第2話 少年
翌日、午前は水くみや家の周りの草取り、畑作業などをこなす。
昼から昨日ギルドで受けた依頼にとりかかる。依頼内容は、町の西にある森で薬草の採取だ。
モンスターや盗賊が出ることもあるので最低限の軽装備をつけ、薬草採取に必要な道具一式をバックパックに入れて出かける。
半帽型の兜、鉄の胸当て、革の脛当て、つま先を鉄でガードしたブーツ。革の作業用手袋は、手のひらの部分がけば立たせたヤギ革になっており滑り止め効果が高く、非常時に剣を扱うには十分だ。
今回はそれほど森の奥に行くことはないので、盾はなしだ。剣はいつものロングソードを持っていく。
義手は、鎌持ち金具という作業用の手先具があるが、鎌で草刈りに行くわけではないので使い回しのきく曲鉤をつけていく。作業用義手は外観よりも機能と頑丈さに重点が置かれているので、農作業や冒険者の仕事に重宝している。ゴム製の装飾用義手は見た目だけで機能的ではないので、ウィルは最初から作っていない。
丘を降り町の近くまで行くと、町から東西に伸びる街道が見えてきた。整備された広い道だ。馬車がすれ違えるほどの幅がある。
街道を西へと進むと森に突き当たった。道は森の中へと続いている。そのまま街道を行けば森を抜け隣町へと行くことができる。
街道から森の奥をうかがう。木々の間から日が差し込み、作業をするには十分な明るさがある。通り抜ける風が、湿った陰鬱なにおいを運んでくる。静けさに慣れてくると、奥からざわざわと音がしているのに気づく。葉が風で擦れる音だが、ウィルには自然が人間を拒む音のように聞こえた。
森の中を少し進むと、何かが地面でうごめいているのを見つけた。生まれてそれほど日にちがたっていない鳥のヒナが地面に落ち、泥まみれになってもがいている。小さな翼が泥でぬらぬらと光っているのは、命の輝きなのか。このまま力尽きて死ぬのか、力尽きる前にヘビかキツネに食べられるのか。このヒナの生きた証は、ヘビの腹の中で溶かされて消えてなくなるのか。ヘビの一部として生きることが生きた証になるのか。
ウィルはそのまま通り過ぎた。助けることは自然のルールから外れる行為だ。
薬草がある地点へと着くと早速、仕事にとりかかる。
葉だけ採るもの、根を採るもの、キノコ。あるときはスコップを使い、あるときは剣で草をかき分け、採取したものを種類ごとに分けてギルドで受け取った麻袋に入れていく。
どんな依頼でも、なるべく依頼主の意向に沿うのが冒険者として最低限の誠意であり、無くしてはいけないプロ意識だ、とウィルは常に心がけ仕事をする。
気がつくと、予定よりも森の奥へ来てしまっていた。思ったよりも種類と数が多く、時間がかかってしまったようだ。
森から街道へ出て帰路につくころには日が水平線まで落ち、赤い月が街道を照らし始めた。
森に挟まれた街道は月明かりだけでは明るさが不十分なので、念のために持ってきておいたオイルランプをつけ、左手の曲鉤にぶら下げて進む。
街道を戻っていると何やら人影が見えた。さらに、人ではない形の影に加え、叫ぶような声も聞こえた。
ウィルは草陰に隠れながら足早に近寄ると、親子らしき二人が今にもゴブリンに襲われようとしているのが見えた。いや、もうすでに襲われている。
大人と思われる影は地面に座り込み、子どもと思われる影はそばに立っている。ゴブリンの影は、中型一体と小型一体の計二体だ。
比較的弱いとされるモンスターだが、暗がりでの視力は人間よりも上であり、凶暴な性格なので群れであれば厄介だ。
ウィルは無視してやり過ごそうと思った。自分の場所から確認できた数なので、他にもいる可能性がある。ヘタをすると自分の命も危ない。無駄に人と関わり合うと面倒が増えるだけだ。
しかし、そう思った直後、助けるべきだと心の奥から声がした。いや、そんな気がした。わずかに残った良心か、それともアンナが望んでいるのか。自分の命などあってないようなものだ。いつ死んでも構わない。そんな考えが湧き上がってくると、ウィルの戸惑いはなくなった。
いくら他人と深く関わらないようにしているといっても、見殺しにするわけにはいかない。自分も殺されるのならそれでいい。無事に助けることができたら、名乗らずさっさと去ればいい。
ウィルはランプとバックパックを地面に置くと、駆け寄りながら剣を抜く。そして素早く状況を判断する。どちらを先に仕留めるか。
