勇者と魔王帰還する
俺と磨上と神原は、王城まで帰還した。飛行してだ。神原もレベルが11になり、めでたく飛行魔法を覚えたのだ。まぁ、最初は飛ぶのって怖いからな。低い高さをゆっくり飛んで行ったよ。
三日掛かって王都に戻ると大騒ぎだった。魔気が消えたことで王都でも魔王消滅は分かっていたらしい。本当にお祭りになっていたな。
俺たちは国王に謁見して大々的に勝利を祝福された。多くの貴族の並ぶ中で勲章を受けると、続けて王都を無蓋馬車に乗ってパレードした。王都中の人々がこぞって勇者一行を讃えるためにパレードの周りを囲んだ。花吹雪が舞い散り、太鼓やラッパの響きと大歓声が俺たちに降り注いだのだった。
その晩、俺たち三人はドレスアップさせられて戦勝の宴に招かれた。俺は深緑色の夜会服。磨上は漆黒のドレス。神原はオレンジ色のドレスだ。俺たちは大勢の貴族に祝福され、歓待された。世界を救うと毎回こんな感じだが、何度やっても良いものだな。
「ふん。呑気な連中じゃ」
漆黒の生地に金色の刺繍が豪奢に施されたドレスを見事に着こなした磨上はワインをグラスでグイグイと呑みながら言った。
「魔王軍に荒らされた地方を復興する算段はついておるのか? 魔王城の周りは人間は死滅しておるし、動物さえもいなくなっているのじゃ。放っておけば荒廃してしまう。早急な対策が必要なんじゃがの」
「まぁ、今日ぐらいは良いじゃ無いか。俺たちの勝利を祝ってくれているんだ。楽しまないと」
「馬鹿者。政治に一日くらいなどという甘い考えが通るものか。今日の勝利を明日の繁栄に繋げられぬようでは、国は統治出来ぬ」
磨上は厳しい口調で言った。うーん。確かに俺は政治のことは何も分からないな。長くて五年以上、俺は異世界で過ごした事はあるんだけど、その間俺は一勇者として戦い続ける事しかしていなかったからな。
俺が異世界で魔王を倒すと直ぐ帰ってしまうのは、異世界に残ると姫と結婚して王になれとか、貴族になって領地を統治しろとか、そういう明らかに分不相応な面倒事が降り掛かってくるので、それから逃れるためでもあるんだよ。
磨上に言わせれば、勇者は一戦士だが、魔王はその名の通り「王」なので、政治が出来なければやっていけないのだそうだ。魔物、魔族は時には人間以上の数になるので、それを好き勝手に争わせて弱肉強食のままにしておけば統制など取れず、人界の侵略など出来ないのだそうだ。
それ故、弱い魔物には食料を供給し、強い魔物には弱い魔族を襲わないように命じる必要がある。そして、無秩序な侵攻は勇者に各個撃破の機会を与えるだけになるから、計画的に慎重に魔の領域を広げて行くのだとか。
「それでも、勇者は基本的に存在自体がチートじゃからな。レベルが低くても油断出来ぬ。どんな特殊スキルをもっているか分からぬ故」
一対一なら絶対に負けないと自負する磨上でも、勇者がパーティを組んでいる時は油断出来ないのだそうだ。勇者は共通してパーティメンバーの能力を底上げするスキルを持っているから、勇者に率いられたパーティが有機的に連携して戦うと、本来のレベルの数倍の強さを発揮する場合がある。
これは俺にも覚えがあるな。俺は最初の方は神原と同じく低レベルだったのに、二回目に強くなった魔王にも勝てたのは、やはり仲間の存在が大きかった。レベルが上がるにつれて舐めプして仲間を連れて行かなくなったけど、磨上と再対決するなら信頼出来る勇者パーティを組んで戦う事になるだろうな。
なるほど。このクソ強い磨上が俺との戦いの時に、あんなに慎重に俺を弱らせたわけだ。今回の魔王サーベルとの戦いでも、最初から神原を抱えて突っ込めば良かったのに、道中ずいぶん歩いたのは遊んでいたというのは勿論あったのだろうが、慎重に魔王軍のレベルや戦力を測っていたのだろうな。
圧倒的なレベル、強さに加えて、身体能力も頭も良く、更に油断もしない。
うん。勝てるわけ無い。俺は出来れば磨上とは二度と戦いたくないね。まぁ、勇者と魔王とでまた対決することになったら逃げるつもりも負けるつもりも無いけどな。
オレンジ色のドレスを着た神原は、なんだか凹んでいた。どうした。
「だって私、讃えられるほど何もしてないもん」
茶髪ツインテールをしんなりさせて俯いてしまう。
「戦いでも知識でも何にも役立ってないじゃない。終いには磨上先輩に気絶したまま運ばれる始末。勝った勝ったと喜ぶ気には到底なれないわよ」
それ言ったら俺も同じだけどな。磨上のおこぼれで多少は戦ったけど、俺要らないよな? 状態だった事は間違い無い。だが、言っとくが俺に引け目なんてないぞ。
「俺たちがいなければ磨上が暴走して、下手をするとこの世界は消滅していたかも知れないし、磨上が魔王側に寝返って魔界落ちしていたかもしれないだろ。俺たちがいた意味はあったんだよ」
「それは、カズキは磨上先輩の彼氏だからそうかもしれないけど、私は完全に足手だったじゃない」
「別に俺は磨上の彼氏じゃ無いぞ?」
俺が否定すると、神原は呆れたような顔をした。
「まだそんな事を言ってるの? 正気なの? 馬鹿なの?」
馬鹿っていうな。断じて俺は磨上と付き合ってなんていない。彼氏彼女の関係じゃ無い。魔王と勇者の関係だ。……女王様と下僕じゃ無い事を祈りたい。
「はぁ、磨上先輩も苦労してるのね」
神原はやれやれという感じで両手を広げた。
「随分、仲が良さそうではないか」
ゾッとするような声色の声に俺と神原はヒッと振り向いた。そこにはグラスを持って微笑む、真っ黒な魔力を垂れ流しながら笑う磨上がいた。格好も相まってもう完全に魔王だな。
「まて、魔力を漏らすな! 会場の貴族が死んでしまうだろ!」
「落ち着いて下さい先輩! 大丈夫です! 私は先輩をぜっっつたいに裏切りませんから! ええ! そもそもカズキなんて好みじゃないですし!」
……くっ! 俺は流れ弾に大ダメージを喰らって思わず膝を突いた。それを見て神原が慌てる。
「えっと、違う! 勇者としては尊敬しているわよ! でも、彼氏にするには華が無くてごめんだというか、もうちょっとイケメンのがいいというか」
……下級生の女子に、ナチュラルに容姿をディスられて、俺は項垂れた。神原とはちょっとは仲良くなれたと思っていたのに。やっぱり女はイケメンが好きなのか?勇者でもイケメンに限るなのか? そうなのか? だから彼女が出来ないのか?
