冴えない男と誘拐少女
甲高い悲鳴と「待て」の声を背に、俺は必死に駆け抜けた。
驚いた顔のドアマンの脇をすり抜け、高級ホテルの入り口から飛び出る。
「――うげっ!?」
出た先は大通り。横断歩道は、赤。
後ろからは俺を追う人だかり。
三十秒前の誘拐を後悔しかけ、俺は足踏みしていた足を覚悟と共に踏み出した。
途端、響き渡るブレーキ音とクラクション。
突っ込んでくるボンネットをぎりぎりですり抜け、なんとか渡り切る。
後ろを振り向く間もなく、命からがら路地に入った。
「ずいぶん荒い運搬ですね。こんなことで、私を無事に誘拐できるのかしら」
肩に抱えた布袋が、不満げにもごもご動く。
「じっとしてろ、舌噛むぞ」
叱りつければ、素直に大人しくなった。
今ここでやめられないのはどちらも同じだ。
角を曲がり、壁の後ろへ貼り付く。
壁越しにのぞけば、スーツ姿の男達と黒いロングスカートの家政婦が、悲壮な表情で俺を追っていた。
彼らの先頭には、妙に造作の整った男が一人。
一瞬、目が合ったように見えたが、男はすぐに俺と逆方向の角に向かっていった。
つられて、他の追手たちも皆、男の後に従う。
それを見送ってから、俺は再び走り始めた。
しばらく走り続け、ようやく物音がなくなった辺りで立ち止まる。
重い荷を下ろし、雑にロープでくくった袋の口を開けた。
「もういいだろ。出て来い」
一瞬の間があって、もぞもぞと袋が動き出す。
麻の荒い布地を抜けて、最初に出て来たのは、絹糸のようにしなやかな黒髪だ。
滑らかな頬、日の光を照り返す白い肌、紺のセーラー服。
夏の暑さのせいか、酸素の薄さかか、それとも乱暴に運ばれて酔ったのか。
ぱっちりと開いた黒い瞳は、どこかぼんやりしている。
黙ってしばらく見守る。
うちに、少女はぶるぶると首を振り、ようやくしゃんとした顔で四角い襟を直した。
「追手はもう……?」
「ああ、うまくまいたみたいだ」
少女は俺の肩越しに道の向こうを見やる。背後には誰もいない。
それを確認してから、丁寧にスカートのしわをひろげ、まっすぐな背筋で頭を下げた。
「この度はありがとうございます、あの――」
「ああ、聞いてないのか。俺は滝川――滝川、柾弥だ。滝川でも柾弥でも、お兄さんでもおじさんでも好きに呼んでくれ」
「では、滝川さん」
並べた中で一番よそよそしい呼称を選んだ少女は、年に似合わぬ隙の無い表情でじっと俺を見つめている。
「我が家の事情にお付き合わせするのは心苦しいですが……しばらくの間、どうぞよろしくお願いいたします」
「こっちはぜんぶ承知の上さ。別にあんたが頭を下げることもない」
俺はポケットから煙草を取り出し、少女に見せた。
吸ってもいいか、という無言の確認に、少女は微かに眉を寄せる。どうやらNGらしい。
煙は嫌い、という訳だ。ならば、そちらに届かなければ構わないはず。
俺は一歩後ろに下がり、ライターで火を点けた。
少女の表情がますます険しくなる。
もちろん、こちらは風下。十分な距離のはず。
吐き出した煙が空へ上るのを見ながら、笑って見せる。
「悪いが、ニコチン依存症ってのは、一定期間で新しい煙草を吸わずにはいられないんでね」
「……私が一緒にいる間くらい、禁煙はできませんか」
「それができてりゃ、とっくにやめてる」
「冴えない答えですね」
「言うね。だが、あんたにはあんたの利益がある。俺には俺の利益――つまり、金さ。共犯関係なら、互いに思いやるべきだろ」
「人聞きの悪い言い方はやめてください」
煙草一本で、少女の印象は大きく変わってしまったらしい。もう渋面を隠すこともない。
俺はポケットから携帯灰皿を取り出し、煙を捻りつぶした。
