第52話
「渉さん、渉さん、起きてください」
美沙の声と体を揺さぶられる感覚に意識が急激に覚醒する。もう朝かと目を開けると、まだテントの外は暗そうだ。
スマホを見ると大体午前五時過ぎくらいだろうか。こんな早い時間に起きるのか?
「んー……おはよう、まだ五時過ぎだが……もう起きるのか?」
「おはようございます。そうっスよ、大体こんなモンっス。大丈夫大丈夫、今日は疲れて速攻で眠れるはずっスから、明日は早起き出来ますよ。じゃ、これ着て集合っス」
美沙はにっこりと微笑みながらそう言うと、白い何かを置いて俺のテントから出て行った。
二度寝の誘惑を振り払いながら美沙が置いていった物を確認すると……空手家や柔道家が着るような道着だった。
こういった道着を着たのは高校時代、体育の授業で柔道をやらされた時以来だろうか? 懐かしくもあるが、受け身を教わった記憶も遥か彼方だ。
「……まさか、組み手をやれなんて言われないだろうな」
勘違いされては困るが、俺は武術の心得が一切ない、ただのしがない警備員だ。
毎年やらされる現任教育という法律で定められた研修で、無手の護身術と警戒杖の取り回しはある程度叩き込まれる。
だが、そうは言っても素人の手習いだ。期待してもらっては困る。
俺は不吉な想像を振り払い、道着に袖を通してテントを出た。
広場では既に朝食の配膳が済んでいた。空也さんは先に食べ終わったようで、食器を水洗いしている。
キャンプテーブルにお盆が乗せられており、そこにはご飯と味噌汁、沢庵に小さな焼き鮭が用意されていた。
実家で暮らしていた頃から今まで、朝食は大体食パン一枚で、足りなければ通学や通勤の途中に買い食いをする生活スタイルだ。
これを用意する為に早起きしたであろう美沙に感謝しつつ、しっかりと頂く。
ご飯の炊き加減も俺好みだし、味噌汁や焼き鮭の塩梅もいい感じだ。実にうまい朝食だ。
「渉さん、どうっスか? お口に合いましたか?」
「ああ、うまい。用意してくれてありがとな」
俺の返事を聞いて、美沙がにへらと相好を崩す。そんな俺達の様子をにやにやしながら空也さんが見つめてくるのが小っ恥ずかしい。
美沙の手料理は結構な頻度でご馳走になっているが、思えば朝食は初めてだ。
「美沙は毎朝こんな感じの朝食を作ってるのか?」
「そんな事ある訳無いじゃないスか、三人分だから作っただけっスよ。普段はフルーツグラノーラと牛乳っスよ。この修行中も毎朝コレはしんどいんで、菓子パンとかで済ませる日も挟むつもりっスよ」
手をヒラヒラと振りながら美沙が軽く応じる。
まあ、そりゃそうだよな。美沙にも美沙の修行がある訳だから、あまり無茶はさせられない。
俺が料理できれば良かったんだが、美沙に座って茶でも飲んでろと言われる程度の料理スキルだ。手を出したせいで仕事を増やしてしまいかねない。
手早く食事を平らげて、空也さんと同様に食器の後片付けを済ませると、今度は広場の真ん中でラジオ体操が始まった。
こんな所でもラジオの電波が入るのか? と疑問に思っていたが、空也さんが手のひらサイズのMP3プレイヤーを持って来ていたようだ。
韓国の怪しい露天で買った韓国の大衆音楽が七千曲近く入っているポンチャックマシーンと言うシロモノらしく、そこに友人に頼んでラジオ体操の音源を入れてもらったとの事だった。
……それは違法な物品ではないのか? 著作権的に大丈夫なのか?
