第2部 35
ガドは計画が順調に進んでいることに、安堵していた。
貧民街が紙の製造を担うようになってから、二週間が経過した。まだ、工場の建設は始まっていない。
最初は、紙の製造を行うことができるのかを、試験的に行うために、貧民街にある空地に、簡易的な道具を用意して、紙を作成していたのだ。
新紙の肝となる部分は、コニンの商会の限られた職人が担当し、外部に漏れても問題ない作業を、この区画の住人が担当する。
この方法で、産業スパイを気にすることなく、生産に集中できる。
だが、問題も多かった。貧民街の住民は、一部常識の欠落している者が多い。彼らのこれまでの生活環境を考慮すれば、仕方のないことかもしれない。しかし、その認識のズレが、伝達ミスに繋がり、上手くいかないこも多々あった。
それでも根気よく、ガドやアラン、ニーナ、ボレスラフが間に入って、職業訓練を実施した。
作業はそこまで難しくない。また、分業制になっていたので、覚える量は多くはない。
そのため、この二週間でなんとか形にはなってきた。
コニン商会から遣わされた担当者も、これなら製造を任せられるだろうと言っていた。
他の街への輸出も目処がたちつつある。
ガドの頬が思わず緩む。まだ、計画は上手くいったわけではない。それでも、どこか達成感のようなものを感じていた。この感覚は行政官になって初めて仕事を一人で成し遂げた時以来だ。
貧民街の視察が終わり、自らの執務室まで戻ると、久々に嫌な顔を見た。上司だ。嫌すぎて名前を覚えることを、頭が拒否している。
今日もまた嫌味を言いに来たのだろうか。上司を見るも、彼は苦々しげにこちらを睨み、封筒を押し付けて、すぐに部屋を出ていった。わざわざこのためだけに、来たのだろうか。そうなれば・・・。
差出人を見る。そこには行政官のトップである、ディゴンの名前が記されていた。
この街は貴族で構成される議員と、登用試験に合格した平民である行政官によって構成される行政府で、統治されていた。議員が大枠や方向性を決めて、その実務的な内容を行政官が実施する。
行政官には権限がないように思えるが、実際は違う。大きな予算や人を動かすだけの力を、行政官は持っていた。
そして、その行政官のトップともなれば議員であっても対等に意見し、反対する力も持っていた。
ゆっくりと封を開封して中を確認すると、そこにはディゴンの執務室へ来るように、との内容が書かれていた。
ディゴンからの誘いには、嫌な予感しかない。それでも、行かない選択肢はない。
重い足取りでディゴンの執務室へ向かう。ガドが進めている紙の販路拡大に対して、横槍が入るのだろうか。
ここまで進めてきてそれはまずい。議員にも行政官の連中にも、ある程度の根回しは、済んでいる。だが、あくまでもある程度だ。
最悪のパターンを回避する方法を、頭の中で考えているうちに、目的の場所へ辿り着いた。
部屋の前には護衛らしき男が二人立っている。彼らに先程もらった封筒を見せると、すんなりと入室の許可が出た。あらかじめ話が通っていたのだろう。
扉を三度叩き、扉を開け、部屋の中にはいる。正面の執務机に座った男と目が合った。歳は五十代後半といったところか。白い髪の毛の似合う、ワイルドな男が座っていた。
「お、来たか。座れ、座れ」
ガドのことを気さくに手招きして、来客用のソファに座らせる。男自体もその対面に座った。
「いきなり呼び出してすまなかったな」
「いえ、とんでもございません」
出来れば会いたくないので、二度と呼び出さないで下さい、とは言えなかった。
「今日はお前の昇格についての話だ」
「昇格ですか・・・」
行政官には一級から十球までの等級が存在する。一級が一番低く、十級が一番高い。ちなみに、ディゴンは十級でガドはニ級だ。
ガドは左遷される前は四級であったが、濡れ衣をかけられたせいで、二級にまで降格させられた。
昇格に関しては、成績に応じて直属の上司から伝えられる。
それなのになぜ、自分は呼び出しを受けているのだろうか。
ディゴンから一枚の用紙を受け取る。
「え?」
思わず間の抜けた声が、ガドの口から漏れてしまった。
そこには五級へ昇格が書かれていた。三級飛ばしなんて聞いたことがない。
顔を上げてディゴンを見る。
「そうそう、それ。ありえないと思うだろ。だから呼び出した」
ディゴンはかけていたメガネを外して、ハンカチで埃を拭きながら話し続ける。
「お前の活躍は、それだけの価値がある」
そう言い切ったディゴンの顔には、一切の誇張は感じられなかった。素直に嬉しかった。自分の頑張りがここまで評価されたことが。
「さてと、ではここからは雑談なんだが」
ディゴンが一呼吸置いてから、話し始める。
「ニーナ嬢は、本当に魔人の権利保障のために動いているのか?」
ガドはじっとディゴンのことを見つめる。
知らないはずがない。ニーナが魔人の権利獲得のために動いていることを、この男が知らないはずがなかった。
「はい」
短く言い切るガド。
「お前はどう思っているんだ?」
「私は・・・」
正直ガドには、そこまで魔人の人権を保障したいという強い気持ちはなかった。・・・でも、それでも。
「私は行政官です。議員が望むべき社会を実現するために、政策を立案し、実行するだけです」
「じぁあ、ニーナ嬢以外の議員につけと言ったら?」
「お断りします。自分の仕える人ぐらい、自分で決めます」
ガドは今のところニーナ、いや正確にはアラン以外に付く気はなかった。
「では、仮にニーナ嬢の政策と、俺の考えが対立したらどうする?」
「ニーナ嬢につきます」
「おいおい、即答かよ」
ガドは刹那の判断で即答した。その答えを聞いたディゴンはおかしそうに笑う。
「指揮命令系統では、俺の方が上なんだがな」
「ええ、ですから説得してみせます。そのためのブレーンですから」
ディゴンはまた豪快に笑った。そして、話は以上だと言わんばかりに立ち上がる。
ガドもそれにならって立ち上がった。
「紙の販路拡大の件、期待しているぞ」
ガドはその言葉を背に、部屋を退出するのだった。




