閑話3 月ヶ瀬美沙は後悔する
【Side:月ヶ瀬 美沙】
「お兄さん」との出会いは中学の頃、修行を兼ねてダンジョンに潜っていた時の事だ。
当時のあたしはまだ裏の月ヶ瀬を名乗れる程の力も無く、今は吉島ダンジョンに通っていた。
実家のコネを利用したヤミ入場であり、ステータスの付与も許されていなかった。が、月ヶ瀬の力は魔物に効く。
ダンジョンが発生する遥か昔、一説には初代天皇が誕生した神代の頃から、闇に巣食う魔を討つ者として培われた遺伝子と鍛錬法が成せる業だ。
あたしは血の覚醒が遅く、中学に上がった時ですら一般人に毛が生えた程度の能力しか持ち得ていなかった。
二人姉がいるが、中学生どころか小学生くらいの歳には既に月ヶ瀬の血に覚醒しており、魔の者を打ち倒せていたと言う。
月ヶ瀬三姉妹ダントツのみそっかすであるあたしは、父上から血が目覚めるまで実家を離れて暮らし、学校が終わってから数時間はダンジョンで地力をつけるよう命じられた。
それでもあたしの血は目覚めることは無かった。ずっとずっと、学校で授業を受けて、ダンジョンの魔物に挑み、傷を作って帰っての繰り返しの日々。
このままだと、父上から見捨てられてしまう。月ヶ瀬に不適格な娘として放逐されてしまう。そうなったら、どうやって生きていけばいいのか。
途方に暮れながらも、それでも生き方を変えられる気がしないあたしは、来る日も来る日も魔物に挑み続けた。
その日も吉島ダンジョンのブレードマンティス……鋭利な刃物と化した鎌を持つ人間サイズのカマキリから受けた腕の傷をそのままに、夜の広島刑務所の横を通り過ぎ、家路をとぼとぼと歩いていた。
吉島通りを少し外れた脇の道路を通行止めにして行われていた、工事の車両誘導要員として立っていたお兄さんと出会ったのが、はじまりだった。
「おいおい、ちょっと待ったお嬢ちゃん! 何だその傷!」
「……ほっといて下さい、大した傷じゃありません」
「そんだけ血が出てて大した傷じゃない訳がないだろ! ちょっと待ってろ!」
お兄さんはすぐ近くに置いてあったバイクに小走りで駆けていき、鞄から薬箱を取り出して、その中から取り出した消毒液であたしの傷口を消毒し、ガーゼをあてて包帯でぐるぐる巻きにしていく。
家に帰ればヒールポーションがあるから、別に手当なんていらないのに。何とも余計な事をする人だ。
「……余計なお世話です」
「そうだな、余計なお世話だったかもな。寄り道せず真っ直ぐ帰んな。傷が痛んだら痛み止めでも飲むんだぞ」
そっけなくしたつもりなのに、それでも笑って見送ってくれたお兄さんに「変な人もいるもんだ」と思いながら背を向けて、その日はそのまま帰途についた。
それから毎日同じ道を通ると、お兄さんは月曜日と日曜日以外は必ず同じ場所で仕事をしていた。
怪我をしてたら手当をしてくれて。何ともない日は挨拶とお話しをして。たまにお菓子を分けてくれて。
「お嬢ちゃんはこんな時間にいつもどこ行ってんだ? こんな傷をこしらえてからに」
「どこでもいいじゃないですか。それにお嬢ちゃんは止めてください。ちゃんとした名前があります」
「それじゃあ、そんなお嬢ちゃんのお名前は何なんだ?」
「知らない人に名前を教えるな、とおじいちゃんからの言いつけですので」
「……そしたら必然的にお嬢ちゃん呼びするしか無くねえか?」
「……う……じゃあ……みんなそう呼ぶから……みーちゃんで」
「みーちゃん……」
「何なんですかその目は! 親戚の子達がそう呼んでるだけであたしだって気に入ってないんです! 不本意なんです! まるで猫みたいじゃないですか!」
「いや、可愛くていいと思うぞ、みーちゃん」
「やめてください! 本当に! その生暖かい目をやめてください!!」
お兄さん、みーちゃんと呼び合うくらいには仲良くなり、会えば軽く雑談するようになっていた。
実家を出て吉島ダンジョンの近くに住むようになってから家族と話す機会も少なくなり、学校では友達も無くただただ浮いていたあたしにとって、お兄さんと話す時間は数少ない他人との交流の場だった。