く、くそう! やけ酒や! 俺は手近なテーブルにあった蒸留酒を一気飲みした。呑んだこともないから一気に酔いが回って足下が怪しくなる。そんな俺の後ろで神原の悲鳴が上がっていた。
「ち、違うんです! 磨上先輩! 別に先輩の彼氏をディスった訳じゃ無くて! 違うんです! 止めて! お仕置きは止めて! に、にやぁぁあああああ!」
◇◇◇
そうして、俺たちは異世界から元の世界に帰還した。
送還の魔法を使う時にはちょっと揉めたんだけどな。国王やその周辺がかなり強固に「せひこのままこの世界にいてほしい!」と頼みこんできて、送還魔法の儀式を行うことを渋ったのだ。
磨上が言った、魔王に占領されてきた辺りの統治もそうだし、魔王軍の残党狩りをして欲しいというのもあるようだったな。でも、魔物は魔法の核が無くなっているのだから、暫くすれば弱体化して動物と変わらなくなるはずだ。悪魔型や魔族はもう消滅している筈だし。
あまりにしつこく引き留められて、磨上がキレて王城の塔を一つ吹っ飛ばしてしまった。
「これ以上我の行く手を邪魔するなら、今度は我が魔王になってやろうぞ」
と魔王そのものの様子で宣告されて、国王は慌てて帰還を許可し、無事に俺たちは元の世界に帰還したのだった。
「やり過ぎだぞ!」
「あのタヌキ親父はああでもしないと帰還に同意しなかったじゃろうよ。大方、三人分の帰還に必要な魔法石を惜しんだのじゃろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるのは政治家の典型じゃ」
俺と磨上は例の不良どもをやっつけた直後の路上に戻っていた。装備は送還魔法の魔方陣に乗る前に制服に戻していたから、本当に元通りだ。一秒だって経過してはいない。日が傾き掛けている。さて、あの日は何をするつもりだったんだっけな、と暫く考えちまったよ。
「とりあえず飯じゃろう。ジャンクなものが良い」
磨上が言って俺も同意した。そうだな。香辛料とか化学調味料をたっぷり使った食べ物が食べたい! 異世界の食べ物、特に冒険の道中で手に入る食料は、恐ろしく味気ないか、むやみにしょっぱいかのどちらかだからな。
俺と磨上はチェーンのバーガーショップに入った。二人してハンバーガーを三つとコーラとポテトを山盛り頼んだのを見て周囲の人間がざわついていたけど構うものか。俺と磨上がトレーを持って席に陣取り、さぁ喰うぞ、となったその時。
「あー!」
っという声が聞こえた。ん? なんか聞き慣れた声だぞ?
「せ、先輩! えーっと、こ、この間はどうも!」
見上げると、茶髪ツインテールの頭がペコペコと上下していた。ああ、そういえば同じ高校の生徒だったな。
「お前も無事に帰れたのか。神原」
「ええ。一瞬何をやってたか忘れてて焦ったけどね」
見ると、店の隅の方の席で女生徒の集団が目を丸くしてこちらを見ていた。騒然としている。あれは恐らく、学校の有名人である磨上に神原がいきなり声を掛けに行ったのに驚いているのだろうな。
「お腹が空いて、いきなりハンバーガーを追加注文したからみんなに不審がられちゃった」
「気を付けた方がいいぞ。お前ももうレベル11で、こっちの世界での常識に当てはまらない存在になっているからな」
咄嗟の時に力が出すぎたり、異世界の常識が出てしまったりするからな。食欲もそうで、異世界では歩くし戦うからもの凄く腹が減るんだよ。神原も異世界ではめちゃくちゃ食べてたからな。あの調子で食べたら女子高生仲間は驚くだろう。
他にも、衛生観念とか倫理観とかが異世界と日本では全然違うのだ。俺は前に、落としてしまったパンをホコリを払って普通に喰ったら周囲の連中が驚愕した事がある。いや、異世界で落としたくらいで食料捨てるわけにはいかないんだよ。
「それと、お主ら。魔力を使わぬよう気を付けるのじゃぞ」
磨上が不機嫌そうにコーラをズズズっと飲みながら言った。
「魔力でズルをしないようにって事ですか?」
「それも有るが、この世界で魔力を使っていると、異世界の召喚魔法に引っ掛かり易くなる。あれは別の世界の魔力を感知してたぐり寄せる魔法じゃからの」
俺と神原は驚いた。そ、そんなシステムだったのか!
