プロローグ
――神は死んだ。いや最初から神なんていなかったんだ。なぜ俺は生きているんだ。――
日が暮れ始め、暗くなった山中に身を刺すほどの冷たい雨が降りしきる。だが、あおむけに倒れている男は冷たさを感じていない。それどころか、雨が体に当たっていることさえも感じない。
仲間であり恋人のアンナがすぐ横に倒れている。助け起こしたいが、男には起き上がる力さえ残っていない。いや、たぶんもう死んだと薄々わかっているから、起き上がる気力が湧かないだけかもしれない。
――自分の中から消え去った神とともに、これから自分も死ぬのか。どうしてこうなったんだ。――
男は心の中で愚痴る。口に出す気力もない。
男は薄れる意識の中、今日のことがフラッシュバックする。
◇
「俺たち結婚することに決めたんだ」
ウィルは意を決すると仲間に打ち明けた。
小さな町の大衆食堂の四人掛けの席で、人間の男が二人とダークエルフの男一人、エルフの女が一人、少し遅めの朝食を囲んで座っている。
窓の外では太陽が徐々に高くのぼり始め、人がまばらな町のメインストリートは少しずつにぎやかになってきた。外とは打って変わって、店内は朝の混雑のピークを越え少しずつ客が減り始めている。
「ついに決心したか」
ウィルの向かいに座るダークエルフの魔法使いモリスは、腕組みをしながら笑顔でうなずいている。
「まさかお前とアンナが一緒になるとはな。てっきりアンナはモリスと一緒になるものだと思い込んでたぞ。とにかく、おめでとう!」
モリスの隣に座るラルフは驚いた様子だ。タンクの役割を担うガッシリとした体格で、いつもはキリッとした目尻が下がっている。心から祝福してくれているのをウィルは感じた。
「僕は薄々わかっていたから、いつ報告してくれるのかと思ってたんだ」
「知らなかったのはオレだけか!」
モリスが知っていた事実に、ラルフは両手で頭を抱えオーバーリアクションで天井を仰ぐ。そんなラフルを見て三人から笑い声があがる。
「人間とエルフだからいろいろと困難があるかもしれないけど……」
モリスは途中までしゃべって言いよどんだ。
エルフが人間と共生するようになって三十年近くになり、お互いの差別意識はほぼなくなってきたが、ハーフエルフはいまだに差別的な扱いを受けることがある。都会では差別をやめようという意識が広がり始めているが、小さな町ではまだそこまでの意識が広まっていない。
「でも、二人の愛があれば、どんな困難だって乗り越えられる。もし子どもができたとしても、きっと俺たちの子どもなら一緒に乗り越えられる。なっ!」
「ええ。きっと大丈夫。いえ。ぜったい大丈夫」
ウィルの横に座るアンナは、ウィルの言葉を聞いて確信をもったように、そして自分に言い聞かせるように力強く言った。
「式はどうするんだ? それに指輪も」
モリスは雰囲気を変えて明るく言ったが、まだ少し心配そうな雰囲気が混じっている。
「まだ二十歳だぜ? 指輪を買うカネなんてないよ」
「指輪なんていいのよ。ウィルと一緒にいられればそれで幸せだから」
ウィルの開き直った言い方に、アンナは理解を示すように明るく振る舞う。
「町の教会で安く式を挙げるにも、やっぱり指輪がないのにやるわけにはいかないだろ。式を挙げる代わりに、これから二人でルシフェリオの山頂に行こうと思ってるんだけど」
ウィルはアンナを見つめると、アンナもウィルを見つめ返した。
町の東から北にかけて連なる山ルシフェリオは、この地域では畏敬の念を込めて聖なる山と呼ばれており、山頂のとある場所で願い事をするとかなうという言い伝えがある。それが転じて、恋人同士が愛を誓うと永遠の愛で結ばれる、と言われるようになった。
「それは急だな。今からなら間に合わないことはないけど」
モリスはいつも心配が先にくるきらいがある。
「今日はギルドの依頼はないからいいんじゃねぇか。っていうか今気づいたけど、どうりで戦闘でも連携がバッチリなわけだ」