「じゃ、相棒ってことでいいだろ? この件が無事終わるまでは」
「……仕方ありませんね」
差し出した片手を、少女はじろりと睨みつけた。
煙草臭い手に触れるのも嫌そうに、指先だけを軽く絡める。
その握手とも言えない握手が、俺たちの始まりだった。
俺と少女――御器谷友理奈、二人の計画の。
◇◆◇◆◇
芳野隆一、という悪友がいる。
大学時代からの腐れ縁で、学生時代は一緒になって飲み歩いていたものだ。
もちろん、一緒だったのはそこまで。芳野は爽やかな笑顔で学年主席特待生として大学を卒業し、俺は早々にリタイアして働き始めた。
誰もが名を知る一流企業に就職した芳野と、三流ブラック企業に滑り込んだ俺。
同じ時間を過ごしていたはずなのに、なぜだと言いたい気持ちがなくはないが――まあ、そういうもんなんだろう。頭も顔もあらゆる面で俺を軽々越えていく芳野に、張り合うような気持ちはとうの昔に消え失せていた。
そうして軽やかに俺を置いていける相手だからこそ、芳野に遠慮なんてする必要もなかった。
逆に、芳野がなぜ俺と一緒にいるのかは、まったくわからなかったが……芳野のことだ。どうせ、あちこちに俺のような友人がいるのだろう。
だから、芳野から最初にこの話を聞いたのも、そんな酒の席だ。
俺は久々に家を出て、いつもの薄汚い居酒屋で芳野の前を陣取っていた。
こんな場所ですら、妙に整った顔立ちと涼やかな目元は少しも揺るがない。
「相手が滝川だから頼むんだけどさ」
「なにをだよ」
手酌で焼酎を注ぎ足しながら尋ねる。
声をひそめた芳野は、俺の耳元で付け足した。
「お前、仕事うまくいってないんだって? いい稼ぎになる仕事があるんだけど」
ぎくり、と手が止まったのを自覚する。
一瞬の間の後に、ぎこちなく動きを再開した手は、微かに震えているような気がした。
会社から倒産の連絡があったのは、ちょうど一週間前だった。
最初のショックからようよう浮上し、次の就職先を決めなければならない、そう考え始める頃。
「……耳が早いな。それに、親切過ぎる」
「友人だからね。心配なんだよ」
皮肉に対して返ってきた率直な言葉は、ともすれば怪しくも感じられた。
「なんだそりゃ。とりあえず、聞くだけは聞いてやるが」
座り直した俺の前で、芳野は一瞬だけ天井を見上げ、そして思い直したように話を続けた。
「狂言誘拐を望んでる女の子がいてね。もちろん犯罪だ。前科にもなるかもしれない。けど、究極的には本人が希望していることだし、父親は大金持ちで、うまくいけば――」
芳野の提示した金額は、俺のこの先一生分の居酒屋での払いを悠々超える額だった。
「美味しい話だな。なんで自分でやらない?」
「近所の子なんだ。相手の親に顔が割れてる。僕が攫ったんじゃ誘拐だと信じてもらえない」
「つまり、攫う現場を見せなきゃいかんわけか」
「そういうこと。家出じゃダメなんだ。彼女がそう望んでる」
芳野はわざわざ俺に向け、格好つけたウインクをとばして見せた。
「なに、そんな難しいことじゃないよ。なにせ本人の協力があるんだから。君は父親の目があるところで派手に彼女を攫って、どっか隠れ家にでもいればいい。その間に僕が彼女の目的のものを探るから」
「目的?」
「本人に聞きなよ。君の仕事とは関係のないところだし」
大盤振る舞いにビジネス用の整った笑顔まで浮かべてくれる。
芳野は笑顔で人を騙すタイプの男だと、俺だけは知っていた。
――だから、信じた。
俺をその笑顔で騙せる訳なんてないと、本人だってわかっているはずだから。
◇◆◇◆◇
俺の用意した隠れ家は、築四十年を超えた雑居ビルだった。
正方形の一部だけ角が欠けた歪な部屋。
床はコンクリートの打ちっぱなしで、ところどころひび割れている。