磨上が俺にしつこく魔力の使用を戒めていた理由がようやく分かった。そして磨上に負ける前にあんなに頻繁に異世界召喚を受けていた理由も分かった。磨上に負けて以降は落ち込んで、勇者である自信を失ったせいで魔力を何となく使っていなかったのだ。磨上にこの世界で会ってからは磨上に厳重に禁止されたし。
「今回はカズキがあの馬鹿どもとの戦闘や回復で魔力を使ったせいで召喚魔法に引っ掛かったのじゃろう。本来は異世界の出来事は、異世界の連中が始末を付けるべき事。何も我らが召喚に応じて苦労する義理はない」
磨上は冷たくそう言い放った。そうは言ってもな。俺は異世界の連中が滅亡しそうで困っているのなら、戦う事ぐらいはしてやりたくなっちゃうんだけどな。魔王を倒すことは勇者の俺にしか出来ない事なんだから。
俺と神原はSNSのアドレスを交換した。磨上はSNSをやっていなかったので電話番号だけを神原に教えていたな。神原的には俺はついでで、何とか学校の有名人である磨上と連絡先を交換したかったのだろう。えらくご機嫌で仲間のところに帰って行った。
磨上はフンっと鼻息を吐いた。
「神原はもう異世界に行かぬ方が良いな。あれでは質の悪い魔王と戦う事になったら勝てぬだろう。レベル11では消滅してしまうからな」
おや? 口調に心配するような響きがあるな。珍しいこともあるものだと俺が驚いていると、磨上に睨まれた。
「一応は一瞬とはいえ、パーティを組んだ仲じゃからの。心配するのは当然じゃ。勿論、敵として立ち向かってきたなら容赦はせぬが」
磨上は豪快にハンバーガーにがぶりと齧り付くと、もぐもぐと咀嚼しながら更に言った。
「其方もじゃ。カズキは甘過ぎる。そんな事では我には勝てぬぞ」
……そりゃ、甘い甘くない以前に磨上には勝てないよ。レベルがどうのという以前に、ありとあらゆる面で敵うわけが無い。
だが、勝敗を最初から諦める訳にはいかない。俺は勇者なのだから。
「磨上と敵対する気は無いけど、戦うとなれば何とか勝ってみせるさ」
「ふむ。その意気やヨシ。それでは当面、今週末のテストで我に勝って見せよ」
「いきなり無茶振りすんじゃねぇ!」
この世界の話はしてねぇ! 勉強で磨上に勝てるわけが無いだろうが! そもそもテストで磨上と勝負なんてしてねぇし! それにかれこれ二ヶ月も異世界に行っていた間、そういえばいつも通り一回もテスト勉強なんてしてねぇ!
「愚か者が。まぁ、カズキはその愚か者具合が良いのじゃがな」
磨上はそう言うと、フフっと笑って俺を見上げた。それは何というか、魔王でも優等生でも無い、普通の、可愛い女性の、無防備な笑顔に見えて、俺は思わず顔を赤くして口をつぐんでしまったのだった。
◇◇◇
元の世界には色々良い所はある。
飯が美味いのはそうだし、ベッドも異世界のそれとは寝心地が比較にならない。エアコンで暑さ寒さに悩まされる事もないし、シラミだとかノミだとかもいない(魔法で防御出来るようになるまでは結構大変だった)。
もちろんだけど魔物がおらず、夜に安心して寝られるのも利点だ。異世界で魔物に怯えずに寝られるのは王都くらいなのが普通なのだ。
なので俺は生まれた元の世界が好きだ。異世界で不便を感じてからはより好きになった。昔は良かったとか江戸時に戻るべきとか言っている奴は一回異世界の農村に叩き込んでやりたい。腹を壊さず飲める水と清潔なトイレがどれほどありがたいか、実感させてやりたい。
反面、毎日早起きして学校に通い、そこで受けたくもない授業を受けて勉強し、あまつさえテストの点数で順位付けされるなんてのは、異世界には無い悪しき部分だと思う。
学校の勉強など生きて行く上でそれほど使うアテも無いのであるから、そんなものはせずに大人になったらいきなり仕事に関する経験を積む事になるらしい異世界の方式の方が正しいんじゃないかな。
「また馬鹿な事を言っておるな。カズキは」
俺がぼやいていたら、隣を歩く磨上が冷たい顔で俺を睨んだ。
「異世界の連中は、学びたくても学べないのだぞ? 子供は親の職業を継ぐのが義務じゃ。親が樽作り職人なら樽作り職人、牢獄の門番なら牢獄の門番になるしかない。其方はそんな未来が納得できるのか?」
……確かに、選択の余地がないのは嫌かなぁ。ある意味楽ではあるんだろうけど。
「其方は異世界では勇者として良い思いをしておるから、異世界を美化しているだけじゃ。異世界にこの世界よりも優っている部分など一つもあるものか」
そりゃ随分極端な意見だな。あるよ。異世界にも良いところは。俺的には魔法やスキルを使い放題な所はいいと思う。この世界でそんな事をしたら大騒ぎになるし、磨上の話では魔力感知に引っ掛かり易くなって、すぐに異世界召喚されてしまう事になるらしいからな。