「さて、それじゃあ行ってくるね! みーちゃんも頑張ってね!」
「はい、父上も。……くれぐれも渉さんを大事に扱ってくださいね、この人一般人なんで」
「だいじょーぶだいじょーぶ! じゃ、渉君はしっかり僕について来てねー!」
空也さんが広場の奥、生い茂る森へと駆け出す。俺は美沙に手を振って、空也さんの小さな影を追った。
森の中を三十分、岩肌の崖を登る事さらに三十分。
正味一時間の道のりをハイペースで踏破して辿り着いたのは、もう少し登れば山の頂に手が届きそうなくらいの高さに鎮座する黒い大岩だった。
山肌から突き出る形の三人がけのベンチくらいの大きさの岩だが、俺が押したくらいではびくともしない安定感を持っていた。
「はい、ここが彼岸の神棚でーす」
「岩……ですよね、これ」
俺が黒曜石を思わせる光沢を持つ岩を触っていると、空也さんがロープを渡して来た。
そのロープは少し離れた地面に突き刺さっている大きめの杭まで伸びており、その端はしっかりと杭に結え付けられてあった。
「これは?」
「命綱だよ。腰にしっかり巻いておいてね、ここから落ちたら十中八九死ぬからね」
空也さんはロープを自身の体へ二重三重に巻きつけた後に固めのこぶ結びを作り、何度も引っ張って強度を確かめている。
俺は唾を飲み込んで、ロープを自分の体に巻きつける。空也さんが俺のロープの巻き加減をチェックしながら、命綱の装着が完了した。
「渉君、これから君は、僕と一緒に肉体の牢獄を抜け出して、魂と精神だけの世界に行くからね」
「魂と……精神?」
俺がオウム返しに尋ねると、空也さんはゆっくりと頷いた。
「そう。僕は魂とか死後の世界とか信じてないタチだけど、ここに限って言えば別だ。……乱暴に言うと、少しの間仮死状態になるんだ」
「……それ、大丈夫なんですか?」
よっぽど俺が不安そうな顔をしていたんだろう、空也さんは少し吹き出すように笑った。
「ううん、大丈夫ではないよ。意識のない肉体がどうなるか分からないから、こんな命綱をつける必要がある。それに彼岸から半日くらい帰ってこなかったりすると本当に死んじゃうね」
「話を聞いてるだけでも、めちゃくちゃ危険な気がするんですが……?」
「そうだよ、危険だよ。だけど、凝り固まった君の常識を解き放つには、ここでの修行が最良なんだ。それに月ヶ瀬の筆頭が君の修行を監修するんだから、大船に乗ったつもりでいなよ」
にっと歯を見せて笑っていた空也さんが岩にひょいと飛び乗って座禅を組んだ。俺も岩に登って胡坐をかいて、目を瞑る。
身体を吹き抜ける風の冷たさが遠のき、瞼に刺さる夜明けの日差しが俺の意識をぼやかし、その境界を曖昧にしていく。
そして……全てが消えた。
§ § §
再び目を開いた時、そこは岩山の上ではなかった。
白い地面に黒い森、まるで白い紙に墨汁で描いた山水図のようだ。
どことなくぼんやりとした景色の中で、俺と空也さんだけがしっかりとした輪郭を持って存在していた。
「はい、到着ー。ここが肉体から離れた魂の世界だよ」
「なんだか水墨画みたいな所ですね……って、空也さん……その光ってるのは何ですか?」
この色のない世界で、空也さんの姿だけは明らかに異様だった。
ちんちくりんな見た目はそのままに、金色のオーラを身に纏い、強烈な存在感を放っている。
「ああ、これ? これは肉体に依らない精神的な力が視覚化された物だよ。インドだとプラーナとか、中国だと気功って呼んだりするね。渉君、自分自身を見てごらん?」
言われて俺は自分の体に目をやると、全体的にくすんだ灰色をしており、所々コールタールのように黒ずんでいる。
「……何か薄汚れてるような感じがしますが、これは?」
「それが君の中で澱んで滞っている悪い気だよ。心と体のバランスが狂ったままだとそうなりがちなんだよね。君の心を常識から解き放つのが一番の目標だけど、その悪い気を絞り出すのも副次的な目的の一つだよ」
俺は再び自分に纏わりつくモヤモヤに目をやる。引っ付いていると言うよりも体と一体化している印象さえあるコレを、どうやって引き剥がすと言うのだろうか?
