「…う、うん…?」
サタンはさらに、少しだけ声を柔らかくする。
「お前は、覚悟はできてるか?」
ソニアが答えるより先に、
彼は空を見上げて言った。
「…だが、明日だ。今は夜だから」
理屈:100点。
タイミング:0点。
ドラマチックじゃないけど、本物の約束
サタンはソニアの隣に座る。
小さな炎が、彼の瞳に反射している。
「わかった」
静かな声。
「俺たちで、弟を探そう。必ず」
ソニアは口を覆う。
涙が、ぽろりとこぼれる。
「…ありがとう…」
サタンは黙っていた。
その時、
ソニアがふと問いかける。
「どうして…私のこと、助けてくれるの?」
単純な質問。
本当の答えは?
退屈だったから。
面白そうだったから。
何か、埋まらないものがあったから。
だけど――
サタンは考えて、
そして初めて、自分で選んだ言葉を口にした。
「俺も…友達が、欲しかったんだ」
沈黙。
ソニアが、完全にフリーズする。
数秒。
そして――
「私、すっごく嬉しい!!」
ボリューム:最大。
サタンがびっくりして、
少しだけ後ろに反る。
だけど――
彼は笑っていた。
ぎこちなくて、
まるで新しいシステムが初めて起動したみたいな笑顔。
彼の心の中で、
小さな文字が浮かんだ。
> 【幸福度: 1%】
初めての、悪夢のない夜
ソニアがテントの中に入る。
手の中の小さな鎌が、優しく光っている。
「もう…一人じゃないんだ」
彼女は目を閉じる。
そして生まれて初めて、
悪夢を見ずに眠りに落ちた。
なぜか守ってしまう、訳のわからない番人
テントの外、
サタンが一人で座っている。
ただ、じっと
コトラットの闇を見つめている。
手で、自分の胸元に触れる。
「…友達、か」
まだ言葉は馴染まない。
だけど…嫌な感じはしない。
彼は夜空を仰ぐ。
「ミジャルン…俺、ちゃんとやってみるぞ」
風が吹く。
焚き火が、消えかける。
彼の瞳が、真っ赤に輝く。
「ノロ…」
声は平然としている。
だけど、彼の周りの空間だけが、
細かくヒビ割れていた。
「お前は、必ず止める」
そして彼は背中を壁に預け、
目を閉じる。
眠るためじゃない。
この小さな光を、
守るために。
その頬には、
かすかな笑みが浮かんでいた。
ほとんど見えないくらい、
小さな、
だけど確かな笑顔が――。