お兄さんもお仕事中なので、ただの通行人と長々と話す訳にはいかない。
それでもあたしを見かけるたびに声を掛けてくれたのは、きっと優しいお人好し気質のせいだろうと思う。今も昔も、そこは変わらない。
転機が訪れたのは、初めて出会ってから約一ヶ月が経った頃。ちょうど東京で何度目かのダンジョン警備のボイコットが行われ、広島にもその影響が波及していた。
吉島ダンジョンも警備員がおらず、何やら不穏な気配がしていたので早めに切り上げて帰ってきた所だった。
「おや? みーちゃん今日はやけに早いな? まだ八時だぞ?」
「ちょっと嫌な予感がするんで帰ろうかと」
「嫌な予感? まあでも直感って奴はバカに出来んからなぁ……気をつけて帰——」
お兄さんの言葉を遮るように、爆音が轟いた。遅れて女性の金切り声、男性の避難を促す叫び声がここまで届いた。方向は先程あたしが出て来た吉島ダンジョンの方からだ。
当時のあたしはダンジョン・フラッドについてその機序も、何故警備員がわざわざ巡回していたのかも知らなかった。
分かっていたのは一つだけ、こちらに駆け寄ってくるゴブリンは、吉島ダンジョンで度々見かけたのと同じ種類だと言う事だ。
「お兄さん、逃げて下さい! あれ魔物です!」
「魔物!? って事は吉島ダンジョンから出て来たのか? 警備員は何してたんだ!?」
「そんな事いいから! 早く逃げてください! 一般人では勝てませんから!」
「みーちゃんこそ早く逃げろ! 俺が食い止めてやる! そんで警察呼んできてくれ! 羽衣町交番がすぐそこだから!」
近くにあった立て看板を振り回してゴブリンに応戦しようとするお兄さんを、ゴブリンの体当たりが襲う。カラーコーンやバーを巻き込みながら、お兄さんが吹き飛んだ。
あたしは体当たりが腕にまともに入ったせいで吹き飛んでしまったお兄さんを抱き起こした。
「大丈夫ですか、お兄さん! しっかりして!」
「へへ……ダセェなぁ……一発かよ……」
一般人から見たら恐怖の対象でしかないゴブリンを前に、恐れもせずに立ち向かって子供を逃がそうとする人のどこがダサいものか。
あたしは泣きそうになりながらお兄さんの負傷状況を確認する。頭はヘルメットのおかげか無傷のようだったが、腕があらぬ方向に折れ曲がっている。
「お兄さん、腕が……」
「いいから……逃げろ……早く……」
お兄さんの息が浅くなり、力が抜けていく。ガクリと言うよりズルリと崩れ落ちたその姿を見た時、自分の中で引っかかっていた何かが外れた。
そこから先は記憶が酷く曖昧で、他人事のようにしか覚えていない。
背負っていた製図ケースから普段使いの刀を取り出して、ゴブリンをズタズタに切り裂いたのは覚えている。赤い飛沫が散る様を映画でも見るような感覚で眺めていた。
とにかく、悔しかった。もっと早く血に目覚めていれば、お兄さんは怪我をしなくて済んだはずだ。
あたしは一般人じゃない。魔を討つ月ヶ瀬の末子だ。そんなあたしに優しく接してくれた人が、あたしが未熟だったせいで傷ついて倒れた。
到底許される事じゃない。誰が許したって、自分が自分を許せない。
涙も、叫びも、疾駆する体も止められない。止め方も分からない。暴走する自分を俯瞰の視点で見ているような感覚の中、胸を締め付けていたのは強い後悔の念と罪滅ぼしの意志だった。
あたしの怒声を聞いて集まる魔物を次々と殲滅していき、周囲に敵影が無くなった事を確認すると、ようやく気持ちが落ち着き、身体と心のコントロールを取り戻せるようになった。
しかし緊急事態とは言え、天下の往来で探索者でもない人間が刀を抜いて大暴れしてしまったのが警察にバレてはマズい。
あたしはお兄さんの為に携帯電話で救急車を呼び、その到着を見届けた後、現場から逃走した。
翌日、あたしは本家に呼び出された。父上から月ヶ瀬の血が目覚めているとお墨付きを貰い、晴れて実家に戻る事が許された。
あたしは嬉しくて嬉しくて、とにかくお兄さんと話がしたかった。
