第1話 隻腕の疫病神
暖かな春の日差しは、農作業をする男に汗をにじませる。時折、山から吹き下ろす少し冷たい風が男には心地よく感じられた。
丘の斜面に沿った段々畑で一人、黙々と鍬で土を耕している男の左腕は、肘から下が作業用義手だ。
鍬持ち金具という作業用の手先具で、鍬の柄をボルトで固定する構造になっている。不自由なく慣れた様子で作業をこなす。
自由気ままな一人暮らしなどではない。やらなければいけないことが多く自由な時間などほとんどない。
朝起きたら火をおこす。近くの小川まで水くみ。調理、洗濯、掃除。畑や家の周りの草を刈る。薪割り。雑木林でたき木拾い。
左腕がない生活には慣れた。自ら選んでこの生活を送っている。普通の生活。同じことの繰り返し。男は生活に喜びを感じていない。しかし絶望しているわけでもない。何も考えずただひたすらに、生きるために生きている。
午前の農作業を終え、すぐ近くにある家へと戻る。
小高い丘の中腹にある古びた白い家。入ってすぐリビング兼ダイニングとキッチン。残りの部屋は寝室、物置代わりに使っている部屋、何も使っていない部屋。独りで暮らすには広すぎるくらいだ。以前住んでいた人は、家族で酪農か農業でもやっていたのかもしれない。
外壁も内壁も漆喰が塗られているが真っ白ではなく、何年も経ち色はくすんでいる。所々、補修した場所が少しだけ他より白く見える。無垢材の床と家具だけが木の色をそのまま残して佇んでいる。
レースカーテンから入る陽の光が床や壁に当たり、静かに暖かくゆらめいている。窓の外は代わり映えのしない退屈な景色。いつもと同じ木。いつもと同じ空。それだけ。
あの日から十三年。ホープタウンの北にある人里離れた丘で、ウィルは独りで暮らしている。
ドクロの丘と呼ばれている。その昔、この丘には草木が生えておらず頭がい骨のような形に見えたことから、そう呼ばれるようになったらしい。罪人を処刑したという真偽不明の言い伝えがある。処刑の名残などどこにもなく、現在は草木も茂り、シカや野ウサギなど野生動物も生息しているが、縁起が悪いといって誰も近づこうとしない。
隻腕になって収入がなくなり、行くあてがなくさまよっていたとき、何年も誰も住んでいないこの家があるのを思い出した。以前の住人は呪われて亡くなったといううわさ話をウィルも聞いたことがある家だ。
誰も近づかないことがわかっていたし、駆け出しの冒険者のときに腕試しで何度も通っていたので地形を熟知していたこともあり、人目を逃れられるのでウィルには好都合だった。
丘の北側は、町の東から北にかけて連なるルシフェリオにつながっているが、あるのは獣道だけだ。ルシフェリオにある整備された山道は、東にある都会へ行くものしかないので、わざわざ山の北側に来る人など誰もいない。
ダイニングテーブルにつくと、義手の手先具を曲鉤というカギ爪のような形をしたものに付け替える。押さえる、引っ掛けるなど簡単なことならできる。日常生活はこれで十分だ。というか、これしか選択肢がない。
日が暮れる前に丘を降りて町へ買い出しに出る。歩いて町へ向かっていると、ウィルはたまにふと思い出す。
あの日、意識を失ってから仲間が助けに来てくれたおかげで、命が助かった。アンナはすでに亡くなっていたそうだ。遺体の損傷が激しく見るも無惨だったらしい。泥で汚れているのになぜか美しく見える横顔しか、ウィルは思い出せない。
ウィルが病院のベッドで意識を取り戻すまでに、アンナはすでに火葬され一キログラムの灰になっていた。一輪の白百合の模様が入った簡素な骨壷。ウィルが最後に見たアンナの姿だ。
仲間は隻腕になったウィルとは一緒に冒険者の仕事ができないと言って、都会へ行った。ウィルも仲間の足手まといになりたくなかったし、彼らの顔を見るとアンナを思い出すから一緒にいたくなかった。
アンナの遺灰は彼女の故郷の村の近くにある、彼女が好きだった花畑に散骨するということで、仲間が持っていった。
ウィルの手元に残ったのは、あの日、ほんの数時間だけアンナの薬指にはめられた指輪だけ。ダイニングの戸棚の奥にしまわれたままだ。
ひとりこの町に残された。いや自分から残った。残るしかなかった。新たな町で一からやり直す気力がなかった。