エアコンの効きは悪く、じっとしているだけでじっとりと汗をかく。
普段の生活から想像もできなかったからだろう。
適温に保たれない部屋がこの世にあるのかと、最初のうち友理奈はひどく驚いていた。
お湯と水をちょうど良い配分で出さねばならない風呂にも、建付けが悪くて思い切り閉めないと閉じきらない窓にもだ。
そんな一連の不具合に驚きつかれたか、今、彼女はソファに横たわっている。
部屋の中央に置かれた、スプリングのはみ出たソファだ。
胎児のように丸まったまま、可愛らしい顔をぎゅっとしかめて。
幼気な顔立ちに、この世すべての苦しみを負ったような表情を浮かべていることが、妙に癪に障った。
十五やそこらの女の子に、そんな顔をさせるなんて。
俺は細い身体を揺さぶり、テレビのリモコンをつけながら、隣に腰かけた。
はっと瞼を開け、身を起こした友理奈が恨めしそうに見上げてくる。
「滝川さん? なにか用事ですか」
「いんや、お嬢さん。ただ、互いに協力するなら、事情くらいは知っておきたいと思ってね」
「冴えないあなたに、個人的な問題を話す意味はありますか。あなたが問題を解決してくれるとでも?」
「問題を解決するためにこの事件を起こしたんじゃなかったのか。俺は、信用できない相棒を持つつもりはないぞ」
俺の言う意味を図ろうと、友理奈は必死で頭を捻る。
数十秒ののち、おずおずと口を開いた。
「私がダメでも……隆一さんのことは、信用できませんか? もともとは隆一さんに言われて手伝ってくださっているのでしょう。それに、あなたはお金が必要だと」
「ああそうだ。芳野を信じたからこうしてここにいる。だがな、お嬢さん。俺の共犯者は芳野じゃない」
金は必要だ。莫大な金が。
だが、危なすぎる橋を渡るつもりもない。
間違っても、逮捕などされる訳にはいかなかった。
そして同時に、芳野を――持ち掛けられた話自体を疑っている訳でもない。
「では、あなたは報酬を信じていない訳ではないのでしょう。いったいなにが不満なのですか」
「『目的』がわからなきゃ、とっさに動けなくなる。いざという時に足手まといになるのはごめんだし、信用できない相棒を持つのもごめんだ」
俺が真剣であることが、友理奈にも伝わったのだろう。
それでも、目を上げた黒い瞳には、頑なな色が宿っていた。
「それを言うなら、私も聞いていません」
「俺の理由? 金が欲しいって以上の理由が、お嬢さんに関係あるかね」
「そうでしょう、お金は大切です。でも、あなたは単に何の意味もなくお金を集める輩とは違うと思うわ」
「なぜ」
「私も隆一さんのことは信じています。それに、信用できない相棒を持つつもりもありません」
そのまま返されれば、苦笑するしかない。
俺はシャツの胸ポケットをかき回し、目当ての写真を抜き出した。
俺と腕を組んで写っているのは、二十歳を迎えたばかりの娘だ。パジャマ姿の写真は、実年齢より幼く見えるだろうが。
冗談交じりに写真に口付けてみせると、友理奈は目を見開いた。
「……少女愛好家、ですか? だ、だから、私に優しくした……?」
「おい、待て。馬鹿、妹だ」
幼く見える理由はパジャマだけじゃない。
栄養も運動も足りなくて、発育不良だからだ。
身体が成長に耐えきれない。
「生まれつき心臓の病気でな。今のところ移植しか方法がなくて、手術するにはアメリカに渡らにゃならない。それ以前に入院費も嵩んで、両親のいない俺には現状維持で精いっぱい……とにかく、金が必要なんだ」
友理奈の口が、ごめんなさいの形に動きかける。
俺は片手を振ってそれを止めた。
「あんたの言う通りだ、お互い様だからな」
「でも」