俺がグズグズブーブー文句を言っているのは、定期テストが近いからだった。磨上との勉強会のおかげで俺の成績は上がってはいたが、それでもテストはテストで憂鬱であるのは間違い無い。年を越して俺たちはもうすぐ高校三年生。そうなると進学の事も色々決めなきゃいけないしな。
磨上はぶっちぎりの優等生で、そろそろ行われる生徒会選挙で、生徒会長に推す動きもあるようだ。魔王としての統治経験豊富な磨上なら簡単にこなしてみせるだろうけど、うちの高校を魔界にされても困る。
俺と磨上がこの世界で出会ってから、もうかれこれ四ヶ月。異世界で一緒に旅したのを含めれば付き合いは十ヶ月近い。いいかげん。おれは磨上に慣れ、周囲も俺と磨上の関係に慣れたようだ。いや、そっちは慣れられても困るのだが。
つまりは、俺と磨上は理由はよく分からないがカップルであり、付き合っていて彼氏彼女の関係なのであり、全然お似合いではないけどもいつも一緒にいる関係なのだ、とクラスメートも学校の他の連中も認めたのである。
うちの高校や地域のガラの悪い連中が、なぜか磨上と俺を恐れている、という噂も広まっているようだった。まぁ、いつもは我が物顔で駅前とかでたむろしているあいつらが、俺と磨上が通りかかると慌てて逃げて行く訳だからな。
そんな感じで、俺と磨上は学校中の公認を受けた状態で、昼食は一緒に食べるし、毎日一緒に帰るという、客観的に見るとそれってリア充そのものですよね? という関係になっていたのだった。
「ふむ。そろそろ関係を進めても良いのではないかのう? カズキよ」
磨上は俺の腕を抱いて豊満な胸を押し付けつつ、俺の尻に手を伸ばしてきた。尻を揉むな尻を! それでもこいつの倫理観の爛れっぷりからすると控えめなお誘いであるからすごい。異世界では何度か夜這いを喰らって組み伏せらたからな。
「この我の誘惑を跳ね除けられるなど、おかしいのではないか? 不能か? 其方」
やめろ! 前はやめて! 危ないから! 不能じゃなくて危ないから! 暴発したらどうするんだ! 正直、磨上の甘い匂いを嗅ぎながらの、彼女の胸の感触はもう色々限界でやばいんだから!
俺はなんとか磨上の手を防御して引き剥がした。磨上は異世界から帰って以来、こんな感じで俺をガンガン誘惑してくるのだ。人前でも結構お構いなしで。くくくっ……結構辛いのだ。若い健全な男子高校生としては。
ただ、磨上の家で二人きりで勉強会をしていて、押し倒された事はないな。磨上の能力で本気で押し倒されたら、俺は抵抗出来ないと思うんだけど。
してみると、やはり磨上は本気で俺に迫っているのではないんだろう。迂闊に俺がその気になった瞬間に態度が豹変して「我が其方などに懸想する筈がなかろう。思い上がるでない」と怒られるパターンだろうな。そしてその事を餌にして俺を魔界へと引き摺り込むつもりなのかも知れない。
そ、その手には乗らないぜ、俺は勇者だからな!
「ふん。ヘタレ勇者め」
磨上にはそう一刀両断にされるけどな。悪かったな! ヘタレで悪かったな!
その日は駅近の磨上の住んでるタワマンまで来てお別れの筈だった。今日は家に親がいるからという事で勉強会は無しになったのだ。
「不安じゃのう。カズキは家に帰っても勉強せんのじゃろうからのう」
失礼な。流石に定期テスト前の今はやってるよ。……多少は。心配なのは俺も心配ではある。一人で勉強するよりは磨上と勉強した方が覚えがいいのは間違いないからな。
それと、ちょっと気になる点があった。磨上は勉強会をしない時、つまり今日のようにこのマンション前で別れる日は、結構あっさりと俺の腕から離れ「じゃあの」と言ってマンションの中に歩き去って行くのが普通なのだ。
それが何だか今日はグズグズしている。帰りたくないという感じで俺の腕を掴んだ手がなかなか離れない。
そういえば。俺は思い出すが、親がいるから、という理由で勉強会が無くなったのは初めてだったかもしれない。もしかして……。
「帰って親に会いたくないのか?」
俺が当て推量で言うと、磨上が珍しくギクっと身体を震わせた。表情が少し強張っている。いつも余裕のある磨上がそんな顔をするのは本当に珍しい。
「……もしかして、あんまり親と話した事がない?」
「……本当に、余計なところでは勘が鋭いのう。お主は」
磨上は俺をギロっと睨んだが、俺の言葉を否定はしなかった。
「いつも、親が帰ってくる頃には我は寝ておるからな。朝も親の方が早い。会話なぞ、ほとんどない」
……こんなタワマンに住むんだから、磨上の両親もお仕事大変なんだろうな、と思っていたけど想像以上だった。それが珍しく早い時間に帰宅しているので、親と顔を合わせなければならないので気詰まりらしいのだ。