恋人も仲間も、そして左腕も失った。冒険者として仲間にしてくれる者もおらず、町には居場所がない。人目をはばかるようになり、この丘で自給自足の生活をするようになった。
取り立てて特別なことなどない、ありふれた生活。悟ってなどいない。心を乱されたくないだけだ。もしかしたら、現実から逃げているだけなのか。「だからどうした」。ウィルは自分に言い訳をするように心の中でつぶやく。他人に迷惑をかけているわけでもない。
町へ着くと、雑多な日用品を購入して回る。あとは、保存のきく硬いパンや干し肉など、自給自足で得られる野菜以外の食料を少しばかり。どの店でも店主は素っ気ない対応だ。なかには嫌そうな顔を隠そうともしない人もいる。
しかし、ウィルはそんなことなど気にせず淡々と買い物をしていく。
小さな町だが最低限のものは一揃いあり、生活に困ることはない。購入したものは、革のバックパックか麻の手提げバッグに入れる。麻の手提げは義手に引っかける。
ウィルは腰にくくりつけた巾着袋を開け、わずかばかりの硬貨しか入っていないのを確認すると、町の冒険者ギルドがある方へ向かって歩き出した。
町が運営している公営の冒険者ギルドだ。木造二階建ての大きな建物には『シルバー・ライニング』と書かれた木製の看板がかかっている。
扉を開けると、丸い天板のスタンディングテーブルがいくつも置かれた広間があり吹き抜けになっている。十人ほどの冒険者たちが各テーブルの周りでガヤガヤと話し合っている。
ウィルがギルドの中に入ると、中にいた冒険者たちが一斉にウィルの方を見て、すぐに顔をそらしヒソヒソと話し始めた。
ウィルは気にせず広間の右へと行く。広間の右の壁一面はコルクボードが貼られており、いくつもの紙がピンで留められている。一枚一枚にそれぞれ依頼が書かれている。
コルクボードは三つに区切られており、手前側の上には『ブロンズ』、真ん中の上には『シルバー』、一番奥には『ゴールド』と書かれた板が貼り付けてある。冒険者のランクによって受けられる依頼が分けられている。
ウィルは手前の『ブロンズ』のところに行き依頼の紙を見る。こんな小さな町でも冒険者が食いっぱぐれない程度の依頼がある。
とはいえ、低ランクの依頼は冒険者らしからぬものも多い。「庭の草むしり」「薪割り」「森を抜けた隣町へ手紙を届ける」など。単価の安い町の人の困りごとや雑用ばかりだ。
ランクが上がれば、道案内や護衛の依頼もある。よその町から来た商人が、西の森や東の山を越えるために依頼をする。ウェイストップと呼ばれる町では、大半がこの依頼だ。馬や馬車に積んだ荷物も護衛の対象になるので、二人以上のパーティーを組んでいるのが条件だ。
モンスター退治の依頼はランクを問わずあるが、低ランクは弱いモンスターしかない。危険を伴うため、これも二人以上のパーティーを組んでいなければ受けられない。
ウィルは一人でも受けられる依頼を探す。一枚の紙を取ると広間の奥にあるカウンターへと持っていく。カウンターには三人の女性が座っており、左側と真ん中にはすでに他の冒険者がいる。
カウンターの奥では、一人のメガネをかけた中年男性と、三人の女性が忙しそうに事務作業をしている。
ウィルは空いているカウンターへ行き、窓口の女性に紙を差し出す。女性は紙を受け取ると、
「薬草の採取の依頼ですね」
と言い、カウンターの奥に設置された、たくさんのひきだしがある木のチェストまで行き、一つのひきだしから一枚の紙を持ってきた。
ウィルが紙を受け取ると、女性は依頼の説明を始める。
「薬草調合師のロアさんからの依頼で、西の森にある薬草を採取してくるという内容です。採取する薬草の種類は、って、いつもやってらっしゃるから、わかってらっしゃいますよね。そちらの紙に書いてあるとおりです」
薬草を採取できたらギルドに納品すればいい。品物を確認してもらったら、すぐに現金で報酬を受け取れる。
依頼主に直接納品し、この紙に依頼完了の確認としてサインを書いてもらい、ギルドにサインした紙を提出しても報酬を受け取れる。
居るかどうかもわからない依頼主宅まで届けるのは面倒だ。何より、町の人と余計な関わりをもちたくない。ギルドに納品すると品物を確認する手数料を取られるが、面倒な関わりをするくらいならカネを払ったほうがマシだ、とウィルは思っている。