「それにさ、あんたがこの写真を見つける前に言えて良かったかもしれん。冴えない男だと言われるのはまだいいが、妹に――家族に手を出すような鬼畜だと思われちゃ困る」
「そんな、風には……いえ、はい。もし写真だけを見ていたらそう思ったかも」
「はぁ!?」
「冗談です。冴えないあなたに似ていなくて、妹さんは可愛らしいからつい勘違いしたかも、という話ですから」
「そうだろ……いや、違う」
妹を褒められて、咄嗟に相好を崩しそうになった。トータルでは俺が下げられているのだが。
が、反応に悩んでいるうちに、友理奈は更に言葉を続けた。
「聞いたからには、私も言うべきでしょう。私はただ確かめたいのです」
「なにを?」
「お父さまの愛情を」
口にするだけで決死の覚悟が必要なのだろう。
それは、白く握られた拳からも伝わった。
十五歳の少女のその思いを、大したことでもない、と一蹴することはできなかった。
「その……芳野の探してる『目的』ってのが、それか? 口で訊くだけじゃダメなんだな?」
「もう何度も尋ねました。ですが、隠されてしまうのです」
「愛を?」
「いいえ、私を愛するために、お父さまがなにをしたのかを」
「どういうことだ」
「これ以上は言えません。確信がない限りは……」
その言い方は、妙に気にかかる。
だが、これ以上はけして口を開かないだろうとはわかった。
確かに友理奈は世間知らずのお嬢さまだ。
その悩みなどたかが知れているのかも。
だが、それを俺が判別してどうする。妹のことだって、知らない誰かにとっちゃ大したことでもない。
隣に座る小さな頭を、俺はぽんと一つ軽く叩いた。
いつもなら慌てて払いのける煙草臭い手を、彼女は素直に受け入れた。
俺たちは、本当の意味で相棒になった。
結局、五秒後に「邪魔です」と払いのけられたが。
◇◆◇◆◇
一週間も一緒にいれば、互いに慣れてくるものだ。
横に座るだけで警戒されるような時期はさすがに越えた。
呼び名から「さん」が取れるのもあっと言う間だったし。
「おい、起きろ。お嬢さん」
「……なんですか、滝川。朝早くから……なにか問題でも……」
目をこすりつつ、友理奈はソファから身を起こす。
もともと用意していたTシャツや短パンは毛虫を見るような顔で断られ、ワンピースを買い直させられた。
一週間経った今では、俺に友理奈好みの服を用意する才覚はないことが判明し、大人しくTシャツを着ているのだが。
何度声をかけても起きない寝汚さは、五日目になってわかったものだ。
俺はタオルを投げ渡しながら、テレビのリモコンをつけた。
「いんや、あまりにぶっさいくな寝顔で寝てるもんだから、これは起こして差し上げなきゃって義侠心にかられてね」
「な、な、乙女の寝顔を観察するなんて最悪です――!」
わたわたと身を起こし両手で顔を隠す少女の声に、テレビの音がかぶさった。
『――賞の最有力候補でもある生物科学界の大天才、御器谷恭輔氏は、昨日午後記者会見を開き、長女である友理奈さんが誘拐され行方がわからなくなっていることを明らかにしました』
予想以上の大事になっている。御器谷氏がこんなにも早く、マスコミを頼るとは。
よれたシャツの下を、つうと冷や汗が伝っていく感触。
ちらりと横を見る。
友理奈は、ただスポットライトとマイクに囲まれる画面上の父をじっと見据えていた。
先ほど見せた年相応の表情はなく、凍ったように恭輔を眺めているだけだ。
――コン。
入口から、ノックの音が聞こえた。
身を固くする友理奈をよそに、ノックは続く。
コココン、コン、コココン。
一回、三回、一回、三回。符丁の通りだ。
それを確認すると、友理奈は跳び上がって入口の扉を開けた。
「――隆一さん!」
