忘れないで、と手紙は言った
『言乃葉 詩織』と申します。
いきなりの自己紹介で失礼いたします。
私は現在、高校で教壇に立ち、実直に誠実に、生徒のためを思い、子どもたちの手本となれるよう努めています。
「いつだって子どもたちを導ける良き大人であれ」
これが私の信条です。座右の銘は至誠一貫。嘘偽りなく、ただひたすらに子どもたちを思い続ける、そんな教師でありたいと願っています。
もし誰かに尋ねられたなら、私は迷うことなく声を大にして答えるでしょう。
――私は子どもたちが大好きだ、と。
毎日を全力で生きている姿を見ているだけで、「この職業に就けて本当に良かった」と心の底から思えます。元気をもらえるのです。教えを説くと同時に、私自身も日々救われています。
けれどご存じのとおり、教師という仕事は容易ではありません。授業のほかにも、生徒対応、保護者対応、学校運営に関わる業務など、多岐にわたります。長時間勤務になることも少なくなく、一日十二時間を超える日もあります。
そして、ときには困ってしまう出来事もあります。
私のような者が、受け持ちクラスの女生徒から告白を受けてしまったのです。
私はもうすぐ三十に届く年齢。相手は十七歳になったばかりの生徒です。どう考えても釣り合いなど取れるはずがない。それに、彼女は私にとって大切な、大切な教え子なのです。
わかっております。
人が勇気を出して「好きだ」と告白することが、どれほど尊く、どれほど大切なことであるか。
けれども、その告白にお応えすることはできませんでした。宝石のように輝く彼女の未来を、私などのために潰すわけにはまいりません。
ですから、相手が傷つかないように、できる限り心を痛めないように、私は細心の注意を払い、断腸の思いで、泣きそうになりながら、大切な教え子の告白を無碍にいたしました。
それなのに、自分勝手な私は、彼女に『呪いの言葉』を残してしまったのです。
正直に申し上げますと、本当に嬉しかったのです。心から、嬉しかったのです。
私のような者を好きになってくださった、その温かく優しい、春風のように頬を撫でる美しい心根が。
数年後、私はかつての教え子たちと再会いたしました。
笑い合い、何気ない会話が続く中で、一人の教え子がふいに口にしたのです。
「亡くなったんですよ、あの子」
思考が一瞬で止まり、何も考えられなくなりました。彼女たちもまた、悲しそうに目を伏せながら、ぽつりぽつりと『春風のきみ』のことを語りました。
すでにすべては取り返しのつかないことになっていたのです。
『春風のきみ』
彼女の名は――乃恵瑠と申しました。
*
乃恵瑠くんが亡くなりました。頭の中はぐるぐると渦を巻き、視界もまともに定まりません。目が回り、気分が悪くなるほどでした。
乃恵瑠くんは、彼女は確かに、私が最も愛した人でございました。胸が締め付けられます。あれほど大切に思っていた彼女が、この世を去ってしまったのです。
先日、教え子たちから聞いた話では、乃恵瑠くんはその後、病に伏し、誰にも心を開かないまま、ひとり静かに死を迎えられたとのことでした。耳を疑いました。頭がおかしくなりそうでございました。
彼女をそのように追い込んでしまったのは、間違いなく私自身でございます。
『愛ゆえに』――あの時はそのように思っておりました。
しかし、それはただの私のエゴでありました。私は決定的な過ちを犯したのです。苦しめました。彼女を苦しめてしまいました。
心から大切に思っていた乃恵瑠くんを、そのように追い込んでしまったのは、疑いようもなく私でございます。
一輪の花のように、透き通る白百合の花びらのように清らかで美しい心を、黒く染めてしまったのは私自身でございました。
『告白を受け止めれば彼女を傷つけてしまう』――私はそう勝手に思い込みました。彼女の誠実で切実な想いを、一方的に冷たく扱い、軽んじ、ぞんざいにしてしまったのです。
『これでよかったのだ』と必死に自分に言い聞かせ、気持ちに嘘をつきました。
差し出された乃恵瑠くんの小さくか弱い手、あの弱々しく震えていた手を、私は強く握り返してあげませんでした。
だから、彼女は。きっと彼女は――。
すべて、私のせいでございます。春風のように温かく優しかった乃恵瑠くんを殺してしまったのは、間違いなく私しかおりません。
胸の奥をえぐられるような痛みが再び走ります。あの時、彼女の告白を受け入れていれば。あの時、彼女の手を取っていれば。
その思いに苛まれながら、私は後悔の渦に沈み、やがて仕事にも身が入らなくなっていきました。
*
教壇に立てなくなり、仕事を辞めました。教師という職を辞めたのです。もはや私には、子どもたちに教えられることなど何ひとつ残っておりません。
今はただ、実家の布団で寝込む日々を送っております。
毎日、水槽の中で喘ぐ金魚のように口を開け閉めしながら、どこか遠い場所、虚空を見つめているのです。
虚空のどこかに乃恵瑠くんがいないかと。虚空のどこかから、私を殺しに来てはくれないかと。
しかし、どれほど待っても乃恵瑠くんは姿を現されませんでした。
罰を受けたいと思いました。彼女を苦しめてしまった最低な私が、もう二度と覚めることのないように。
