王家の名のもとに
キルヴァ、少年ながら、かっこいいです。将来を楽しみにしてください。
「どうしました!」
作業小屋に飛び込んだセグランは、キルヴァの顔や手、首から胸元にかけて蒼い血で汚れているのを目の当たりにした。
「王子!」
「触れるなッ」
腹に気をためた重い恫喝に、セグランの足が止まる。
ジアは作業着の懐にねじこんだ皮手袋を取り出して嵌めながら、セグランに顎をしゃくった。
「素手で触るな。天人の血は副作用がある。血だけじゃない、できるだけ汗や唾液や涙や尿にも触れんように気をつけろ。天人に触れるときは、必ず布を巻くか、手袋を嵌めるんだ」
「副作用?」
セグランはその言葉の響きに嫌なものを感じた。
「なぜはじめに言ってくださらなかったのですか」
「理由を教えるつもりはない。だから、訊くな。坊、こっちにおいで。セグラン、坊の顔を拭いてやれ」
坊、と呼ばれてキルヴァははっとした。
天人の吐血を浴びた衝撃で一瞬呆然としていた。
「セグラン、ラーク・シャーサが血を吐いた! 苦しそうなのだ、どうすればいい」
「そこをどきなさい」
ジアは取り乱すキルヴァを後ろからひょいと抱き上げて、手袋を嵌め、手拭いをひろげるセグランに預けた。大人しくセグランに顔を拭われながらも、キルヴァは天人から視線を外さない。
「俺は医術師じゃないからはっきりとはわからんが、どうも胸をやられているようだな」
「医術師が必要なら呼んでくる!」
「王子、いまからでは間に合いません」
「やってみなければわからない!」
「いいえ。間に合って、助かっても、存在が知られれば自由を失います。私たちも罰を受けるでしょう。私たちだけではありません、この、なんの罪もないジアも」
「……ッ」
「……祈りましょう」
キルヴァは全身を強張らせ、悔しそうに、辛そうに、ぎりぎりと拳を震わせた。
「……私は、なにもできないのか」
セグランは呼吸を整えた。熱さで集中力が途切れがちになるのを必死に保ち、二度瞬きをして、じっと一点を見据えた。
「……魂魄が、離れかかっております。命が失われていこうとしているのです。せめてあの魂魄を肉体にとどめておけるならば、回復の見込みもあるかもしれませんが……」
「魂魄って、なに」
「……そうですね、わかりやすくいえば、あなたがあなたであることの証……意思や心のことですよ。その力が、命そのものである力と結びついて、肉体に宿り、生命体となるのです。もしこの魂魄と命の結びつきが解かれれば、肉体に宿ってはいられない……つまり、死を迎えるのです」
キルヴァは眼を剥いてセグランの胸元を掴み、揺すった。
「どうしたら助けられる」
「無理です」
「いやだ」
キルヴァは叫んだ。
セグランを突き放し、天人に縋りついて泣き叫ぶ。
「いやだ、いやだ、いやだ! ラーク・シャーサ、死ぬな! 死ぬなッ」
キルヴァは二年前を思い出した。
母と二人で近くの森を散策中に、暴漢に襲われた。あのときも、なにもできなかった。母は自分を庇い、背中から短刀で胸を刺された。血が流れ、母の眼から命が流れてゆくのを見た。静かに、今際の際に一言もなく息絶えてゆくのを、ただ見ていただけだった。
「いやだ」
母の死に際の顔と天人の白い顔が重なる。
キルヴァの眼から涙が流れた。涙粒は天人の顔に滴って、つっ、と頬を滑り落ちる。
「もう誰も、死ぬのはいやだ……!」
「……せめて、この天人の名がわかれば、呼ぶことができるのですが」
「……名?」
「はい。私は医術師ではないので治療はできません。ですが、少しの魔法は使えます。多少無茶をすれば魂魄を肉体に繋ぎとめるくらいは、できるかもしれないのですが……」
ジアは見かねてキルヴァの小さな肩を撫でた。
「坊、いずれ誰もが死ぬ。人も獣も天人すら例外じゃない。生命は神の範疇で、人が手出しをできるものではないのだよ」
「でもいやだ。私は助けたい……ッ、助けたい! 助けたい!! セグラン!!」
助けて、と言われるのを覚悟した。
あのとき――二年前、王妃が非業の死を遂げた現場にセグランはいた。
少し離れて警護していたことが、仇になった。暴漢はその場で仕留めた。だが王妃を助けることはできなかった……。
母上を助けて、と王子はセグランの胸に泣き縋った。母上を助けてセグラン、と……。
結局、かなえられなかったのだけれど……。
そのとき、誓ったのだ。王妃の代わりに、王子をお守りすると。ずっとずっと、この命尽きるまで、お傍にいると。
だが、キルヴァが告げた言葉はセグランの予想を裏切った。
「私を許せ」
言うが早いか、キルヴァは懐から短刀を引き抜き、鞘を払って、セグランが止める間もなくその刀身を左の掌に、横一条に走らせた。
「なにをなさいます!」
「さがれ、セグラン!」
向けられたまなざしのあまりの苛烈さにセグランは気圧された。思わず跪く。まぎれもない、王の瞳がそこにあった。民を平伏させ、従わせる。その力を生まれながらに持つ者だけが有する王者の瞳だ。
逆らえない。
なんて眼だ。
キルヴァは血に濡れた手を天人の唇にかざした。
なにをするのだろう、とセグランすら、その意図がわからない。
キルヴァの血が数滴、天人の口に入った。
キルヴァは自らの唇にも掌を擦り、血で赤く染めて、そのまま天人に静かに口づけた。
あまりの出来事にセグランは唖然呆然とした。頭が真っ白になって、動けない。
「……我の血はそなたの血、我の息はそなたの息、我が心の臓の鼓動はそなたに寄り添い、我の声はそなたに届く。大いなる尊き血を継ぐ者よ、いまこのときより古き名を廃し、新しき名を授ける。我が名はキルヴァ・ダルトワ・イシュリー。汝が名はステラ。しかるべき契約に則り、繰り返す。そなたの名は我のもの、そなたの血は我のもの、我が死しても我のものである」
キルヴァは左手の痛みに顔をしかめながら、セグランを振り返った。
「我が王家の始祖がはじめて迎えた花嫁は天人だったときく。名は、ステラ。はじまりの名だ――相応しいと、思う。だから」
キルヴァは必死に言いつのる。膝が震えて、どうしようもない。こんなにも怖いことを、なぜ独断でできたのだろう。王家の名を使い、王家の血を使い、王家の契約のもとになにかを与えるなど正気の沙汰ではない。
だが不思議と、後悔はない。
怖くて仕方ないが、後悔はない。天人が助かればそれでいいのだ。
いや、ただの天人じゃない。ステラだ。ステラが助かれば、あとの責任は自分が取ればいい。
「名は与えた。次はなにをすればいい。魂魄を肉体に繋ぎとめるには、どうすればいいのだ」
セグランは、覚悟を決めた。王子の決断が誇らしかった。
このさき、なにが起ころうともかまわない。この身がどうなろうとも、王子の望みをかなえてみせる。
救うのだ、なんとしてでも。この天人を。ステラ、あなたを。
今日は大雪。寒いです。
できれば、今夜にでも、新作を投入したいです。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。