お兄さんはあの骨折の具合から、きっと入院しているに違いない。でも、もしかしたら代わりに来る警備員がお兄さんの入院先を知っているかも知れない。
そう思って夜にいつもの工事現場に向かったものの……既に工事は昼のうちに完了しており、交通規制は影も形もなかった。
あの時救急車がどこに向かったのかを確認しないまま逃げ出してしまったし、連絡先も聞いていないので、電話もメールも出来ない。
そもそもあんなにお話したのに、あたしはお兄さんの名前すら知らなかった。
あたしとお兄さんを繋ぐ糸がプッツリと切れてしまったようで、その晩は夜が明けるまで泣き腫らした。
今思えば、あの時既にお兄さんが好きだったんだと思う。あたしは初恋を諦められず、月ヶ瀬としての鍛錬を欠かす事なく続けながら、少ない手がかりから探して、探して、探して……
ようやくその隣に辿り着いたのが、三年前の栄光警備への就職だった。
それが、あたしがお兄さん……「先輩」と初めて会った時の話。
あたしは警備員になった時……先輩に再び出会えた時に、あたしは誓った。もう二度と、先輩に傷を負わせないと。
それなのに、あたしはまた後悔する羽目になった。
§ § §
あたしのせいだ。ドラゴンの鱗に引っかかったレイピアを無理に引き抜こうとしたせいで反応が遅れて、あたしを庇った先輩の腕が盾ごと切られてしまった。
流れる血の赤に、目の前までもが紅に染まる。先輩がまた怪我をしてしまった。あたしを庇って。
あの時もそうだ。あたしがしっかりしていれば、先輩は怪我なんかしなくて済んだのに。
動けない。足がアスファルトに埋もれてしまったように動けない。声が出せない。息の仕方も忘れてしまったように浅い呼吸しか出来ない。
崩壊していく。戦列が崩壊していく。先輩と一緒に名前をつけたあの子達がドラゴンに蹂躙されていく。
昔飼っていた犬に似ていると先輩が言っていたコボルトも吹き飛ばされてしまった。あたしが動かないと壊滅してしまう。なのに体が動かない。
あたしのせいだ。あたしが手を抜いたからだ。
月ヶ瀬の力を使えばこんな空飛ぶトカゲ風情、三手で詰ませられる。しかしそうなると先輩の能力も、月ヶ瀬の力も世間にバレてしまう。浮世ではこのトカゲは絶望的な災害なのだ。
あたし達は裏の人間、表に出てはならない。裏の者でありながらアイドルをやってるどこぞのメス豚をあげつらって批判出来る立場では無くなってしまう。
だから手を抜いた。月ヶ瀬の力を使わずにステータスシステムに則った戦い方を心掛けた。でないと先輩の側に居られなくなってしまうから。
その結果、先輩を傷つけた。
何をやってたんだ、あたしは。何を誓ったんだ、あたしは。
世間体を気にしたせいでこんな事になった。優先順位を間違えた。このクソトカゲにも腹が立つが、何より自分の不甲斐なさに腹が立つ。
認めよう。あたしは侮っていた。舐めていた。
身勝手に自分に制約をつけて、それでも先輩を守り通せると思い込んでいた。その結果がこれだ。
悔しさと悲しさと怒りとやるせなさが綯い交ぜになり、殺意を醸し出していく。誰に対する物でもない、とにかく腹が立ったのだ。
そのどこにぶつけるでもない、御しきれない殺意が最高潮まで高まった時——
「……みーちゃん?」
声が聞こえた。先輩の声だ。ずっとずっと、聴きたかった呼び名。
あの時切れた糸が、また結び直されたような感覚に、目の前がクリアに晴れていく。顔を上げて先輩を見る。懐かしい友人を街中で見つけたような表情だ。
ああ、分かってくれたんだ、あたしの事。
言い出せなかったけど、あれからずっとお兄さんの事を追いかけて、ここまで来たんですよ。
日本の隅から隅まで探して、強くなって。お兄さんともっとお話したかったから。
言いたい事、聴きたい事も沢山あったんですよ。あの時、あたしの心と命を救ってくれたのはお兄さんだったのに。
どうしてお礼を告げる前に居なくなっちゃったんですか、こんなに遠回りしなくちゃいけなくなったじゃないですか!