ラルフはいつも先のことをあまり考えない。
「わたしたち二人なら大丈夫でしょ? 四年も一緒にやってきてるからね」
アンナは二人の話をまとめるのがうまい。
モリスの冷静さと、ムードメーカーのラルフ、信頼のおけるアンナ。ウィルはそんな三人の様子を見て、改めて心強く感じた。
同年代の四人は、地元の冒険者ギルドに所属し冒険者として活動している。
西の森を抜けた先にある少し大きな町と、東の山を越えた先にある都会の真ん中に位置する小さな町。ホープタウンという名前があるが、町の外の人たちからは中継地点として利用する以外に何もない町だということで、スモールホープタウンもしくは、ウェイストップと呼ばれている。
四人は冒険者のランクが一つ上がり稼業として軌道に乗り始め、ようやく一人前として認められたと自信を深めている。しかし、小さな町ではあまり大きな仕事がない。もう少し経験を積んだら都会へ出て、もっとたくさんの仕事を受けよう。そして、全国に名を轟かせるような有名な冒険者になろう、と夢を語り合っていた。
朝食を終え出発するウィルとアンナを、ラルフとモリスが町の門まで見送る。
「気をつけてな。『神が住む山』とか『聖なる山』と呼ばれているけど、モンスターも出るからな」
「討伐とかの依頼じゃないし。誓いをしたらすぐ返ってくるから大丈夫だよ」
モリスを安心させるようにウィルは言った。
「夕方から天候が悪くなるかもしれないから気をつけろよ。ランブルに会わないようにな」
ラルフが冗談めかして言った。
聖なる山に棲むドラゴンのランブルは、山の主とか厄災などと言われ恐れられている。また、畏怖の念から山の守り神として崇めている人もいる。
先輩冒険者たちは「晴れているのにガラガラ、ゴロゴロという雷のような音を聞いたら近くにいるから気をつけろ」「天気が悪くなると雷と鳴き声を聞き間違えないよう気をつけろ」と警告する。
遠くから目撃したことがある人たちの証言では、小型低能種のドラゴンのようだ。しかし、人間が一人二人で戦って勝てる相手ではない。小型といっても人間より大きく、知能もそこらのモンスターよりはるかに高い。
「天気が悪くなる前には帰ってこれそうだから大丈夫よ。幸せなわたしたちをひがんでるの? あまり不安にさせないでよ」
ラルフの見送りの言葉をアンナはからかうように返した。
「ゴメンよ。そんなつもりはなかった。心配になったからつい」ラフルはいつも正直だ。「大事なことを確認するの忘れてた。俺たちとパーティーは続けるよな」
「当たり前だろ。ずっと一緒だ」
ウィルは右手の拳を突き出して答えた。ラフルも拳を出しウィルの拳に合わせた。
モリスとラフルに見送られ、ウィルとアンナは町を出ると聖なる山ルシフェリオへ向かう。
探索してモンスター退治をするわけではないし、モンスターも人間を警戒して積極的には山道に出てこないので軽装備で大丈夫だ。バックパックには、少しばかりの傷薬や解毒薬などのアイテム、水を入れた革水筒などが入っている。
鎧は簡素な金属製の胸当てに、革製の脛当てと小手。兜も簡素な半帽型で側頭部や後頭部をガードする機能はない。盾も小型のラウンドシールドで、裏側に二本の革ベルトがリベットで固定してあり、一本に左腕を通し、残りの一本を左手で握る。
ウィルの武器はロングソード。いつもの愛用品だ。アンナはショートソード。弓矢のほうが得意だが、かさばるし今回はモンスター退治ではないのでこれで十分だ。
ルシフェリオは地元で一番大きな山だ。初心者であれば三時間くらいで山頂に着くことができる。冬で日が沈むのが早いとはいえ、慣れた二人なら日が沈むまでには戻ってこられる。
厳冬を過ぎたばかりで風はまだ冷たいが、日に日に高くなる日差しは暖かさを帯びてきており、春が徐々に近づいてきているのをウィルは感じた。
山を登り始めると徐々に曇ってきた。天気が好転するのを願いながら山頂を目指す。
そして、何事もなく山頂に到着した。
