プロローグ
熊が出た。
はじめの犠牲者は山の麓で作業をしていた農家の老人だった。
西の大都会と呼ばれる場所から車でおよそ二時間。県境に聳え立つ山々の山頂を繋ぐダイヤモンドトレールを越えると見えてくるこの村は田舎と呼ぶには十分であった。
近年、人口減少が問題視されている地域に指定され観光名所や歴史的建造物のPRを目指している中、全国放送でこの事件が報道されたのには理由がある。
別に熊が出ることは田舎では珍しいことではない。が、人が死ぬことはごく稀なことであった。
さらに、その死体は心臓を大きな爪でひと突きに貫かれていたのだ。
本能的に心臓を狙ったのか、はたまた偶然直撃したのかはわからないが、この危険に対して近隣の市町村からも警官が派遣され熊狩が行われることになるというニュースを見たのが今朝である。
そして今、目の前にその熊がいる。
全長二メートルを超える漆黒の体、その胸には白い三日月の模様があり、大きな二本の手には海外映画のキャラクターに登場しそうなほどに立派で長い爪が光っている。細く鋭い目は今にも目の前の獲物を狩る準備が整っているようにこちらの動向を覗っている。
落ち着け、俺。
こーゆうときの対処法はどうだったか。たしか最近見たショート動画に熊と対峙した時の対処法が載っていた。内容にほとんど興味がなく半分ほど見たところでスクロールしてしまったことに後悔しながら霧がかかったような記憶を遡った。
⭐︎熊に出会った時の対処法⭐︎
一、熊から絶対目を離さない
二、熊に腕を振って体を大きく見せる
三、ゆっくり後ずさる
よし、思い出した‼︎ あとは実践するのみ。
まず熊としっかり目を合わせる。警戒しているのか幸運なことに、熊はいきなり襲いかかってくることはなく、二本足で立ちながらこちらをじっと睨みつけている。
鋭い眼光にブワッと冷や汗が浮き出るのを我慢しながら次は手を振って体を大きく見せる。
大きいと言っても全長は二メートル前後、成人男性が腕を大きく上に伸ばした高さは数十センチ勝ることができるであろう。
効果があったのか熊の目に少しの動揺が見える。
よし、あとは少しずつ後ずさるだけだ。
今すぐに逃げたい気持ちを必死に堪え、研ぎ澄まされた五感が額に浮かんだ冷や汗が顔を伝って顎に到達するのを感じ、今まさに地面に落ちる。
そんな時だった。
「ふぁっ⁉︎」
後ろに一歩出した足が、大きな石を踏み損じた。
だらしない声と咄嗟に振り下がった腕を戻すまでは、熊が相手の隙に飛び込むには十分すぎる時間だった。
足場を確認してしっかりと地面に足をつき、顔をあげる時にはすでに熊が俺に向かって猛進を始めていた。
人生最大の鬼ごっこの始まりである。
それから数分、茂みの中を全力で走った俺はなんとか熊に追いつかれることはなく山の麓にある一際大きな鳥居に辿り着いた。振り返ったが、熊の姿はない。
撒いたか?
