表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天人伝承  作者: 安芸
第一章 絶対の秘密を持つということ
2/82

天人

 天人てんじんと読みます。天使じゃないです、念のため。

 

 セグランはすぐさま異変に気がついた。

 シュイの湖はオーラン山脈の雪解け水と地下水脈が流れ込むため、波が立たないことはない。

 だがいま湖面は磨き上げられた鏡のように平らで、歪みひとつなく、柔らかな朝の光を反射して輝いている。

 なにかが、おかしい。

 湖に飛び込む寸前、湖岸に眼を走らせたがこれと言って不審なものは見あたらなかった。

 それがわかったのは、水に身を躍らせてからだった。

 身体を万力で押しつぶされるような水圧に襲われた。束の間呼吸ができなくなり、手足が大きく痙攣する。そのまま沈めば、二度と浮上できなかったであろう。

 だが同時にこの湖に仕掛けられたからくりがどんなものなのか、だいたいの想像がついた。

 セグランは眼を瞑り、身体から一切の力を抜いて、呼吸を細く、細く、整えた。心臓の鼓動数と呼吸数を合わせ、気で辺りを撫でるように探った。

 ……どこかに、水の力を抑えている原因があるはずだ。

 慎重に、だが素早く探ってゆく。見つからない。どこだ。どこにある。

 ……まずい、意識が遠くなりかけてきた。このままでは溺れてしまう……。

 と、そのとき、キルヴァ王子の叫び声が聞こえた。自分の名を呼んでいる。

 セグランは気力を振り絞った。こんなところで死んではいられない。王子をひとりになどできない。決してひとりにしないと、あの日、私は誓ったじゃないか。

 ……あった。あれだ。

 ちょうど、天人が浮いている場所の真下の湖底に赤黒い青銅の短刀が打ち込まれていた。その刃から、ただならぬ気配を感じる。

 セグランは水面に顔だけ浮かべた。視界の隅に、王子が映る。様子がおかしいことに気がついたのだろう。隠れ場所から飛び出してきて、湖岸に膝をつき、地面に爪を立て、前のめりになって、必死のまなざしでセグランを見ている。

 身体がちぎれそうな痛みをこらえ、セグランはすう、と息を吸った。

「……水よ、水よ。我の声を聞け、我が声に答えよ。私の肉は水でつくられ、私の命は水に還り、私の 魂は水を廻る。さればいま、水の中にあって自由を得るは自然の理なり。我を開放せよ、我を開放せよ、我を邪なる戒めより開放せよ……」

 ふと、身体の自由が利いた。

 セグランはこの機を逃さなかった。大きく息を吸い、止める。そのまま身体を捻って、昼なお暗い湖底を目指した。

 柄を握り、短刀を一気に引き抜く。その途端、湖に張り巡らされた魔法は不意に消滅した。

 セグランは翼をひろげたまま、斜め仰向けに漂う天人のすぐそばに浮上した。湖に小波が戻っている。

 もう動かしても大丈夫だろう。

「セグラン、大丈夫?」

「はい、ご心配をおかけしました。ただいま戻りますのでもう少しお待ちください」

 キルヴァが蒼褪めた、いまにも泣きそうな顔で無理に笑顔をつくってみせる。相当怖い思いをしたに違いない。だがそれでも、気丈にふるまうところはさすがに王の子だ。

 セグランは短刀を口にくわえ、考慮の末、天人を曳くように岸へと運んだ。

 この命がけの救助も、物語のはじめにすぎなかった。


「この者を、助けたいですか」

 なにを今更、と思った。はじめに手を出したのは自分ではないか。

 それでもセグランは訊かねばならなかった。

 満身創痍で蒼い血を流しながら横たわる天人を、食い入るようにみつめていたキルヴァはぼんやりと顔を上げた。

 瞳がすっかり竦みあがっている。

 天人を見るのも初めてならば、その人とは違う生き物がいままさに死に瀕している場に遭遇したのも初めてなのだ。恐ろしく思わない方が、どうかしている。

 キルヴァがこっくりと首を縦に振った。

「助けたい」

「あとから面倒なことになるかもしれません。それでも助けますか?」

「面倒って、なに」

 セグランは跪いて、キルヴァの小さな手を押し戴いた。

「王子、あなたは子供です。だが、なにもわからない子供ではない。違いますか」

「私は王の子、だ。それはわかっている。けど、セグランがなにを言いたいのかわからない」

「簡単にご説明します。私の話をきちんと聞いてから、さきほどの質問にもう一度答えてください」

 セグランは天人に眼をやった。

 湖から引き揚げたものの、陸に上げた天人は死にかけている。全身に及ぶ裂傷からは蒼い血が溢れ、大きく盛り上がった豊かな白い四枚の翼は水に落ちた衝撃で薄紫に変色し、そのうちの一枚は火傷痕のような蒼い深い傷が一条、くっきりと残っていた。

「湖には、魔法がかかっていました。おそらく天人を捕えるためのものと思われます。あの天人の怪我は魔法の罠によるものなのです。何者かが、理由はわかりませんが、天人を必要とする何者かが、仕掛けたのです。おそらく中級以上の高位の魔法使(まほうし)の力が働いています。そして我が王の直轄の領土内で、無断でこんな暴挙がはたらけるわけがありません」

「……父上の、命令ということ?」

「……わかりません。ただ、無視はできません。もし王命だとすれば、いまあの天人を助けてよいものかどうか。この場は助けて、王に報告しご判断を仰ぐのであれば、それはそれでよろしいでしょう。ですがそうした場合、あの天人の命は王のものとなります。自由は奪われ、おそらく天へは帰れますまい」

「そんな……そんなの、かわいそうだ」

「この者を、助けますか……?」

 王家の血を受け継いだという証の翡翠の双眸がキラッと光って、その固い意志を示した。

「助けて。そして父上には秘密にしよう。ううん、誰にも秘密だ。私と、セグランだけの二人だけの絶対の秘密だ」

 それは、極めて危険な賭けだ。

 既に魔法の罠は解いてしまった。短刀は抜いてしまったし、湖には天人の血も流れている。もしうまく痕跡を残さぬようこの場を立ち去ったとして、どこにどうして天人を匿える?

 だが、これ以上は時間の無駄だ。せっかく助けた命も無駄になってしまう。

「わかりました」

 セグランは首肯した。拳を握った左右の手首を交差し、重ねて、頭を垂れて額を押しつける。神聖な誓いを約するときのための姿勢だ。

「セグラン・リージュ、王子と秘密をともにすることを、ここに誓います」

「うん」

「さあ、では急いでここを去らなければ。私は地面に滴った血の痕に土をかぶせてきます。

 王子は王宮の方角を見張っていてください。なにか見えたらすぐに知らせてくださいね」

「えっ。手当は? 痛そうだよ。早く、血を止めてあげないと……」

「ここでぐずぐずしていては危険です。大丈夫、私が助けを求められる相手をひとり、思い出しました。あそこなら山奥なので見つかりにくいし、人里からも離れている。治療も養生もできるでしょう」

「間に合う……?」

「やれるだけ、やってみましょう」

 だめかもしれない、とはセグランは言わなかった。

 あまりに多くの血が流れた。だが、相手は人ではないのだ。天人の生命力がどれほどのものなのか――いまは賭けるしかない。 


 王子が小さいです。けなげでかわいいです。

 あと少し、幼少期編が続きます。

 引き続きよろしくお願いいたします。

 安芸でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