うーん。と俺は考え込む。普段会話が無いんだから、珍しい機会にしっかりと話をして親とコミュニケーションを取るべきではないか? と思うと同時に、珍しく弱みを見せた磨上がなんだか可哀想で、なんとかしてやりたいという気もする。何せ俺は勇者だから、弱い者に弱いのだ。
散々考えた末にだが、俺はうっかりこう言ってしまった。
「帰りたく無いなら家に来るか?」
その瞬間、磨上の目がギラっと輝いた。
「行く!」
……まずった。これは絶対にまずった。
◇◇◇
一度言った事は撤回出来ず、俺は磨上を連れて磨上の家から十分ほど先の俺の自宅に帰るハメになった。どうしてこうなった。
磨上は非常に機嫌が良かった。足取りが弾むように軽い。
「ようやく其方の家に行けるのじゃからな。楽しみじゃ」
そんなに面白いところじゃないぞ、俺の家は。普通の郊外の一戸建てだ。磨上の自宅の高級タワマンの方がよほど凄い。
二階建ての何の変哲もない住宅。庭なんて程んど無い。異世界の農家の方が三倍くらい大きい。しかし、磨上は「ほほう、立派な家ではないか」と褒めてくれた。
ここまで連れて来ておいてなんだが、気が重い。俺の母親は今どき専業主婦だし、中学三年生の妹はこの間部活を引退したから家にいるはずだ。つまり、母親と妹がいる家に磨上を上らせなきゃいけない。
これは気が重い。普通の同級生を連れ帰るのでもそうなるだろうに、ましてや相手は磨上だ。スーパー美人にして優等生の。何を言われる事やら。
しかし期待に目を輝かせる磨上に「やっぱり帰ってくれ」とは言えんわな。俺は仕方無く自宅のドアを開いた。
「……ただいま……」
そーっと玄関に入る。できれば母親と妹には遭遇せずに、このままこっそりと二階の自室に入り込む作戦である。それはそれで女の子を自室にこっそり連れ込むの図でかなりやばい絵面のような気もするけども。
しかし、計画はいきなり頓挫した。ちょうど妹が台所からジュースのペットボトルを持ち、スナック菓子の袋を開けようとしながら出て来たところに鉢合わせてしまったのだ。妹が短いポニーテールを振って俺の方を見た。
「ああ、おかえり兄貴。おやつ、台所にあるから……」
妹の言葉が不自然に切れる。その視線が俺の横を通過しているのが分かった。嗚呼……。
「お邪魔します。妹さん? カズキ君」
他所行きの声色で磨上が言った。誰がカズキ君やねん。
妹の目が限界まで見開かれ、唇が震えだす。そして遂に、妹の口から金切り声が放たれたのだった。
「お、お、お兄ちゃんが! 彼女連れてきたー!」
……三年ぶりくらいのお兄ちゃん呼びである。それはどうでも良いが、俺と磨上は叫び声を聞きつけて飛び出してきた母親によって即座にリビングに通された。な、なんでリビングに?
「他所の家のお嬢さんと二人きりで密室に入れられるわけ無いでしょう! 何か間違いがあったらどうするの!」
と母親に怒られた。誰が間違いを起こすもんか。起こされるならともかく。しかしながら母親は下にも置かぬ扱いで磨上をソファーに座らせ、ジュースを出し、そしてためつすがめつじっくり観察した後、クルリと振り向いて俺に言った。
「本当にあんたの彼女なの? 美人過ぎない? あんたには釣り合わないでしょう。人違いじゃないの?」
それが我が息子に言うことか。俺はやさぐれたが、磨上は非の打ちどころのないお嬢様スマイルで言った。
「人違いなんかじゃありませんよ」
「あら、そう! へぇ! 和樹、あんたもなかなかやるわね!」
そもそも問題として彼女でもないしな。
しかしそんな事はお構いなしに母親と妹は磨上を質問攻めにしていたな。女ってのは遠慮が無いよな。俺は横で居心地悪く座っているしかなかった。
だけどおかげで横で聞いていた俺にも、磨上の両親が会社経営をしている祖父の後継として数カ国を渡り歩いていて、磨上自身もそれに付いてこれまでほとんど外国暮らしであることが分かってしまったんだけどな。既に帰国子女とは聞いていたけど。
そりゃ、両親も忙しいんだろう。大きくなるまではホームヘルパーに育てられたらしいので、両親とは精神的に縁遠いのもやむを得ないのかもしれない。
ただ、それでも磨上はこれまで十七回も異世界に行って、ちゃんと帰って来ているわけだから、この世界に未練がないわけでもないんだろうけどな。
しばらく話している内に、母親も妹もすっかり磨上の話術に巻き込まれてしまっていたな。そして磨上は俺の幼少期からの人生を聞き出しに掛かった。って、ちょっと待て!
俺が止めるのも虚しく、母親と妹は磨上に嬉々として俺の小さい頃からの失敗談を語り始めたのだった。やめろ! 小学生の時に授業中に小便を漏らしたとか、側溝を飛び越えようとして足を引っ掛け、前歯をぶつけて折ってしまったとか、俺の黒歴史を磨上に教えるんじゃない!