ウィルは素早く中型のゴブリンに背後から近づき、背中を斜めに切りつけた。ゴブリンは叫び声を上げながら倒れた。
小型のゴブリンが叫び声に気づいてウィルの方を見ると、棍棒を構えた。
ウィルは一気に斬りかからず、他に潜んでいるゴブリンがいないか周りを警戒する。しかし、どこからも他のゴブリンは出てこない。群れではないなら勝算はある。
ウィルは腰を低くして剣を構えながらジリジリと間合いを詰め、鋭く睨んで殺気を強める。ゴブリンは二歩、三歩と後ずさると、踵を返して森の中へと逃げて行った。
ゴブリンが不意打ちで戻って来ないか様子を確認してから、ウィルは構えを解いた。仲間を呼びに行って戻ってくる可能性は低いと判断した。
親子の様子を見た印象では、ゴブリンが執拗に追い回したがるような獲物には見えなかったからだ。ゴブリンはウマやロバ、ヤギなど家畜を連れていると好んで襲う傾向があるが、親子は家畜を連れていない。
ウィルは剣をしまうと、二人の無事を確認したらすぐに帰ろうと思い振り向いた。
二人はエルフのようだ。父親と思しき男性が腹から血を流して横になっている。どうやら刺し傷のようだ。すぐ横には十代前半くらいの少年が心配そうに座っている。少年は無傷のように見える。
男性の傷は明らかにゴブリンの棍棒によるものではない。ということは、ゴブリンに襲われたわけではなさそうだ。それに、二人の周りには手荷物も何もない。ウィルは状況を飲み込めず少し戸惑った。このまま去るべきか。しかし、残ったとしても、手当をするにも何も持ってきていない。
男性がウィルの方を見て何か言おうとしている。少年の顔は不安そうで、目が潤み今にも泣き出しそうだ。
ウィルは男性のそばに行って片膝をつく。男性はしゃべろうとしたのか、呼吸を大きく吸うと激しく咳き込み血を吐いた。
男性の呼吸がヒューヒューゼーゼーと音をたて、何をしゃべっているのか聞き取れない。
男性がウィルの腕を力強くつかんだ。もうすぐ死ぬ人のどこからこんな力強さが湧いてくるのだろうかとウィルは思った。
ウィルは男性の口元に耳を近づけた。男性はしばらく激しい呼吸をした後、
「……む、息子を……たの……む……」
と言うと、しだいに呼吸がゆっくりになり、そして止まった。
少年が泣きながら何度も「父さん」と叫びながら息を引き取った父を揺らす。
ウィルは開いたままの男性のまぶたを手で閉じた。身分がわかるものは何かないかと男性の上着の内ポケットを探ると、封筒が入っていた。手紙か何かだろう。少し血がついている。少年に渡そうとするが、少年は座り込んで泣きじゃくっておりウィルの差し出す封筒は見えていない。
ウィルは少年の膝に封筒を乗せると、立ち上がって自分の荷物を取りに行く。
助けなければ、あの少年も父親と一緒に死ぬことができたのに、とウィルは後悔した。
昼に見た鳥のヒナとアンナの美しい死に顔がウィルの脳裏にフラッシュバックする。少年・父親・ヒナ・アンナ、どの命が一番重いのか。命の重さに差はないのか。なぜヒナは助けず、少年を助けたのか。なぜ少年の父親とアンナは助からなかったのか。
ウィルは自分の荷物を回収し、何も言わずにその場を去った。しかし、少年の泣き声は距離を保ったまま遠ざからない。後ろを一瞥すると、少年が後ろをついてきている。ウィルは立ち止まり、振り向かず言った。
「自分の町へ帰れ」
「帰る場所なんて……ない」
「父親は死んだが、母親がいるだろ」
「母さんは……僕が小さい頃に病気で……死んじゃった」
「……」
ウィルは何と言葉を返したらいいのかわからない。
「盗賊に襲われて、荷物もお金も全部盗られて、父さんが……。そしたらモンスターも来て……」
ウィルは父親の傷の原因を理解したが、だからといって何かができるわけではない。
「地元の近所の人が助けてくれるだろ。孤児院にだって入れる。あわよくば養父母を見つけてくれる」
突き放すように言うと、ウィルは再び歩き始めた。しかし少年はついてくる。ウィルが立ち止まると、少年も止まる。
「なぜついてくるんだ」
「強く……なりたい」
泣きながら少年は言った。
「強くなってどうする」
「わかんない……けど……強くなりたい」
「強くなりたいなら泣くな。それができないなら、俺がこの手で両親の元へと送ってやる」
ウィルは剣を抜き少年の方を向く。少年はウィルの剣を見ると、手を強く握り身をこわばらせる。拭かれることのない涙は顔を伝い地面へと落ちる。