「ま、悪い気を絞る事については追々ね。まずはここでの動き方に慣れていこうか」
空也さんが柏手を打って、前方に広がる森……そしてその先に聳える山々を手で指し示した。
「とりあえず今日はあの山をどこまで登れるか、やってみよう」
見上げる程に高い山を呆然と見つめる俺の背中をポンと叩いて、空也さんが先行する。
慌てて俺も追いかけるが……この山、彼岸の神棚までの道中とは比べ物にならないくらい足元が悪い。
石がゴロゴロ転がっているし、足元は苔のような物で泥濘んでいるし、思ったよりも勾配がキツい。
何よりこんな悪路をお散歩気分でジョギングしている空也さんのペースについて行けない。
段々間が離れていき、それが焦りを呼び、呼吸が荒れてくる。汗も滴り落ちる。
ステータスを得てからずっと忘れていた「体力切れ」が俺を襲う。
足を止めてしまった俺の所まで空也さんが戻って来た。
「うん、やっぱそうなるよね」
「すみません、体が……ステータスが無いってこんなキツいんですね」
俺が汗を拭いながら感想を伝えると、空也さんは首を横に振った。
「それは違うよ。君が慣れてないからだ。だってそうでしょ、体が無いんだよ? 何で汗かいてるの? 息まで上がっちゃってさ」
「それは……」
「呼吸器が無いから息は上がらない。汗腺も無いから汗もかかない。心臓も無いから心臓も暴れないし、筋肉も無いから乳酸だって溜まらない。つまり、君が感じている疲労はただの思い込みなんだよ」
言われてみれば、確かにそうだ。体が無いんだから疲れる道理は無い。だが、そうなるとこのしんどさはどうすればいいんだ?
「とは言え、すぐにこの環境に慣れるとは思ってないよ。だからスパルタで行きまーす」
空也さんがそう宣言して手を打ち鳴らすと、どこからともなくゴポリ、と粘着質な液体が波打つような音がした。
俺が辺りを見渡すと……俺が登って来た山の麓が漆黒の液体で満たされ、海のようになっていた。
「で、これをこうしまーす」
空也さんが足元に転がっていた石を拾い上げて黒い海へと投げ込んだ。すると石はジュッと焼けたような音を残し、海に溶けた。
黒い海はますます嵩を増し、山を登るように海面が上がって来る。このままぼんやりしていたら、石と同じ末路を辿るのは自明の理だ。
「さ、渉君はどうする? いまさっき投げた石がどうなったか、見てたよね?」
「……マジですか」
「マジもマジ、大マジだよ。じゃ、急いだ方がいいよー」
ひょいひょいと足取り軽く空也さんが走り去ってしまった。置き去りにされた俺を追いかけて来るのは黒い海だ。
俺は必死に足を動かして急斜面の森を駆け抜けようとしたが、息が上がり、心臓は早鐘を打つ。
いつもと違うのは限界を迎えてもなお体が動く点だ。悲鳴を上げる身体を気力を振り絞って動かすが、それでも海面の上昇速度に勝てなかった。
俺は黒い海に呑まれてしまった。水が俺の肌を、肉を溶かしていく。身体中が焼け爛れるような激痛に苛まれながら意識を手放した……はずだった。
「はい、そこまでー」
空也さんの声と柏手が聞こえた。目を開けて上半身を起こすと、最初に立っていた山の麓に戻って来ていた。黒い海は跡形もなく消え去っている。
さっきのは一体何だったんだ? 確かに強い痛みを感じた。だが、空也さんの話が本当なら、痛覚が無いんだから痛みは感じないはずだ。
と言う事は……あの痛みは思い込みによる物なんだろうか?