扉の向こうから現れたのは、品の良い男の姿。
ぴんとしわのないスーツは、雑居ビルの汚い事務室にまるで似合わない。
芳野隆一は、一週間前、俺たちを追っていた時と同じ澄ました顔でコンビニの袋を持ち上げて揺らしている。
「友理奈ちゃん、どう? そろそろ一週間だけど、そいつに悪さされてない?」
友理奈はちらりと俺を振り返った。
さりげなく、Tシャツの裾を短パンより長く伸ばして、芳野から少しでも太腿を隠そうとしながら。
「ですって、滝川。私にした悪さ、ぜんぶ言いつけていいかしら?」
「へいへい、言いつけるようなことがあるなら、お好きなように」
「そうね、滝川おじさまったら、洋服のセンスが最悪なの。見てくださる、このシャツ? 木綿製で肌触りのいいことだけが取り柄の、こんな子供っぽいクマ柄なんて」
「確かに、雰囲気が少し変わったようだね。けど、そのコーディネートも可愛らしいよ」
「隆一さんならそう言ってくれるというのはわかってるけど。それに、私がいるのに平気で煙草を吸うのよ? 喫煙中の換気扇がうるさいったら」
「おじさまはひどいな。彼、僕と同い年だぜ」
苦笑する芳野を見て、流れ弾の行き先を理解したらしい。
友理奈はぱちくりと目をしばたかせ、それから泣きそうな顔で謝った。
「……あの、ごめんなさい。隆一さんにそんなこと言うつもりは」
「大丈夫だよ、わかってるから落ち着いて」
「おう、ずいぶんな差だよなぁ。そりゃこっちはくたびれ果てたおっさんで、あっちは憧れのお兄さんかもしれんが、年齢だけなら一緒だぞ」
「滝川は黙ってて!」
「これだよ」
肩をすくめて見せたが、一笑に付された。
「なんだ、ずいぶん打ち解けたみたいだね」
「滝川相手に気取っていても仕方ありませんもの」
「おいおい」
「おやつにしようか、友理奈ちゃんの好きなアイス買ってきたよ」
「まあ、本当ですか!」
いそいそとアイスクリームを受け取り、事務所の裏手にある給湯室へと、友理奈は去っていく。
その背中を見ながら、芳野はふん、と鼻を鳴らした。
「ずいぶん君を信用してるみたいだ」
「なんだ、嫉妬か?」
「誰が」
言い捨てたが、芳野の目は給湯室から離れない。
一瞬たりとも目を離したくないという必死さが、眼差しからあふれているように見えた。
「おい、マジかよ。さすがに年の差があり過ぎるだろ」
「放っておいてくれ。こっちは中学生の頃からの初恋なんでね」
「中学生!?」
「……彼女の、たぶん母親だ。正確には尋ねたことはないが」
友理奈が戻ってくる前に、芳野は手短に語った。
芳野隆一には妹がいた。十歳下の妹だ。
ずいぶん可愛がっていたのだと言う。
芳野の両親が、交通事故で亡くなるまでは。
どうやって暮らしていくか。
途方に暮れる彼の前に、養父になりたいと声がかかった。
聞けば、遠縁の親戚らしい。その話を飲めば、苗字は変わるが、このまま一緒に暮らせる。
聞いて喜んだのも束の間、養子縁組の書類と共に翌日、妹だけが姿を消した。
どの親戚に聞いても、行方どころかそんな遠縁のことすら、誰も知らなかった。
十年かけてようやく見つけたのは、あの日、耳にした養父と同じ苗字を持つ娘だった。
「――まさかそれが友理奈だと思っているのか? 確かにあいつは十五歳だが、あんたと似てるとこなんてなにもない」
「そうだね。だけど、僕にとっては妹みたいなもんだし……それに、御器谷なんて変わった名前がそうそうあるとは思えない」
「じゃあ――」
「――隆一さん。飲み物は紅茶でいいかしら? ここには茶葉がなくて、このおかしな薄味の飲み物になってしまうのだけれど」
最初に会った時の制服姿で、盆を持った友理奈が部屋に戻ってきた。
どうやら、アイスを用意する前に着替えに行っていたようだ。