母親などはアルバムを何冊も出してきて磨上に見せていた。やめてー! もうやめてくれー! 俺のライフはとっくにゼロだぞ! 磨上はウフフっと悪い顔をしながらアルバムをめくっている。これは、後で俺を揶揄ってやろうと企んでいる顔だろう。
「……随分、怪我をしている写真が多いですね」
磨上がアルバムを見ながら呟いた。確かに、子供の頃の俺は怪我をしていることが多かったみたいだな。写真に残っている。それを聞いて母親が困ったようなため息を吐いた。
「この子はねぇ、昔からトラブルに巻きこまれる性分でね。何かというと怪我をしていたのよ」
磨上が不審そうな顔で俺の事を見上げた。俺は肩をすくめる。
「別に悪い事をしてたわけじゃない。轢かれそうになっていた猫を助けて車に跳ねられたり、犬に襲われそうになっていた女の子をかばったりしてただけだ」
他にもお婆さんの手を引いて横断歩道を渡っていたら、信号無視の原付に跳ねられたり、ひったくりに遭遇して追い掛けたら車に引っ掛けられたりしたのだ。正義感だけは今と同じで強かったんだろうな。
「良く死ななかったね」
揶揄うようにクスクスと笑いながら磨上は言った。そして副音声でこう言った。
『お人好しは昔からか。生粋の勇者なんじゃのう。カズキは』
そうかもしれないな。異世界で勇者をやるようになってから、俺はなおさら正義のために生きようと心がけるようになったしな。
ひとしきり母親と妹と話した後は、しっかり勉強会もやったぞ。母親は感動していたな。
「和樹の成績が上がっていたのは洋子さんのおかげだったのね! ありがとう!」
「あ、兄貴が勉強をしてる!」
妹は驚愕していたな。おいおい。俺だって一応は勉強はしているぞ? 自分の部屋でな。
母親も妹も「ぜひ食事をして行って!」と誘ったのだが、磨上は今日は親がいるからと断って帰宅した。母親の命令で一応はマンションの入り口まで送った。必要ないと思うんだけどな。
「良い母上と、妹君ではないか」
母上と妹君ってガラじゃないけどな。
もう真っ暗な路地を歩きながら、磨上の機嫌は良さそうだったが、何となく寂しそうにも見えた。俺に、磨上は親とうまく行っていないという先入観が出来てしまったせいかもしれないが。
磨上はまず弱みなど見せない女なので、それが珍しく自分の家族関係に関しては動揺が見えるのが気になるところだった。魔王らしくない。
マンションの前まで来ても、いつもみたいにあっさり離れず、グズグズしている。俺は磨上の背中をポンと叩いた。
「珍しく親と食事なんだろう? 頑張れ。うまくやれよ。また家に遊びに来ても良いからさ」
磨上は頬を膨らませて俺を睨んだ。暗い中でも頬が赤いのが分かる。睨まれているのに恐ろしくはなかったな。磨上に本気で睨まれたら普通の人間なら生物的に死にかねないんだが。
「カズキのくせに生意気な。其方に励まされるとは我も堕ちたものじゃ」
「それは良かった」
俺の返答に鼻息をフンと吹いて答えると、磨上は俺の背中をバチーんと叩いて、それから黒髪を靡かせてマンションのエントランスに向けて歩き去って行った。
◇◇◇
そりゃあ、また遊びに来いとは言ったさ。
磨上に。俺だって何時でも家に遊びに来れば良いとは思っていた。それは本当だ。
でも毎日入り浸るようになるとは思っていなかったよ。ちょっと待ってくれ。
そう。あれから磨上は毎日のように俺の家にやってきて上がり込み、夕食まで一緒に食べるようになったのだ。なぜだ。どうしてそうなった。
磨上はあれ以来、当たり前のような顔をして俺と帰宅して、俺の家に乗り込んで来るようになったのだ。そして、リビングで母親と妹と楽しく話し込むか、俺の部屋で勉強会をするかして、夕食を俺の家族と一緒に摂り(親父が帰宅すれば親父も一緒に)、そして食後にもひとしきり談笑した後、俺がマンションまで送って帰って行く。
……母親曰く、磨上の両親は帰りが遅く、または帰って来ない日も多いため、夕食は一人で宅配かインスタント食品を食べているのだそうだ。なるほど。下校途中に買い食いをしたがった理由がよく分かった。確かに、俺の家で食事を一緒に摂るようになってからは買い食いをしなくなったからな。
そんなの可哀想だ! と義憤に駆られた母親が、磨上に毎日家で食事をするように勧めたらしい。……そういう事情では余計な事をするなとも言い難いよな。
実際、磨上は家で食事をする時は楽しそうで、母親の食事の支度や後片付けを手伝う様はまるで新妻のよう、って、アホか。何を考えてるんだ。兎に角、表情も魔王とは思えないほど柔らかくて、家の家族とも馴染んでいた。
そういう状況を見てしまえば俺は怒ることも出来ないんだけど、全て計画通り、という顔でニマニマと笑う磨上の顔が気に障るんだよ。
「流石は其方の家族だな。お人好しじゃ」
「お人好しで悪いのかよ?」
「勿論、悪くなど無いとも。お陰で我は助かっておるからの。カズキの家族らしくて良いではないか」
家の家族達はすっかり磨上を信用しているけど、こいつの本質は魔王だからな。基本的にこいつは人間の事をなんとも思っていない。自分の障害になると感じれば、何のためらいも無く消滅させることだろう。
同時に、磨上は義理堅くもある。前回の異世界転移の時、明らかに気乗りがしなそうだったのに、彼女は勇者として戦った。アレは俺や神原という仲間への義理からだったのだろう。一人で転移していたら簡単に魔の方へと寝返っていたに違いない。そして世界をあっさり滅ぼしただろう。
そういう意味で磨上は一宿一飯の義理を無碍に出来るタイプではないので、こうして夕食を与えていれば、例え磨上がこの世界を滅ぼす気になっても家の家族だけは無事になる可能性は高い。まぁ、そんな世界に残されてどうするんだ、という話ではあるけど。
「無事に両親とも仲良くなった事だし、そろそろ良いのでは無いか? ん?」