光の一片すら届かぬ地獄の底で、今もなお愛するたった一人の彼女に、『贖罪』という名の『愛しております』を送り続けたいと願っていたのです。
そのような日々がしばらく続いたある日、部屋の扉を叩くコンコンという音が響きました。
「詩織」
母の声でございました。なぜか母が突然、部屋に訪れてきたのです。
「おまえ宛てに手紙が届いていたよ」
思わず「えっ」と声を上げてしまいました。今どき手紙など珍しいことですし、手紙を送ってくださる友人など私にはおりません。――そう思いながら差出人を見た瞬間、呼吸が止まりました。
封筒は黒一色でした。宛先も切手もなく、ただ記されていたのは「私」と「乃恵瑠くん」の名前のみ。
「気持ち悪い」
抱いた印象は、その一言に尽きました。
けれども、私と乃恵瑠くんの名が記された封筒を開けずにいることなどできません。私は恐る恐る封を切りました。すると、そこにはこう記されていたのです。
「ありがとう、先生に愛されてあたしは幸せでした」
手紙を持つ指が大きく震えました。あり得ないことです。そんな馬鹿な話はございません。決して、このようなことが起こるはずがないのです。
乃恵瑠くんが。私が殺してしまった乃恵瑠くんが、そのような言葉を残すはずはございません。
あり得ない、あり得ない。
乃恵瑠くんは、私を恨んでいたはずです。絶対に恨んでいたに違いありません。その乃恵瑠くんが「愛されて幸せでした」と言うなど、そんなことは到底あり得るはずがないのです。
間違いなく、これは誰かの悪戯でございます。私を陰で嘲笑っているに違いありません。そうでなければ、このようなことをする理由などどこにもございません。
誰なのですか。誰が私を陥れようとしているのですか。
そんなことをせずとも、私はすでに人を殺めた人間の屑でございます。地獄に堕ちる運命なのです。
やめてください。私に関わらないでください。私はもう、誰も不幸にしたくはございません。ただ一人静かに朽ち果てるのを待ちたいだけなのです。
ですから、放っておいてください。もし乃恵瑠くんの無念を晴らしたいとお思いなら、このまま私を地獄の底へ落とさせてください。
しかし、その後も幾度となく、母は何事もなさそうに新しい手紙を運んでまいりました。
「先生が元気だと私も嬉しい。あたしはもうこの世にいないけれど、いつだって先生の幸せを願っています」
やめてください、やめてください。彼女がそのようなことを思うはずがございません。言うはずもございません。私はあの差し伸べられた手を握り返さなかったのです。冷たく突き放したのです。
私は――。
「幸せになってはならない」
「罰を受けなければならない」
「彼女と同じ痛みを受けなくてはならない」
そう強く思わずにはいられませんでした。
その後も、乃恵瑠くんからの手紙は、次々と母の手によって私のもとへ届けられ続けたのです。
私は母に怒鳴りました。もう手紙を持ってくるのはやめてほしい、と。
しかし母は虚ろな表情を浮かべ、自分が何をしているのかも理解していないかのように、次々と乃恵瑠くんの手紙を運んでまいりました。
明らかに母は正気を失い、無自覚のまま手紙を持ってきているとしか思えませんでした。
「愛しています」「幸せになって」「元気を出して」「見守っています」「傍にいるよ」「あなたを信じています」「抱きしめたい」「大丈夫」「ずっと一緒に」「あなたの笑顔を願っています」「離しません」「心配しないでください」「夢を見続けてください」
どれも優しい言葉でございました。あれも優しい言葉でございました。
どれもこれも、すべてが優しい言葉。
けれど私にとって、それは間違いなく『暴力』でございました。
癒しなどどこにもなく、優しさなどどこにもなく、温かさなどどこにもありません。
それはまさしく、暴力をも超えた『暴虐』でございました。
気が狂いそうでございました。正気を保つことなどできませんでした。
やがて私は、乃恵瑠くんの手紙を風呂場で全て燃やそうといたしました。
しかし、そこでまたあり得ないことが起こったのです。
彼女の手紙は、この世に存在していないかのように、何をどうしても燃やすことができません。燃やしても燃やしても、手紙は尽きることがなかったのです。
その後、しばらくの時が流れました。
今や私の家は、足の踏み場もないほどに乃恵瑠くんの黒い便箋で埋め尽くされております。
家のどこを見ても黒、黒、黒。まるでこの世すべてが黒に塗りつぶされたかのように錯覚するほどの黒の暴虐が、今日も私の思考を『優しく』『温かく』破壊してまいります。
「ここにいることを忘れないで」「あの日の約束を覚えていて」「想いを手放さないで」「出会いを忘れないで」「ずっと記憶の中にいて」「心の奥に留めていて」
「あなたの隣にいたことを忘れないで」
咄嗟に、私は叫び声を上げておりました。もう我慢できなかったのです。頭のネジはすべて外れかけておりました。
「私は幸せになってはならない。彼女の未来を奪った私は、地獄に堕ちねばならない」
あ。