山頂から少し下って木のトンネルになった道を抜けると、崖になっている場所に出た。その崖から平らな岩が突き出ている。岩が崖から突き出すそのさまは、まるで六対の天使の翼が連なって宙に浮いているように見えることから、『十二の翼』と呼ばれている。願いごとがかなうと言われている場所だ。
ウィルとアンナは装備を外し、手をつないでゆっくりと『十二の翼』の上に立つ。ちょうど雲が切れ、眼下には絶景が広がった。
西を見ると、ホープタウンが手のひらの大きさに見える。町の南は崖のように切り立った海岸線だ。町の西には森が広がり、その先にさらに小さく町が見える。
東を見ると、港町として栄えている城下町が見える。町の南の港にはたくさんの船が停泊し、北には大きな城が町を見下ろすように立っている。
冒険者になりたてのころ、自分たちが住む町は漠然と小さい町だとは思っていたが、初めてここに立ったとき、世界は広く、町はスモールホープタウンであると気づいたことをウィルは思い出した。
ウィルはポケットから小さな箱を取り出しひざまずく。箱を開くと指輪が入っている。アンナにサプライズで用意した指輪だ。
安物だけど、少しずつ貯めたお金で買ったものだ。シルバーのリングにつけられたくぼみには、小さなダイヤがひとつはめ込まれている。
小さな町で売っている指輪なんてたいした物はない。それに、まだ二十歳そこそこの名もなき冒険者が貯められる金額などたかが知れている。豪華なダイヤの指輪など売っていたとしても買うことなどできない。
ウィルは改めて「俺と結婚してください」とプロポーズした。
「喜んで」
アンナは満面の笑みで答えた。
ウィルがアンナの薬指に指輪をはめると、二人は永遠の愛を誓い合った。
「わたしからもウィルにサプライズがあるの」
不意にアンナが言った。
「なんだい?」
「赤ちゃんができたみたい。もちろん、あなたの子よ」
「ほんとか!」
ウィルはアンナの手を握ったまま飛び上がってよろこんだ。着地してから崖の上にいることを思い出し、バランスを崩しそうになってアンナに抱きついた。
二人はそのまま互いの愛を確かめるように抱き合い口づけをした。凛とした冷たい風は抱き合う二人の体を冷やすことはなく、お互いの体温をより強く感じさせた。
帰り道、しだいに空が厚い雲に覆われだした。天候が悪化すると、ふだんは出てこない凶暴なモンスターが出てくることもある。
「早めに帰ろう」
ウィルはアンナに声をかけると早足で進む。アンナも遅れないように進む。
雨がパラパラと降り始めた。水気を含んだ地面が所々ぬかるんでくる。地面に埋まっている石の部分が湿って滑りやすくなってきた。山は暗くなるのが早いうえに雲がかかっているのもあり、徐々に薄暗くなって気温も下がってきた。
焦り始めたウィルは片側が急斜面になった細い道を急いで渡った。すると、後ろでアンナの「キャッ」という声と共に、石がゴロゴロと転がるような音が聞こえた。振り返るとアンナの姿がない。アンナがぬかるみに足を滑らせ、坂の下に滑り落ちてしまったようだ。ウィルは急斜面の下をうかがうが茂みのせいでよく見えない。
「大丈夫か!」
下に向かって叫ぶが返事がない。
いつも一緒に依頼をこなしているから、角度は急だがこれくらいの坂なら一人で登って来られるはずだ、とウィルは思いしばらく待った。しかしアンナはなかなか登ってこない。
もう一度「大丈夫か」と声をかけるが、アンナからの返事はない。
足でもくじいたか、それとも体を打って腰を痛めたかとウィルは心配になり、自分もケガをしないよう滑り降りようとした瞬間、アンの悲鳴と共に獣のような鳴き声が聞こえた。
ウィルは急いで滑り降りた。下まで着くと花の甘い香りが辺りを包む。足元を見ると、小さな白い花が群生している。どの花も下を向いて咲いている。
せっかく咲いているのに、何でわざわざ下を向いているんだ。しかもこんな寒い時期に。陰気な花だ。ウィルはそう思うと、花の甘い匂いで胸焼けがするような気がした。
