セグランの後悔
諸事情により、視点が三人の間をさまよっています。読みにくくてすみません。
「火の(・)天人?」
「ああ、火の(・)天人だ。四種族の天人の内で、二番目に強い種族だ。気性が激しく、好戦的で、強い」
「でも、女のひとです」
「女でも、強い。強さだけでいえば、一番強い雷の(・)天人に勝るとも劣らんと聞いた。ただ、性格が飽きっぽいみたいだな。それから、悪戯好きで、ひと懐こいらしい。常にあらゆる事象に怒り狂っている雷の(・)天人とは強さの根源がそもそも違うのだろう」
ひとことも聴き逃すまい、と真剣に頷くキルヴァの横から、手を休まず動かしつつ、セグランが口を出す。
「随分と天人に詳しいですね。なぜです? いったいどこからそんな知識を得たのですか」
「無駄口は叩かんでいい。できたのか? できたらさっさと寄こさんか」
「もう少しかかります」
「早くしろ。坊、火はもういいからあそこの壁に掛かっている布を手に巻いて縛ってきなさい。身体を拭く。薬を塗る前にきれいにせんと。――手伝えるかね?」
「はい」
「よし、いい返事だ」
ジアも手袋を嵌め、洗って清潔にしまっておいた布を何枚も出した。沢から汲んできた水をたらいに張って、布を浸し、水を絞り、天人の傷を拭う。
ジアの手つきを見てから、キルヴァは真似た。
小さな手で懸命に動く。その必至な様子はジアの憂いをいくぶん慰めた。
彼は、たとえ助けられたとしても面倒を負う破目になるな、と正直考えた。
一介の隠居老人が抱えるには、重すぎる厄介事だ。昔は若いから、それもできた。だがいまは年をとりすぎた。たったひとりでどれほどのことができようか。
「できました」
セグランの声にはっと我に返る。
ジアは邪念を振り払った。余計な迷いがあるようでは、助けられる命も、助けられない。
それからは、ジアの指示のもとすべての傷に擦り込むように薬草を塗った。
セグランが手を出せる範囲で裂傷を縫い、キルヴァが手や足をさすり血行を良くし、ジアが獣を縛る要領で、手際よく、ごわごわした包帯を全身に巻いてゆく。
それから、火に近い環境の方がよかろう、というジアの言葉に従って、手当の済んだ天人を作業小屋に運んだ。同時に運び入れた獣の毛皮を何枚か敷き、その上に寝かせる。
相変わらず、天人の呼吸は糸のように細く、顔色も悪いままだ。
キルヴァが天人のすぐ傍に膝をついて、覗き込むような姿勢で、炎に照らされ明るく輝く美しい顔を凝視したまま呟いた。
「……助かりますか?」
「いまできるだけのことはやった」
ジアは既に汗まみれだった。顎下の汗を手の甲でぐいと拭う。ジアの渇いた喉から、嗄れ声が絞り出される。
「あとはこの天人の生命力次第だ」
キルヴァがセグランを仰ぎ見た。
「手を繋いでいてもいい?励ましたい」
「ずっとここにおられるつもりですか」
セグランは躊躇した。ここは大人の自分でも参るくらいのすごい熱さだ、王子の身体のためを思うなら止めるべきだろう。
だが、セグランはそうしなかった。
「では、いま水筒に入れて水を持ってまいります。まめに飲んでください。その水がなくなったらいったん外に出ること、これをお約束くださいますか」
「約束する」
すぐにセグランは竹細工の水筒に水を入れて持ってきた。ちょうど子供の腕の手首から肘くらいまでの長さがある。簡素だが、軽くて、頑丈で、使い勝手の良さそうな入れ物だ、とすぐにキルヴァは気に入った。
「どうぞ。よろしいですか、決して無理はなさらないでください。私は少々親方と話があるので少しお傍を離れますが、大丈夫ですか」
「大丈夫。……無理を言ってごめんなさい」
セグランはかぶりを振った。懐から手拭いを取り出して、王子の額と頬、顎の下にそっとあてる。
我慢できない熱さだろうに、一言も音を上げない。
それだけでも大した気力だが、加えて、自分の立場をきちんと把握し考慮できるとは、いかに普通の子供ではないといえ、少しできすぎのような気もする。
そうさせているのは、私なのか?
