4日目 ガリ勉とギャルと休日~伊織の場合~
「……最悪だ」
何で、俺が傘を持ってない日に限って。朝は晴れてたろ。図書館の入口で、伊織は大雨を前に肩を落としていた。
「くそ、天気予報じゃ雨なんて予報してなかったって言うのに!」
梅雨を甘く見た結果だというなら、あんまりだ。最近降っていなかったら油断した。くそ、参考書が濡れる。
思わしくない事態に頭の中でつらつらと伊織が文句を垂れていると、不意に近くでふわりといい香りがした。
「……っ」
「あれ? 初々根くんも帰り?」
「な、成沢!?」
成沢姫瑠。伊織の、期間限定の彼女。そんな彼女が、いつの間にか伊織の隣で嬉しそうに笑顔を振り撒いていた。
「ウチもここで勉強してたんだ。嬉しい、まさかこんな所で会えるなんて!」
「……」
まっすぐに向けられる、眩しいまでの好意。それに伊織がたじろいでいる間に、成沢の視線が伊織の手元へと向く。
「……初々根くん、傘ないの?」
「ああ、ない」
本当、最悪だ。伊織がそうごちると、成沢の顔がぱあっと明るくなる。
何だ? 俺が傘を持ってないのがそんなに楽しいのかよ。成沢の様子に伊織がそう口を開きかけたとき、成沢から予想外の言葉が飛び出した。
「ウチ、傘持ってるよ! でっかいから男子でも大丈夫! 良かったらこれ使って帰って」
「は」
「ウチは家すぐそこだから!」
成沢は、あろうことかそう言うが早いか伊織に傘を渡して大雨の中に突っ込んだ。
「つ、冷た!」
「おい馬鹿!」
伊織は慌てて傘を開き、成沢のもとへと駆け寄る。
「傘をちゃんと用意してた奴が濡れてどうする!」
「えへへ」
「えへへじゃない!」
まったく、なんて事を。そう怒る伊織に、成沢はまるでいたずらがバレてしまった子供のように笑う。しかし、伊織の怒りが本気であるのを悟って、間もなくしゅんと項垂れた。
「だって、初々根くんが濡れるの嫌だったんだもん」
「……」
「……初々根くん」
「……」
ごめんなさい。
成沢の言葉を黙って聞いていた伊織は、成沢の様子を見る。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「成沢が損してまで俺を助けるのは、俺は違うと思う」
「うん」
「そういうことされても、俺は嬉しくない」
「……うん」
成沢は、しっかりと伊織の言葉を噛み締めるように頷く。それを見た伊織は、やっと表情を和らげた。
「まず、俺たちは恋人同士なんだろ?」
「へ?」
「……ここは相合傘じゃないのかよ」
「え……えええええええええ!?」
伊織にしては和らげたと言えど、まだまだ仏頂面で。言われた言葉を理解した成沢は、あらんかぎりの声で叫んだ。
「い、いいいいい、いいの!?」
「……」
「……」
大雨のなか、2人で傘に入る。ちょっと濡れる肩と、反対側に感じる確かな体温。
流れる沈黙に、ただ雨だけが音を添えている。伊織は初日のそれより幾分か気まずさの薄れたそれに身を委ねていたが、ややあって口を開いた。
「身体、冷えてないか」
「うん。初々根くんのおかげで殆ど濡れずにすんだし!」
「お前な……」
元はと言えば俺が傘を持ってなかったせいで濡れたんだろ。
伊織がそう言うと、成沢はきょとんとした顔で目を瞬いた。
「……初々根くんってクールで格好良いと思ってたんけど」
「悪かったな、期待に添えなくて」
「ううん、格好良い上に優しいんだなって!」
「どこがだよ」
「……そういうとこ!」
そこまで言うと、成沢は不意に伊織の耳へ顔を寄せる。
「何だ!?」
「ねえ、初々根くん。知ってる? 雨のなかで相合傘してる時って、相手の声が一番綺麗に聞こえるんだって」
なんか、今なら分かるかも。
そう言って笑った成沢の声がいつもより綺麗なのかどうか、今の伊織には分からない。だけど。
成沢の伏せた目を縁取る睫の長さが、少し濡れた髪が、こちらに気を遣いながら動いているであろう仕草が。やけに伊織の目に焼き付いていた。
「まあまあまあ、どうしたの? 姫瑠ったら!」
図書館から程近く、まだ建ってそう年月が過ぎていないだろう一軒家の前。そこで伊織は、予想外のエンカウントに閉口していた。
(成沢の家……まで来るのはまあ当然なんだが、まさか成沢の母親と鉢合わせるなんて!)
成沢の母親が言う『どうしたの』が成沢が濡れている事へのものだと判断した伊織は、重い口を開く。
「……すいません。成沢さんはちゃんと傘を用意していたのに、俺に貸してくれようとして濡れてしまったんです」
「う、初々根くん!」
謝罪と共に頭を下げた伊織に、成沢が慌てふためく気配がした。
「……あら、貴方があの初々根くんなのね!? いいのよ、そんな!」
ちゃんと暖かくして過ごさせるわ。そう言って成沢と似た笑顔で答えた母親に、伊織はほっと胸を撫で下ろす。と同時に、伊織の事を知っているような口ぶりが引っ掛かった。
「ありがとうございます。……あの、俺の事をご存じなんですか?」
「知ってるも何も! 貴方が姫瑠の『すきピ』でしょう?」
「すきぴ!?」
「お母さん!」
姫瑠の事、これからもよろしくね。伊織と成沢が取り乱す中あっけらかんと笑う成沢の母に、伊織は確かに隣で叫ぶ成沢と同じ血を感じたのだった。