ソロで活動するブロンズランクのウィルが受けられる仕事は少ないが、ギルドの仕事は現金収入が得られる貴重な仕事だ。
以前はシルバーランクだったが、左腕をなくし、仲間もいなくなったこともあり、ブロンズランクに格下げされた。当時は、どうにもならない状況にやり場のない怒りを覚えたが、今はもう悔しいとさえ思わない。
ウィルはこの依頼を受けることを女性に伝え、書類にサインをした。薬草を入れる麻袋を受け取ると、バックパックの隙間に詰め込んだ。
広間の真ん中を歩き出入り口へ向かう。
周りの冒険者がウィルに聞こえるように話し始めた。
「迷子のネコを探す仕事でも受けたのか? それとも、落とし物を探す仕事か?」
「落とした左腕を探す仕事でも受けたんだろ」
「そうに違いねえや」
ギルド内の冒険者たちからゲラゲラと笑いが起こった。
ドラゴンの血には不思議な魔力があり、飲んだり浴びたりすると呪われるという昔話や言い伝えがいくつもある。
愛を誓ったその日に恋人を亡くしただけでなく左腕を失い、ドラゴンの血を浴び、さらに仲間も去っていったウィルのことは、小さな町では瞬く間にうわさとなった。それ以降、隻腕の疫病神と呼ばれ忌み嫌われるようになった。
危険な仕事が多い冒険者は験を担ぐ人も多く、不吉な要素を極力排除したいと考える。ウィルを冒険者パーティーに入れようとする人は誰一人としていなかった。
町では買い物するだけでもあからさまに嫌がる店主もいる。丘で野ウサギでも獲って売れば少しは現金収入になるかと思い、ウィルは一時期、罠猟をやったこともあった。しかし、どの店も「不吉な肉などいらない」と言って買い取ってくれなかった。自分で食べるにも、片手でしめたりさばいたりするのはひと苦労だ。罠猟もすぐにやめた。
あの日以来ウィルは、町の人たちが「あいつは呪われている」と口をそろえて言うように、事実、呪われたような生活をしている。
町に住む人間にはろくなヤツがいない、関わるだけ時間の無駄だ。関わったところで何の利益もないどころか、ロクなこともない。心の中でそう思いながら、ウィルは無表情でギルドの中を通り過ぎた。
気づくと、ギルドの出入り口に五十代くらいの大柄の男が立っていた。ギルド長のコンラッドだ。頭には白髪が目立ってきている。現役を退いているが、ギルドの皆からは親方と呼ばれ頼られている。
コンラッドはウィルに気さくに声をかけてきた。
「バカどものくだらない言葉なんか気にしなくていいぞ」
「いつものことだから、べつに」
コンラッドだけが唯一まともに声をかけてくれるが、ウィルの目には悲しさも怒りも何の感情もない。冒険者たちの言葉もコンラッドの言葉も、聞き流すようにしてウィルはギルドを出た。
家に着くころにはもう日が暮れてきたので、受けた依頼は明日やることにした。晩飯を食べてから、明日の仕事の準備をして床についた。
いつものように眠れない夜。ウィルはいつも同じことを繰り返し考えてしまう。
アンナと左手を失ったことを受け入れるのに十年かかった。いや、いまだに受け入れることができていないのかもしれない。朝起きたらこれまでのことはすべて夢で、左腕があるのではないか。そして、アンナが横で眠っているのではないか。そんな淡い期待を抱く日がいまだにある。
形見の指輪を捨てられずにいる。これを捨ててしまうと、アンナの存在ごと捨ててしまうことになるのではないか。これまで愛した事実さえも消えてしまう気がした。
しかし、取り出して見ることもできない。せっかく忘れたことをすべて一瞬で思い出してしまい、これまでの十年が水の泡となってしまう気がした。棚の奥にしまい込んだまま一度も出せないでいる。
最愛の人を亡くしたとき、神も死んだ。神なんて信じない。魂は不滅? どこにあるんだ? その魂とやらは。先に逝った人は誰もあの世なんかで待っていない。死んだら終わりだ。何もかも。
なぜ自分だけ生き残ったのか。こんな無様な状態で生きる理由などあるのか。死んだほうがいいのかもしれないと思うが、なぜか具体的に死ぬ準備はできないでいる。この世に未練があるのか。自分が気づいていない生きる理由があるのか。
ベッドに横たわるウィルを夜の闇が包んだ。