泣きそうになるのを堪えたが、一粒だけ涙がこぼれ落ちてしまった。泣いてる場合じゃない。まだ終わってない。
あたしは防具の隙間から一枚のカードを取り出し、カード化を解除した。
長子でないが故に家を継ぐ事が許されない本家末子に託され、その死と共に再び月ヶ瀬本家に回収される一本の刀。
六尺五寸の長さを持つその刀身は、緋緋色金を用いて作られたとも言われている。
人に仇為す魔の血を吸わせ幾星霜、カード化出来る程の魔力を帯びた月ヶ瀬家伝来の大太刀。
その名を「徒花」。まさしく伝家の宝刀と呼べる代物だ。
「……! 美沙ねぇ、そ、それ……」
ちっひーはこの刀を抜いた意味を正しく理解している。これを抜くと言う事は「ワレしごうしちゃるけぇ覚悟せえよ」と言う事である。標準語で言うと「全力を以ってお前を殺す、念仏を唱えよ」となる。
月ヶ瀬の分家の前で月ヶ瀬の宝刀を抜いた……つまり現時点をもってこの戦いは「月ヶ瀬家の行事」に格上げされてしまった。
だからきちんと、分別は付けなくてはならない。
「千紘君」
「は、はいっ」
ちっひーは背筋を伸ばして返答する。そうだね、そうでないとね。
あたしは本家の子だから、分家は傅いて従わなければならない。普段の気安い関係ならいざ知らず、これは「家の行事」なんだから。
これはあたしが付けなければならないケジメであり、これ以上ちっひーの介入を許す訳にはいかない。だから、先輩の警護を任せてしまおう。
「お兄さんのこと、頼むね。……あたしの大事な人だから」
「承知しました! お嬢様から拝命いたしました任務、我が命に代えましても遂行致します!」
ちっひーは敬礼をして、辺りに響くような大きな声で応えた。
うん、よろしくね。本当に大事な人だから。これ以上、先輩を傷つける訳にはいかないから。
ステータスの力が乗った今のあたしが月ヶ瀬の力をフルスロットルでブン回すと、この高速道路の高架が崩壊してしまう。無駄に衆目を集める事もそうだが、広島の経済活動が死んでしまう。
とりあえず、全力の半分程度で様子を見る事にしよう。あんまり頑張りすぎて先輩がドン引きしても後々困るし。
「おう、トカゲよぉ。ちぃと憂さ晴らしに付き合えや」
そう、これは完全な憂さ晴らし、八つ当たりだ。
哀れなドラゴンには同情を禁じ得ないが、その命を諦めてもらおう。探索者でなく、殺しの月ヶ瀬を引きずり出したのが運のツキだったのだ。
あたしは少しだけ力を込めて、地面を踏み込んだ。
いつものように音を置き去りにして、ドラゴンの土手っ腹に峰打ちを叩き込んだ。