芳野の前ではお嬢さま然としていたいのだろう。俺の前とは違って。
もし、芳野と友理奈が本当の兄妹なのだとしたら、芳野の方こそなんの気兼ねも気遣いもなく友理奈と過ごせる立場だったろうに。
友理奈が戻った途端、芳野は笑顔のまま口を閉ざした。
なにがなんでも彼女には聞かせたくない、という無言の意思を感じ取り、俺もため息をつく。
「ティーパックの茶が気に食わないなら、白湯でも飲んでろよ」
「気に食わないとは言っていません。茶葉とは認めないと言っているだけです」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。せっかく友理奈ちゃんが用意してくれたんだから、アイスを食べながら待とうよ」
「隆一さん、それって」
「おい、待つってのは――」
言いかけたところで、乱暴に入口の扉が開いた。
逆光に、低い声が混じる。
「――芳野隆一くん。友理奈を返して貰おうか」
朝の光に白衣をたなびかせ立っているのは、御器谷恭輔その人だった。
「……お父さま」
「おい、芳野――」
友理奈の声を遮り、思わず芳野へ目を向ける。
芳野は落ち着いた様子で御器谷恭輔をただ見ている。
まるで、御器谷恭輔がこの隠れ家へと追ってくるのを知っていたかのように。
いや、間違いなく知っていたのだ。
俺の目くばせに内ポケットを示しながら、小声で答えた。
「彼の部屋から盗んできたんだ。わざと監視カメラに見せつけながらね」
ポケットには無造作に突っ込まれた紙束が入っている。
そのまま芳野は立ち上がり、友理奈を守るように前に出た。
「友理奈を返す? 彼女は貴方の物だとでも思っているのですか?」
「未成年の娘は、父に保護されるものだろう」
「父、ですかねぇ」
言いながら、紙束を懐から取り出し、テーブルの上へと放った。
それを見た途端、御器谷恭輔の顔色が変わった。
「娘だ――私の娘に変わりはない! お前たちが何度、私から彼女を奪い取ろうとも」
「なるほど、あなたがそう思ったとして、本人はどうでしょうね?」
言い切ると、芳野は友理奈の肩を叩いた。
「どうぞ、友理奈ちゃん。君の『目的』だ」
紙束に、友理奈が指を伸ばす。
御器谷恭輔は慌てて室内へ踏み込もうとした。
「おい、やめろ」
――近くまで忍び寄っていた俺は、もちろんそれを許さなかったが。
タイミングを見計らって脚を掛け、御器谷恭輔の身体を床へ倒すと、その背を上から押さえつける。
「やめろ、友理奈にあれを見せるんじゃない! お前たち、友理奈を不幸にしたいのか」
「もう、見たわ。お父さま」
ぱさり、と俺の――いや、御器谷恭輔の前に、紙束が落ちた。
目の前に立つ友理奈は、表情の読み取れない目をして、彼を見下ろしている。
「本当は、薄々わかっていたの。だから、隆一さんに確かめてもらった」
「友理奈……違う、違うんだ」
「私は、クローンなのね? お父さまの実験から産まれた……」
ぽとり、と雫がコンクリートに落ち、染み込んで消えた。
涙なのか、それともただの汗なのか。
友理奈の顔を見上げた時には、頬にはもう水滴の跡一つ残ってはいなかった。
「いいか、友理奈。お前のお母さまは、若くして亡くなった。お前を腹に宿したままの死産で――」
「それはいつの話で――私で何体目なのですか? お母さまのクローンは」
「……お母さまが亡くなったのは八年前だ。それから、お前で十三体……」
想定より多すぎる数に、俺は目を剝きそうになった。
いくらなんでも多い。期間を考えれば、クローンの多くはごく幼くして死亡しているのだろう。
いや、それ以前に――八年前に始めたというのが真実なら、友理奈の年齢とも合致しない。