それよりもアンナはどこかと辺りを見回すと、数メートル先に巨大な動くものが見えた。本格的に降り出した雨で煙るなか、ウィルはよく目を凝らすと形をはっきりととらえた。ドラゴンだ。ランブルと呼ばれ恐れられているあのドラゴンだ。
小型といっても体長は大人の人間の二倍はある。尻尾も体と同じくらいの長さがあり力強くうねっている。
大きな後ろ足で二足歩行。発達した後ろ足に比べ前足は小さいが鋭い爪をもっている。体に比べて翼はそれほど大きくなく、退化して飛べない種類なのかもしれない。
ランブルの口に見覚えのある姿があった。アンナがランブルの口にくわえられている。
ランブルからガラガラと雷のように喉を鳴らしてウィルを威嚇する。ウィルは我を忘れ叫びながらランブルに斬りかかった。
ランブルが口を開け激しい鳴き声をあげると、空気がビリビリと振動した。アンナの体が泥人形のように地面に落ちてドサッと鈍い音がする。
ウィルはランブルの懐に入り込もうと駆け寄る。左の視界に何かが飛んでくるのをとらえ、とっさに盾を構えたがほとんど意味がなかった。尻尾のなぎ払いの衝撃はすさまじく、もろにくらい体ごと弾き飛ばされた。
あおむけに倒れ込んだウィルへ噛みつこうとランブルが襲いかかる。
ウィルは盾でガードしようとまだ痺れる左手を出すが、手には革ベルトしか握られていない。尻尾のなぎ払いの衝撃で、革ベルトと盾を固定していたリベットが外れてしまったようだ。
「盾が! チクショウ!」
ウィルが叫ぶと同時に、そのまま左腕をランブルに嚙みつかれた。その大きな口は、たとえ盾があったとしても小さな盾ごと嚙みつかれていただろう。
このまま食われてたまるかと、ウィルは剣をランブルの左目に突き刺した。ランブルが叫びながら大きくのけぞると、ウィルの左腕が食いちぎられる。
ランブルがのけぞった勢いで剣が抜け、倒れているウィルの頭の近くの地面に突き刺さる。と同時に、吹き出した血がウィルに振りかかる。ランブルの血なのか、食いちぎられたウィルの左腕の血なのかわからない。いくらかウィルの口の中にも入って飲んでしまい咳き込んだ。
ウィルはランブルの追撃を警戒しながら上半身を起こす。しかし、ランブルは暗がりの中へと去って行った。
左肘の下から半分以上がなくなったが左腕に不思議と痛みはない。地面に転がっている盾の近くに革ベルトが落ちている。
ウィルは革ベルトを拾い上げる。傷口を止血するため、右手と口を使って革ベルトで左腕を縛り上げると激しい痛みが襲った。歯を食いしばり、うめき声を上げてこらえる。
ふらつく足でアンナのもとへ行く。アンナは胸から腹にかけてランブルの鋭い爪で深く切り裂かれており、肉がえぐれ内臓が見えている。青白い顔をしたアンナの横に両膝をつき必死に呼びかけるが、返事はない。意識があるように見えない。意識だけではない。呼吸もしているようには見えない。もう命が宿っていないように見える。認めたくない。
ウィルはそのまま倒れ込んだ。アンナの顔がすぐ横に見える。泥で汚れたアンナの顔も美しいと思った。
降りしきる冷たい雨がウィルの体を打つ。
しかし、ウィルは冷たさを感じなかった。雨が顔や体に当たる感覚さえもなかった。心と体が切り離されたようだった。そして、唯一感じられる心から、暗くなっていく山と同調するように希望の光が消えていった。
どうしてこんなことになったのか。いくら考えを巡らせても今さら時間は戻らない。
ウィルは意識がもうろうとしてきた。遠くから人の声のような音が聞こえる。仲間の声に似ている。幻聴なのか判別がつかない。
ウィルは「うぉぉぉ」と声の限り叫んだ。もはや人間らしい言葉を発することができない。
複数の足音のような音が近づいてくる。人間らしき姿がボンヤリ見える。幻覚なのだろうか。
アンナの命の終わりを告げるかのように、白い花は花びらを閉じていた。
ウィルの意識は途切れた。