と俺の部屋で身体を擦り付けてくる磨上。……出来るか。こんな所で。というか、迂闊な事を言うな。隣で妹が、階下で母親が、この部屋の物音に耳を澄ましているに決まってるんだからな。俺が、その、うっかり磨上に手を出そう物なら妹がこの部屋に突撃してきて俺は縛られて、今晩は家族会議だろう。磨上を最初に連れてきた日の晩だって追求が酷かったんだからな。何処で出会ったのか? いつから付き合ってるのか? とか。まさか異世界で出会って滅ぼされました、とは言えないからもの凄く困った。
「ご両親は我と其方がねんごろになる事については、何の異存も無さそうであったぞ?」
「それはそうかも知れんけど、常識の範疇内なら、という話だろうよ」
「最近の高校生は進んでいると聞くがな?」
「親の常識はそこまで進んでないだろうよ」
そうは言いながら磨上は俺の家ではそれ以上の誘惑行為には及んで来ないのだから彼女なりに節度を弁えているのだろう。あんまり淫らな行為に及んで家への出入りを禁止されたら困ると思っているのかも知れない。
……親や妹が「早く洋子さんを完全に捕まえてしまいなさい!」「洋子さんを逃したら承知しないわよ!」「洋子さんはもう家の嫁なんですからね! あんただけじゃなく!」と暗に関係を深めるようにけしかけてきているのは内緒にしておこう。
磨上のお陰で定期試験は結構良い成績も取れて、その意味では俺は磨上に非常に感謝していた。というより、俺はすっかり磨上に慣れてしまい、同級生として、そして非常に仲が良い相手として、磨上の存在を好ましく思っていた。魔王であるという恐ろしさを除けば、磨上は超美人で性格も良い優等生だからな。一緒にいて話をすれば楽しいし、家で一緒にワイワイ食事をすればもう何となく家族じみた距離の近さまで感じていたのだ。
男女関係としては……。どうなのか。俺にはまだよく分からなかった。俺だって好きになった女性はこの世界、異世界を問わず何人かいたけど、彼氏彼女として付き合った事はなかった。だから深い意味が無い範疇では、磨上の事は好きなんじゃないかなと思う。軽々に好きだなんて言ったら怖い相手ではあるけども。少なくとも一緒にいて居心地の良い相手であり、頼りになる家庭教師であり、異世界で一緒に戦った仲間なのだから嫌いな筈は無い。
男女関係に踏み込むのは、勇者と魔王の関係上、怖いけどな。いつ異世界で対決する関係になるか分からんのだもの。出来ればそんな事は起こって欲しくはないけど。だが、もしも勇者と魔王で分かれて召喚されたなら戦いを避ける気は無いし、次は絶対に俺が勝って世界を救ってみせるとも。そんな覚悟をしていればどうしても磨上の誘惑に乗って一線を越え、彼氏彼女の関係になる事はためらわれたのだ。ヘタレと言わば言え。
つまり、今の関係が俺には心地良かったのだ。このまま、ずっとこのままなら良い。と俺は思うようになっていた。
◇◇◇
兆しは、思えば随分前からあったのだ。磨上が家に来るようになる前からだな。
三年生になる前という事で、進路指導の時期になり、親を呼ばれて三者面談というのが行われた事がある。俺も母親と担任と面談した。俺の成績は磨上のお陰で結構上がっていたので、中堅クラスの大学には入れそうという話だったな。母親は息子の成績上昇を喜んで、もう少し上の一流私立か地方の国立大学を目指せと俺を激励していた。無茶振りだ。
この時、磨上の親は来なかったようだ。まぁ、次期社長の磨上の父とその補佐をしているという母親は非常に忙しく、磨上と会うタイミングもあまり無いという事だったからな。それで磨上一人で面談に及んだものらしい。磨上くらいしっかりしていれば大丈夫だろうと俺は気にも留めなかったのだが、翌日、困った顔の担任から俺は相談を受けた。
「浜路くん、あなた、磨上さんと親しいのよね? ちょっと磨上さんと話してもらえる?」
担任にまで公認される男女関係というのはどうなんだろうか。磨上は交友関係自体は広いのだが、親しいと言えるのは俺だけのようなのだ。そういえば、磨上と学校外で遊んだり出掛けたりした、という話は他の女生徒からは聞かないな。休日に街中まで出掛けようと熱心に誘われても、磨上は必ず断っていた。
ちなみに俺は休日に磨上に呼び出されて買い物に付き合わされたり、家まで呼ばれたりしていた。それが知れ渡って「そりゃ、彼氏と出かける方が良いよね」と磨上が誘われる事は無くなったようだ。俺は上手い盾に使われたというわけだな。
「なんですか?」
「うん……。あんまり他の生徒に言う事じゃ無いんだけど」
担任曰く、面談に来た磨上は全く白紙の希望進路書類を出したらしい。担任は驚いて意図を確認したらしいのだが、磨上は「特に今は希望が無いんです。その時になったら考えます」などと言っていたらしい。
「そりゃ、磨上さんの成績なら、一流国立大学でも余裕で行けると思うのよ? でもそれならそれでそう希望して貰わないと……」
生徒全員の希望進路を把握して、学校として管理したいのだろう。それによって指導方針が変わってくるからな。一流国立大学に行く筈の磨上がある日突然「家から近いからそこの私立大学が良い」などと言い出すと、そこに推薦するはずだった生徒が一人行き場を失う事にもなりかねない。そういう事を防ぐには、生徒全員の進路を早期に把握して、調整する必要があるのだ。
「どうも事情がありそうだったんだけど、言ってくれないのよ。彼氏のあなたなら聞き出せるんじゃない? お願い出来る?」
彼氏じゃないし、磨上が本気で隠したら無理に引き出すことなど出来ようもない。韜晦の巧さは長年魔王をしている磨上の方が遙かに上だろうからな。それを俺が見抜けるとは思えない。
しかし、女性教諭である担任があまりに困っているのを見て、俺は承知するしかなかった。俺は勇者だからな。困った人は見過ごせない。