親が亡くなった人にこんなことを言っても無駄なことだとウィルはわかっている。しかもまだ年端もいかない少年に。それでもウィルは少年に力強く言う。
「強くなりたいのなら一人で町まで帰り生きろ」
男だから強くあらねばならないということはない。強くあるだけがその人の価値ではない。現に、ウィルは人を避けるようにして生きている。逃げているだけ。強くなどない。ウィルは自分で言った言葉が空虚に感じられた。しかし、それ以外に言葉が思いつかなかった。
ウィルは剣を鞘に納め再び歩き出す。それでもついてくる少年。立ち止まるウィル。少年も止まる。
「エルフならなんとか生きていけるだろ」
「僕はエルフじゃない。人間でもない。ハーフエルフなんだ……。エルフからも人間からも受け入れられない。どこにも帰る場所なんてない」
ウィルはハーフエルフという言葉を聞き鼓動が早くなった。左腕の古傷がうずく。泥まみれのアンナの顔がフラッシュバックする。もし彼女が生きていたら、子どもはこの少年くらいだろうか。その子も同じように、人間からもエルフからも受け入れられないと悩んでいただろうか。
「きっと、どこかに、理解してくれる人が……」
自分の言葉を聞いて虚しい言葉だとウィルは思った。夢にあふれていた二十歳の頃。ハーフエルフに対して差別なんてないと思っていた。皆、当たり前のように自分の苦境を理解してくれると思っていた。しかし、疫病神だと忌み嫌われ、そしてこの少年の境遇が現実だ。
「理解? そんな簡単じゃない。僕は……呪われているんだ!」
少年がシャツをめくって背中をウィルに向けた。少年の右の肩甲骨のところに、黒い翼のようなアザが月明かりに照らされて見えた。まるで左側の翼をもぎ取られた堕天使のようだとウィルは思った。
「僕は生まれながらに呪われているんだ! このアザのせいで……。だからもう死にたい。お願い……僕を殺して」
かつて五十年ほど前までは悪魔狩りというものが行われており、体に大きなアザやイボ、ホクロがある者は悪魔と契約をしたと言われ、老若男女が異端審問官によって悪魔裁判にかけられ処刑された。中には乳飲み子まで処刑されたといわれる。
現在は悪魔裁判などなくなったが、地方ではいまだに名残があり、体にアザやイボがあると差別やいじめの対象になることがある。
自分が望んだわけでもない生まれもっただけのアザが、よりによって悪魔の翼の形のように見える。
時代や国が違えばただのアザなのかもしれない。しかし、この国の社会にとってはかつて悪魔と呪いの象徴であった事実を覆すことはできない。
「ただのアザだ」
少年にとっては無意味な言葉だとわかっていても、ウィルにはそれ以外にかける言葉が思いつかない。
「僕は呪われているんだ。生まれちゃいけなかったんだ。母さんの代わりに僕が病気で死ねばよかったんだ。父さんの代わりに僕が殺されればよかったんだ」
普通の人ならこんなとき、どんな言葉をかけるだろうか。ウィルは言葉をひねり出す。
意味のない経験なんてない。すべての痛みや苦しみには意味があるはずだ。
だったら今の自分の境遇は何なのか。自分の人生に意味なんて見いだしたくない。ただ心地がいい言葉なんて、逆に苦しむだけだ。
死ぬなんて考えたらダメだ。君には生きる価値がある。
相手が子どもとはいえ、どんな思いをして生きてきたかも知らないのに、そんな無責任なことなど言えない。
普通の人と同じ生活をしていないのだから、普通の言葉をかける必要はないのかもしれない。だからといって、かける言葉が見つかるわけではない。
「その答えは、死ぬときになってからわかればいい」
ウィルはぼそりと言った。自分に向かって言うように。そして、
「俺の歩く速度は早いぞ。遅れるな」
抑揚なく淡々と言った。
下を向いて涙を流していた少年は、涙も拭かずにウィルを見る。ウィルは少年に背を向けたまま歩き始めた。
「うん」
少年がすぐ後ろまで小走りで来たのを足音と気配で察知したウィルは、少年が付かず離れずついて来られる速度で歩く。
少年の泣く声は聞こえない。もう涙は拭いたのだろうか。襲われて怪我をしたところはないだろうか。足は痛くないだろうか。名前をまだ聞いていなかった。まだ名乗っていなかった。
ウィルはいろいろなことが気になったが、振り返らず、少年の足音を聞きながら家まで止まらずに歩いた。