少し考えて、それは驕りだ、と打ち消す。
王子の気性は生来人に、周囲に、よく気を遣う。その繊細な心に、王の子であるという精神的な圧力をかけられ、常に正しい立場、正しい選択をしなければならないと、自ら言い聞かせているのだろう。だから、それに反するような行動は後ろめたく感じてしまい、時折こんなふうに俯いてしまうのだ。 セグランは王子の汗ばんだ小さな手をすくい、軽く握った。
「無理なときは止めます。私が止めないときは無理ではないのです。それは私が判断いたします。ですから王子は、本当はもっと我儘をおっしゃってくださってもよろしいのですよ」
戸惑いするキルヴァに微笑み、一礼してからセグランは立ちあがった。
外に出ると、ちょうど薬湯を取りに庵へいっていたジアが引き返してくるところだった。
太陽は、既に傾いている。時刻は日没まであと二バーツ(一バーツは六十ハイト)というところだろう。もうここにいられる時間は残り少ない。
「お話が」
「なんだ」
「間もなく、私たちは帰らなければなりません。大変心苦しいのですが、あとをお願いできますか」
ジアはフガフガと鼻を鳴らし、悪態をついた。
「言われんでもわかっとる。だが、やすやすと引き受けるわけではないぞ。あれは、恐ろしい生き物だ。本当なら俺は二度と関わり合いを持ちたくない。いまだって、坊があれほど一生懸命でなければそこいらの沢にでも捨て置きたいくらいだ」
「……二度と、とは、やはりはじめてではないのですね。そのお話を伺ってもいいですか」
ジアは、今度ははぐらかさなかった。
深く吐息し、淡々と話しはじめる。
「もう二十年近く前、同じように怪我した天人を助けたことがある。人生五十年というのに、俺はもう七十の齢を越え、この人生の内で二度も天人と関わるはめになろうとはな。これもなにかの縁なのか」
一度でも滅多にあることではない。天人は文字通り天に住み、人間世界には関わらない生き物である。昔、しばらく一緒に暮らした天人はそう言っていた。
「あのときは、運よく助けることができた。だが、今度はどうか……正直なところ、自信がない。怪我の度合いが重すぎる。あの裂傷では流れた血の量も相当なものだろう。まあ、あのときと違ってさいわいなのは、天人に効く薬草があるということだな」
「さっき煉っていた、あの薬草ですか」
ジアは首肯した。ふーっと、疲労の色の濃いため息をつく。
「以前、やはり怪我した天人の命を救ったことがある。あれは風の(・)天人で、俺が山で見つけ、俺が看病した。いままで誰にも話したことはない。あれもそう望んだし、俺もその方がいいと思った。天人の存在自体は秘密でもなんでもないが、直接関わったとなると、国の機関がうるさいことを言ってくるかもしれん。場合によっては、口を封じられるか、もしくは幽閉されただろう。いや、いまだってこの話がばれたら、俺はきっと連れていかれる」
「どうしてです」
「普通知っちゃあならんことを、知っているからさ。これはあとで聞いて知ったんだが、天人ってやつは、嘘をつけない生き物だ。話したくないことは話さなくてもいいし、答えたくないことには沈黙を押し通すこともできる。だが、偽ることはできん。それに、命を救ってくれた者には忠誠を尽くす義務があるらしい。だから俺が質問したことには、答える必要があったというわけだ。当時は俺も若かったし、好奇心も手伝って、つい色々なことを訊いた。だが、多くのことを知っていくうちに、段々怖くなってきた。ようやく、これは俺なんかが聞いていい話じゃない、と気づいたときには遅かった。たぶん、いまでも俺は天人の生態について詳しく知る数少ない人間のひとりだ。おまけに、あれの名を知っている」
「知っていると、どうなのです」
「呼べる。言ったろう、忠誠を尽くす義務があると。俺はあれを呼べるし、使える(・・・)。それがどういうことかわかるか?」
「……使える、とは、まさか天人の力を使えるのですか?」
「正確には、あれを従えることができるということだ。俺が怖くなった理由がわかるだろう?天人ひとりの力がどれほどのものなのか、あれを意のままにいうことをきかせることができるとはどういう災いを招くのか。さいわい、俺はそれがわからないほどの阿呆じゃなかったからな、ずっと黙っていた」
セグランはぶるっと震えた。汗が冷えたからではない、これは戦慄だ。
「なのになぜ、いま私に話すのです」
「話しておかなければならんと思ったからさ。あの火の(・)天人を本当に助けることができたとしたら、それは誰の力なのか、俺には判断がつかない。おそらくそれを決めるのは火の(・)天人本人だろう」
危惧していたよりはるかに深刻な事態だ、と今更ながらセグランは思い知らされた。
ジアは最後にできるなら誰にも告げずにいたかった秘密を打ち明けた。
「俺は、風の(・)天人から聞いた話をまとめてある。そのためにだいぶ時間をかけて文字まで覚えたんだ、なかなか苦労したぞ」
「待ってください。その書の在り処は教えないでください」
「ああ、いまは言わない。だがもし俺がいなくなったあとでそれが必要となったときは、この敷地のどこかを探せ。おまえなら、みつけられる」
不意に、どっと疲れを感じ、セグランは地面に片膝をついた。地面を指で掻く。激しい後悔に襲われた。
なぜ、星を拾いに行こうなどと言ってしまったのか。
なぜ、天人を助けてしまったのか。
「……私は、大変な間違いをしてしまったのではないでしょうか。王子にとって禍をもたらすことになりはしないでしょうか」
ジアの節くれだった大きな厚い手が、セグランの肩にそっとおかれる。
「それはそのときになってみなければわからん。だが、たとえそうなったとしても、その時々で最善を尽くした結果ならば受け入れるしかあるまい。俺は、この七十年ずっとそうして生きてきた。おまえに真似しろとは言わんが、おまえがそうしてがたがた騒いでいたんじゃあ、坊は不安になるんじゃないか? 先のことはわからんよ。いまはただ、できることをやるだけさ」
セグランはジアの思いやりに満ちた声の叱咤に目頭が熱くなった。
乱れた気持が、鎮まってゆく。
自分の判断は、間違っていなかった。ここへ来てよかった、と、思ったそのとき――。
作業小屋でキルヴァの悲鳴が上がった。
もう少しで、第一章が終了します。このあと、小さなキルヴァが決死の覚悟で頑張ります。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。