ゆっくりと歩み寄ってきた芳野が、友理奈の横に立つ。
「僕が隣家に越したとき、友理奈ちゃんは十五歳だとあなたは答えましたね? それも嘘だった訳だ」
「戸籍を用意するため、養子縁組をした! その娘の年齢と合わせるために……」
「戸籍を用意するため? 年齢を合わせる? あんたいったいなにを――」
「――戸籍しかいらなかったのですよね、お父さま。あなたはそういう方だもの」
ぽつりと呟く友理奈の声で、俺はすべてを理解した。
芳野の方を見る。
芳野は俺の視線に応え、ゆっくりと頷いて見せた。
友理奈より先にこれを読んだ芳野は、既に知っているのだろう。
妹がどうなったのかを。
「だが、だが友理奈――それは、お前を思ってのことだ! お前を愛しているからこそ、お前に不自由させたくなかった。お前は――私から離れては生きていられんのだ!」
目前に立つ娘の足元へ、御器谷恭輔は必死に手を伸ばす。
友理奈はうろたえ、ふと俺の顔を見た。
俺は、必死に目で語りかけた。
御器谷恭輔が本当に思っているのは、愛しているのは誰なのか。
友理奈が御器谷恭輔から離れられないと言うのなら、そのように作ったのは誰なのかを。
友理奈は悲しげに目を伏せ、そして顔を上げたときには大輪の薔薇のように艶やかに微笑んでいた。
「言いたいことはそれだけですね、お父さま」
「友理奈!」
「私ももう十五歳。私の記憶をどう誤魔化そうが、戸籍をどう差し替えようが変わりません」
「だが、友理奈……」
「もし残りの寿命が短かったとしても……いいえ、短いからこそ、私、一人暮らしがしたいわ。自分の思うように生きたい。可愛い娘の頼みだもの、聞いてくれますよね」
拾い上げた紙の一枚が、床に臥す男の前に突きつけられる。
そこには羅列された犯罪行為が記されている。
禁じられた研究――ヒトクローンを生み出すためにいくつも重ねられたそれを、友理奈は脅しの材料として使うつもりのようだった。
御器谷恭輔は哀れがましい目で友理奈を見上げ――そして、どさりと身体の力を抜いた。
◇◆◇◆◇
隠れ家に、立ち上がる気力もない御器谷恭輔をそのまま置いたまま、俺たちはぶらりと外へ出た。
太陽は燦々と照り始め、夏の熱気が肌を差す。
「友理奈ちゃん」
「大丈夫です」
ジャケットを脱ぎ、友理奈の日よけにしようとした芳野が、やんわりと断られた。
苦笑した芳野は、俺に向けて犬を払うように手を振る。お前がやれ、と言いたいらしい。
日差しの中、友理奈はくるりと回ってこちらを振り向いた。
向日葵のような笑顔は、あまりにもこの瞬間の夏に似合いすぎて不安になる。
「安心してください、滝川。妹さんの手術代は、必ずお父さまに出させますから」
「俺のこたいいんだ。こっちは大人だ、なんとでもする」
「へえ? それはつまり、私が子供だとでも――」
言いかけた身体を、思い切り掴んで抱き寄せた。
細い肩に一瞬、ぎゅっと力がこもる。
「子供だよ。一人で生きるにゃまだ早い」
「まさか、お父さまの元へ帰れと言うんですか!?」
悲鳴じみた怒声を最後まで聞かず、俺は友理奈の身体を離した。
「一人で生きれなきゃ、相棒と生きるって手があるぞって言ってんだ」
「えっ……」
「荷物はまとめといた。来るなら早くしろよ、こんな炎天下、若者はまだしもおっさんにはキツ過ぎる」
ボストンバックを放り投げ、先に歩き始める。
後ろから小さな足音がぱたぱたとついてくるのを聞きながら、俺は太陽に向けて手のひらをかざす。
男女の相棒というものに憧れみたいなものはあったが、実際のところ、こんなの妹が二人になったようなもんだ。
最初から最後まで冴えない話だぜ、と思いながらも、唇に浮かぶ笑みを隠す気はなかった。