「いつも思っています」「出会えたことを忘れないで」「心の灯を消さないで」「笑顔を忘れないで」「どんな時もそばにいることを覚えていて」「歩いてきた道を大切にして」「愛されていることを忘れないで」
ふと、紙に押しつぶされるような感覚に襲われました。
狂気に満ちた決意だけが心を強く占めていきます。答えは、すでに決まっておりました。
*
『死を選ぶしかない』。
いよいよ、その時がやってまいりました。ここが潮時でございます。私は、彼女に対してそれだけのことをしてしまったのですから。何の言い逃れもできはいたしません。
あの優しく温かかった彼女を、私は『怪異』へと変貌させてしまったのです。『春風のきみ』は、もはやその面影すらどこにもございません。
けれど、私にはわかっております。本当は、きみが自ら望んでそうなったのではないということを。
きみを怪物にしてしまったのは私です。恨みの根源が消えれば、きみもきっと成仏できることでしょう。
ですから、私はこの『命』をもってしてでも、きみを『天国』へと連れて行ってみせます。
今まで、私のような者を愛してくださりありがとうございました。
きみの気持ちが本当に嬉しかった。きみの差し出してくださった純真が、この世の何よりも温かかった。
きみに与えていただいた優しさは、その形を歪めてしまったとしても、その美しさは少しも変わりはいたしません。
私は今、そのことにようやく気づきました。本来ならもっと早く気づくべきでございました。
『乃恵瑠くん』。今あらためて、きみの名を呼びます。
今となってはすべてが遅うございますが、あの時に差し出された手を握り返せなかったことをお詫び申し上げます。
勇気を出して告白してくださり、ありがとうございました。ずっとずっと私だけを見続けてくださり、ありがとうございました。
先ほど視界に入ったある物を、私は手に取りに行きました。それはすぐ近くに置かれておりました。
『かけがえのないきみ』。私は大型のカッターナイフを手に取ります。
『何物にも代え難いきみ』。そのまま喉元へと突き当てました。
『この世にたった一人のきみがいてくださってよかった』。
願わくは、この声がきみに届きますように。
私は腕に力を込め、その刃を突き立てようといたしました。
『怪異となってしまったきみを天国へ行かせるには、これしかない』。
そう思いつめたその時、目の前に新しい手紙が現れました。
「忘れないで」
それはこれまでの優しい言葉とは異なる響きを持っておりました。
気づけば、部屋のあちこちに“忘れないで”と書かれた便箋が増えていったのです。
「ここにいることを忘れないで」「出会いを忘れないで」「あなたの隣にいたことを忘れないで」
身体中から力が抜け、強く握りしめていたカッターナイフも今やもう手の中にはなく、代わりに一枚の『忘れないで』という便箋が残されておりました。
涙が止まりません。嗚咽が溢れてまいります。
『忘れないで』――それは、あの時、私が彼女に残してしまった『呪いの言葉』でございました。
立っていられるはずもなく、私は勢いよく床に仰向けに倒れました。言葉にならぬ声が頭の中を駆け巡り、嗚咽となって溢れ出しました。
弱々しく、それでいて必死に、震える腕で涙を拭いました。しかし拭っても拭っても涙は止まらず、その涙はやがて一枚の便箋を呼び寄せたのです。
気づけば、目の前に一枚の便箋が落ちておりました。私はそれを花を手にするように優しく拾い上げました。
そこにはこう記されていたのです。
「自分を大切にできない人は他人も大切にできないよ。わかった、先生?」
次の瞬間、耳元に温かな吐息を感じました。慌てて横を向きましたが、誰の姿もありませんでした。
ただ、床に投げ出された私の体には、誰かに優しく抱きしめられているかのような不思議な感覚だけが残っていたのです。
*
あの日から数年が経ちました。私は再び生きる力を得て、社会復帰を果たすことができました。
新しい仕事もまた学校の教師でございます。余談ではございますが、再び高校教師を務めております。
私はかつて過ちを犯しました。だからこそ、二度と過ちを繰り返さないと誓いたいところですが、それは多分不可能でございましょう。人間は何度でも過ちを犯すものだからです。
しかし同時に、人間は過ちを重ねるたびに学び、成長していく存在でもあります。つまり、人間は過ちを犯すたびに生まれ変わっていくのです。
それが良い方向か悪い方向かは、その時になってみなければわかりません。
ただ、私はあらためて子どもたちを導き、見守り、良き大人の見本となりたいと願っております。
世界を『零』から『壱』へと変えていく。
それこそが、人が本来持ちうる最大の力であると信じております。
乃恵瑠くんを傷つけてしまった。その罪悪感は、この先も消えることはないでしょう。
それでも私は、彼女の分まで少しでも長く生きたい。死んでなお最愛の存在である彼女の冥福を、私が死を迎えるその日まで祈り続けていきたいのです。
それこそが、二人を繋ぐ終わりのない、私たちだけの『文通』ならぬ『心通』だからでございます。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。