ほっと胸を撫で下ろし、辺りを見回すと鳥居を越えた先に四本の大木に護られるようにして建つ立派な本堂が目に入った。
「こんな神社があったんだな……」
生まれてこの方、十七年間という長い時間をこの村で暮らしてきたが始めてここに神社があることを知った。
普段神頼みなど一切しないが偶然辿り着けたことと、もの珍しさを感じ参拝する気になってしまい拝殿に向かう。
財布から五円玉を出すと、拝殿にある賽銭箱に向かって勢いよく投入する。五円玉はからんからんと音を立てながら以前に入れられたものであろう小銭と衝突して微かにちゃりんと共鳴した。
神頼みをしない俺でも参拝方法くらいは知ってる。たしかまず二礼、それから二拍手……そして願い事をする。
……願い事が思い浮かばない。神を信じていないわけではないが他力を信じていない自分にとってこのような機会がなさすぎて願い事を考えたこともなかった。
目を瞑って必死に頭を働かせたもの、結局なにも浮かばずに一礼してその場を去った。
なんの願い事もできない自身に少し落胆しながら鳥居に向かって歩いていると、右手にある大きな池で鯉が次々と跳ねている。初めて鯉が跳ねるのを見たが、あんなにも高く多く飛ぶとは知らなかった。
しかし、あまりにも鯉たちが多く飛ぶもので、若干自分を馬鹿にされているように感じる俺は性根が腐っているなと思ってしまう。
でも一旦、熊にでも食べられてしまえ。
と、何故熊の単語が頭に浮かんだのかを思い出した。
そうだ、俺は熊から逃げている間にここに辿り着いた。まだ近くにいるかもしれない。
我に帰った俺は辺りを見回した。
しかし、時すでに遅しとはこのことで、鳥居から石段に向かう五十メートルとない距離でこちらに熊が歩いてきているのが見える。
鬼ごっこ再開のくびきは今切られた。
俺はまだこちらに気付いてないことを願い、頭を下げてゆっくりと池の方に逃げる。
あの熊は大きな図体なだけに、あまり早く動けないのではないだろうかと勝手な想像を膨らませ、今のうちに多少の距離を取ることを選択する。必死に息を潜め、呼吸することを忘れるほどの緊張感で少しずつ、少しずつ池の方に歩みを寄せる。
あと少し、百メートルほど距離を取れば絶対逃げれる‼︎
昔、飛行機で落ちた時何故か自分だけ生き残れるのではないだろうかという謎の自信があった頃を思い出した。今となっては恥ずかしながら厨二病臭いと考えてしまう。
そんなことを考えながら少しずつ、少しずつ歩みを進めているときだ。
熊が何かを嗅ぎつけたかのように突如こちらを鋭く睨みつけた。そして大きな咆哮をあげこちらに向けて全速力で走り出した。
図体だけに早く動けないという軽い仮説は虚しく崩され、熊の時速数十キロにもおよぶスピードでこちらに猛突進してくる。あのスピードでぶつかられるだけで普通の人間ではひとたまりもないだろう。
あまりの速さに俺は圧倒され、腰を抜かしてしまう。
「……ッ」
声をあげて助けを求めようとしたが、声が出ない。
これが本当の恐怖であり、死を実感すると言うことなのだろうか。
まだ死にたくない。他力を信じていない俺だったが、自分の無力さに神に縋る思いで祈った。
誰か助けてくれ、と。
「やれやれ。このようなちっぽけな願いで私を呼び出すとは癪に障る小僧だ」
どこからか声が聞こえた。しかし、辺りに人影はない。
「おいオニグマ、今なら見逃してやる」
「ッ⁉︎」
熊の動きが止まった。
「やっと気付いたか……貴様風情に私が倒せるわけなかろう。即刻ここを去るがいい」
その言葉を聞くと俺に襲いかかってきたオニグマと呼ばれた熊は血相を変えて逆方向の茂みへと消えていった。
「死して天に昇らず、今世に留まろうなどというのは、本当に妖とは下劣な存在だ。しかし、数千年の時を経てまだやつが存在していたとはな……さて」
妖?数千年?なんの話だ。
よくわからない話をしているが、確かに聞こえるその声の主はやはり見当たらない。
そんな時、ふと大きな池に映る自分の顔が、水面が揺れた気がした。
「うわっ」
動いた⁉︎水面に映る自分の姿が自分の動きを無視して動き出したのだ。
「なにを驚いている?」
不敵な笑顔を浮かべた俺の姿をした化物は水面から顔を出した。
顔から頭、そして胴体を経て完全に俺と同じ姿で水面に浮上してきたその存在は俺とは裏腹に上品な歩き方をしながら陸地に上がってきた。
化物は自分の姿を一通り見回し、うんうんと謎の頷きをし言を発した。
「悪くない容姿だ」
満足そうな笑顔を浮かべ、容姿を褒めた。
そしてこう続ける……
「私は悪事も一言、善事も一言、ことはなつ神、一言さんなり」