「何で痛いのか不思議だなーって顔してるね」
「……分かるんですか?」
「もちろん。ちーちゃん……長女の千沙も、次女のかずちゃんも、みーちゃんもみーんな最初そんな顔してたよ。ちなみにアレは思い込みとかじゃなくて本当に痛いよ。魂を溶かしてるからね」
俺が起き上がるのを待たずに、空也さんが駆け出す。また後方を見ると、地面からじわじわと黒い水が溢れ出している。
「今日はとにかく、その黒い奴に飲まれないように走る訓練だよ。痛いのが嫌なら、はい! 走って!」
俺の数倍の速さで走る空也さんの手拍子で、俺は我を取り戻して、黒い水から逃げる為に駆け出した。
森を掻き分け、急勾配を駆け抜け、傾斜が崖のように高くなった所で黒い水に捕まり、激痛に意識を失う。
目覚めて、黒い水から逃げ出し、呑まれ、気を失い、再び目覚めて……というループが幾度となく続いた。
意識を失った回数を数えられなくなった頃、俺は立ち上がる事すら出来なくなっていた。
「んー、今日はここまでかな。最後の方は結構マシになってたね、あの崖が一つの壁だから今日の目標は達成だよ」
「はぁ……はぁ……」
地面に大の字で寝転がったまま、身じろぎ一つ出来ない体に成り果てていた。……いや、これは体じゃないんだった。
とにかく息をするので精一杯だ。……待った、そう言えば息をする必要も無いんだった。
何ともややこしい。自分が何者なのか分からなくなってくる。
「それじゃあ帰るよー。はい、いーち、にーい、さーん」
俺は起き上がれもせず、空也さんのカウントダウンを聞いていた。朦朧とする意識の中で、目を開けていられない程の閃光が双眸を刺した。
次の瞬間、視界一面に空と遠くにそびえる山々が映し出された。彼岸の神棚に取り残された体に戻ってきたんだろう。
俺は体の重たさを制御できず、ぐらりと前に倒れた。景色が上に流れ、ゴツゴツとした岩壁が急激に迫ってくる。
岩肌に頭から突っ込みそうになる寸前、俺の胴体がギュッと締め付けられた。恐らく命綱が繋ぎ止めてくれたんだろう。
「ね? 最初はみんなこうなるから命綱を付けるんだよ。今引き上げるから待っててね、せーのっ」
空也さんはスタミナドリンクのCMにでもなりそうな勢いで俺を引っ張り上げて命綱を解き、彼岸の神棚に寝かせてくれた。
普段なら悲鳴の一つでも上げそうな九死に一生の恐怖体験だが、心と体が全く反応してくれない。
「一旦ベースキャンプまで戻るけど……大丈夫? 動けそう?」
「すみません……動けそうにないです」
「んー、こればっかりはしょうがないよね……そしたら渉君を抱えて戻るから、舌を噛まないようにしっかり口を閉じててね」
言い終わるや否や、空也さんは俺を横抱きに抱えてとんでもないスピードで下山し始めた。お姫様抱っこの格好は流石に恥ずかしいとか考えている余裕は無い。
景色が認識出来ないスピードですっ飛んでいく。もしかしてこの人、登りの時はめちゃくちゃ手を抜いて走ってたんじゃないか……?
行きの半分以下の時間でベースキャンプに到着した空也さんが、俺を丸太を割っただけのベンチに寝かせた。
「まだみーちゃんは帰ってないみたいだね。渉君はもうしばらく休んでおいてね。大丈夫、うちの次女の時よりは全然マシだから、落ち込まなくていいからね」
空也さんはそう言い残し、水用のポリタンクを二つほど抱えてどこかへ飛び去ってしまった。どこかに水を汲みに行ったのだろうか?
猿の如く……と言うと失礼になりそうだが、実際人間離れした動きはまさしく猿だ。
まだ頑張っている美沙や空也さんには悪いが、少し休ませてもらう事にした。少しの間目を閉じるだけで眠気に襲われ、微睡の中に落ちていく。
……夢を見ていた。親父が死んで、お袋が宗教に狂って崩壊する前の、小学生くらいの頃の家族の夢を見ていた。
幸せだった……そう、幸せだった。何で忘れていたんだろう。裕福ではなかったけど、暖かな家庭だった。
金が無いなりに工夫して季節ごとのイベントを楽しんだり、型落ちなんてレベルじゃないオンボロ車であちこち出掛けたり……怒られた事も沢山あったが、それも愛あっての事だった。
どうしてこうなってしまったんだろう。どうして忘れてたんだろう。どうして……
「……さん、渉さん! 渉さん、大丈夫ですか!?」
必死に呼びかける美沙の声と頬をぺちぺちと叩かれた刺激で、俺は眠りから覚めた。