俺は磨上に担任が困っている旨を伝えて、事情を聞いてみた。磨上はハンバーガーショップでポテトを囓りながら嫌そうな顔をしていたな。
「なんで我が其方にそんな事を言わねばならぬ?」
「俺だって聞きたくはないけど、担任が困っていたからな。一応でいいから一流国立大学に行く、とでも言っておけば良いんじゃないか?」
磨上は不機嫌そうにストローでズズズっとコーラを吸い上げ、暫くなにやら考えていたが、やがて俺に辛うじて聞こえるくらいの声量でポツリと言った。
「意味がなかろう」
暗い声だったな。俺は驚いたけど、黙っていた。
「仮初めの世界。仮初めの人生。仮初めの戦い。そんな世界で将来を語ることに何の意味があろうか。先の事など、考えたくも無い」
ずっしっとした、重みを感じる声だった。なんだろうな、この重みは。人生の重み? そんな声だった。
俺も異世界で何年も戦っているから、精神年齢はもう三十歳は軽く超えていると思う。それに勇者である俺は結構濃密な人生を送ってきているから、この世界で普通に生きている人間とは比較にならない人生経験を積んでいると言える。
その俺でも把握出来ないくらい、磨上の言葉は重かったな。軽々に返事が出来ないほど。俺は思わず、どこか遠くを眺めているような磨上の美貌をジッと見詰めてしまっていた。その視線に気が付いた磨上は嫌そうに目を細めると、吐き捨てるように言った。
「担任には適当に言っておくが良い。其方の提案通りで構わぬ」
それから直ぐに俺の家に磨上が入り浸る事になったのだが、ある時、リビングで談笑中に母親が磨上に尋ねたのだった。
「洋子さんは何処の大学に行くの? 洋子さんの成績なら一流国立でも普通に入れるでしょう」
その瞬間、ピリッと場の空気が凍った。口に出した母親が驚くほどの変化だった。磨上の顔が不自然に固まり、すぐには返事がない。同じソファーの直ぐ横に座っていた俺は慌てて磨上の背中を軽く叩いた。魔力でも漏らされたらえらいことだ。
「そ、そうだよな? たしかそうだって言ってた」
「そ、そうなのね。凄いわね、おほほほほ……」
母親も慌てて話を無かった事にした。どうやら磨上に進路の話は鬼門だと気が付いたようだ。磨上は誤魔化す俺と母親を見ながら沈黙していたが、やがて固い口調で言った。
「……外国へ行く事になるかも知れません」
「外国?」
「親は、外国の大学に行って欲しいようなので」
そりゃ、スケールがでかい。国際的だ。でも考えてみれば、磨上は最近まで外国で生活していたのだから、別におかしな選択でもない。磨上の成績なら、アメリカの一流大学でもイギリスの伝統校でもいくらでも選び放題だろう。
「そ、それは凄いわね! で、でも洋子さんがいなくなったら寂しいわ。私は日本にいて欲しいかな? 勿論、洋子さんの希望が第一だけど」
母親の言葉に、磨上は曖昧に笑っていただけだった。どう見ても外国の大学に行くことに対して乗り気ではなさそうだ。うーん。俺は外国には行ったことが無いし(異世界には行ったことがあるのにな)外国の大学がどんな所かなど知らない。だから行けば良いとも悪いとも言い難い。
その日の帰り道、磨上なにやら考え込んでいた。いつも自信満々な微笑みの磨上が、どうも頼りない風なのだ。珍しい事もあるものだ。そう思いながら横目で見ていると、磨上が俺をギロっと睨みながら言った。
「カズキは、どうすればいいと思う?」
何の話かと俺は考えて、どうやら進路の話だと思い至った。
「外国の大学に行くかどうかという話か?」
「そうじゃ」
……そんな事を俺に聞かれてもな。暗い夜道で立ち止まって、俺は腕を組んで考え込んだ。う、うーん。
磨上にとって国内の大学に行くのが良いのか、それとも外国の大学に行くのが良いのか。なんて事は分からん。無理だ。情報が足りな過ぎる。俺はそもそも、国内の大学に進学したとして、そこで何をするかも知らんのだもの。外国のそれなど想像を絶している。どっちに行った方が磨上に有益だなんてアドバイスは出来よう筈も無い。
そうだな。磨上にとってどうだという話は俺には出来ない。だから、俺はどう思うかという話しか出来ないな。磨上が外国の大学に行ったら俺はどうなんだ? そうしたら容易には会えなくなるよな。そうしたら……。
「磨上が外国に行ったら寂しいな」
ポロッと出てしまった。言ってから俺はちょっと慌てた。誤魔化すように付け加える。
「そ、それと、外国に行っちまったら、お前が何をしでかすか分からないし、それに俺の成績も下がってしまうだろうし、えーっと、それとだな……」
あたふたと言い募る俺を磨上はニンマリ笑って、魔王スマイルで見ていた。そして俺の脇腹を指でブスブスと刺した。
「そうかそうか。我がいなくなったら寂しいか。ん? カズキよ。なんだかんだ言って我を必要としておるのじゃな? 其方も。嬉しいぞ」
「そ、そりゃ、家庭教師としても仲間としても、必要は必要だとも! あ、当たり前だろう?」
開き直って言い放った俺の言葉に、磨上は妙に嬉しそうに何度も頷いていた。
その日以来、磨上の進路についての話を聞くことは一切無かったな。磨上にとって話題にしたくない話である事は明白で、そして進路とは往々にして本人では無くて親が決める。必ずしも磨上の希望通りになるとは限らないだろう。本人の意図と違う結果になる可能性もある。もしもそんな結果になっていたら話したくはないだろうと思うと俺も話題にし辛かったのだ。
そして俺も多分、内心で恐れていたのだ。磨上が外国に行ってしまう事を。容易には会えなくなってしまう事を。だから磨上に進路の話を聞かず、磨上がいなくなってしまうかも知れない可能性から目を背けていたのだ。
そして、三月になりもう少しで俺たちは三年生になるというそのタイミングで。
磨上はこの世界から消え失せたのだった。