心配そうな顔で俺を見下ろす美沙になかなか焦点が合わない。それが目に溜まった涙のせいだと気付くまでに少し時間がかかってしまった。
「美沙か……そっちの修行は終わったのか?」
「そんな事より大丈夫ですか!? あたしが帰って来たら渉さんここに寝かされてて、ずっと泣いてて……! 父上に何かされたんですか!?」
空を見上げると、太陽が丁度真上に見える。お昼頃だろうか。
周囲の様子を見るに、美沙は昼食の支度をほったらかしにして俺の様子を見守っていたようだ。
「悪い、心配をかけたな。……大した事じゃないんだ、ちょっと夢を見ていただけで」
「悪い夢……ですか?」
「いや、良い夢だった」
俺は上半身を起こして、心配そうに顔を覗き込んでくる美沙の頭を撫でた。
少し寝たからだろうか、彼岸の神棚に帰って来た時と違って体が動く。未だにくらくらするが、全く動けない程じゃない。
「家族はいいものだった……そう思い出させてくれる夢だったよ」
「もしかして、ご両親や妹さんの夢ですか?」
「ああ。俺が小学生くらいの、仲が良かった頃の……どうして今更思い出したんだろうな」
「……それは恐らく、彼岸の神棚の修行の成果かも知れません。あの黒い波から逃げる訓練、やったんですよね?」
あの幾度も繰り返される拷問のような片道シャトルランと激痛を思い出し、一瞬体が強張り表情が引きつってしまうが、頷いて返答する。
「痛くなければ必死になれないからって理由もあるんですけど……あの黒い波、心の悪い部分を引き剥がす力があるんです」
「もしかして、俺の体に引っ付いてたモヤみたいな奴か?」
俺が尋ねると、美沙は「そうです」と頷いた。
「正確には、怒りや憎しみといった負の感情にエネルギーを流し込んでいるパスを破壊しながら取り込み、『何で怒ってたんだっけ?』って状態にします。パソコンで言ったらタスクを殺してからパッチを当てるような物です」
「だが、あんなに痛いとは思わなかったぞ」
「麻酔をかける体もないですし、悪い所と言っても自分自身の一部ですからもぎとったらそりゃあ痛いですよ……けど、一番痛いのは初日だけです。明日からはきっと大丈夫ですよ」
美沙が俺の手を取ってにっこりと微笑みかける。握られた手は温かく、そこから俺の体に何かが流れ込んで来るようだった。
俺の背後から咳払いが聞こえ、美沙がそちらを向くと顔を真っ赤にして手を離した。振り返ると、中身が満タンのポリタンクを両手に持った空也さんがいた。
「みーちゃん、勝手に種明かししちゃダメでしょ? 一応黒波も月ヶ瀬の秘伝なんだから、権限の無い子が勝手にバラしたりしたら切腹を申し付けないといけなくなるんだからね?」
「はい……申し訳ありません、父上」
美沙が肩を落としてしゅんとしながら焚き火のそばに置いてあるクッキングテーブルの方へと向かう。どうやら昼食の準備にとりかかるようだ。
空也さんは道着の懐から竹で作った水筒を取り出して俺に渡した。
「はい、これ飲んで。楽になるよ」
「……ありがとうございます」
俺はコップを受け取り、一口飲んだ。竹の青い香りと共に胃の腑に落ちた水は、体だけでなくもっと深い所まで潤す。
ただの水であるにもかかわらず、何故か消耗しきった心に染み渡る。先程までの、少し朦朧としていた意識がはっきりしてくる。
「何だか凄く楽になった気がしますが、これは一体……?」
「神水の坩堝って場所があるんだけど、そこの湧き水だよ。目減りした精神力と言うか、心身を回復させてくれる効果があるんだ。プラスチックみたいな人工物で汲むとただの水になっちゃうんだけど、竹や木みたいな自然物で作ったなら効果が残るからね」
「では、そちらのポリタンクは? 効果が無くなるのでは?」
「ああ、こっちはただの飲み水を確保しただけだよ。効果を抜きにしても普通に美味しいから、渉君に飲ませる分とは別に汲んで来たんだ」
空也さんは「お昼までゆっくりしててね」と言い残すとポリタンクをクッキングテーブルの前にいる美沙の所ままで持って行った。
俺は水筒に残った水を一気に呷り、飲み干した。プラセボ効果という訳ではないだろうが、強く活力の湧く感覚が先程よりもハッキリと感じられた。
俺はそのまま横になり、声が掛かるまで心と体の回復に努めるのだった。




