第3節「憧れと帰郷」―2
森がある山を抜け、ふもとの道を道なりに進んで行った先、数刻も歩けば俺の故郷であるチケル村が見えてくる。チケル村はコアコセリフ国の中でも小さな農村で、国王様から騎士の称号をもらう父さんが居たおかげで、年貢を免除してもらってようやくその日暮らしが出来る程度の規模しかない。
周辺で起きる災害も少ないからこそ不自由なく住むことが出来る小さな村。
「帰ってきてしまった、か……」
村の畑が見えてきたことで寒空の下、足がぴたりと凍ってしまう。
村であることを象徴する、土と木材で出来た家屋と次の作物の準備をするため耕している最中の畑……。昔と何も変わって居ない風景にどこか安心し、遠い景色を見るような気分で故郷に息を吐いた。
なにも、変わらない。
左手に広がった畑には爺さんや婆さんが何人かで集まって談笑し、壮年の夫婦が耕すための農具をかき集めている。耕したばかりの土の臭いに、畑を囲む石塀に生えた苔の青臭さ、
見たことのある顔に、代り映えしない辺鄙な村は変わらずそこに広がってくれていて、ひとまず村が無事だったことに胸をなでおろした。
「よかった。とりあえず、亜人攫いの被害は受けてないっぽいな」
若し本当に襲われていたらどうしようかと思っていたが、村の雰囲気は平和そのもので一安心だ。
心配で凍った足が溶け、ゆっくりと村へ近づいていく。鼻先に人と無機物のにおいがたちこめる王都にはない、草木の湿ったにおいが強くなり、ああ、帰って来たんだなという実感が吐き出される吐息に立ち込める。
懐かしい、妹と一緒に何度も畑に突っ込んでしまったり、雪解け水を流すための水路でずぶぬれになって兄弟そろって熱を出した時もあった。
それで楽しそうな妹を見られれば、付き合った俺が一番怒られるのだ。理不尽だとは思ったが妹が俺より幼い事を考えろと父さんにも同じことを言われて強く頷いたのを覚えている。
そうそう、賢い妹は自分の代わりに怒られていると思い込むたびにシュンとする。そのたびに妹の御機嫌取りと農作業に追われていたのだ。
妹のリンは元気だろうか。母さんと一緒で家の針仕事はあんまり得意じゃないけれど、俺には懐いてくれていたあの妹は――。
「お兄ちゃん?」
いつの間にか近くにあった畑の奥から懐かしい声で俺を兄と呼ぶ声が聞こえる。
声がした畑を見ると、土で汚れてしまっている赤髪の少女が農具を両手で抱えてそこに立ちすくんでいた。
背こそ大きくなっているが、まだ幼さの残る顔立ちの中に母さんと父さんの色が残る彼女はまさしく今思い返していた妹のリンだった。
「リン? やっぱり、お前リンだよな? 久しぶり、元気にしてたか?」
「やっぱりお兄ちゃん! お兄ちゃんだよね? 帰ってきたんだ!」
女の子――リンは農具を放り出すとそのまま俺の方めがけて走り寄り、石塀に足をかけて思いっきり跳んだ。
慌てて両手を広げて抱き留めると草木の香りが広がり、農具が音を立てて畑に倒れこんだ。ゆっくりと抱き留めた彼女を地面におろすと、パッと開いた笑顔を向けられる。
「あはは、やっぱりお兄ちゃんだ。お帰りお兄ちゃん」
「リン。嬉しいのは分かるけど、飛び込んでくるのは勘弁してくれ、俺が鍛えてなかったら危なかった」
「あはは、ごめんね? 急に帰ってくるなんて、どうしたの?」
「聞きたいことがあったから、一回立ち寄ったんだ。母さんたちは元気か?」
「うん! あ、そうだ、向こうの畑に居るからすぐに知らせてくるね? 待ってて」
「待てって……あっ、お、おい、リン!」
俺の腕から脱出すると止める間もなく塀にのぼり、跳ねるように畑の奥へ向かっていってしまう。
まずい、近況を聞きに来ただけだったのに、今更言えない空気になりそうだった。
途方に暮れていると、別の畑から「あらやだ、村の英雄様の息子がお帰りだよ」と声が上がった。
「よう! リク坊じゃねえか! 久しぶりに顔みせやがって! 騎士様にはちゃんとなってから帰って来たんだろうな!」
リンが行ってしまった畑から今度は顔見知りのアルさんとその奥さんであるミンさん夫婦がこちらに向かって手を振っていた。
この二人は俺がまだ小さかった頃からお世話になっている人たちで、家が近かったこともあり、父さんの一件以降、俺に仕事を教えてくれたり畑仕事を手伝ってもらっていた人たちだ。
リンと同じ畑から出てきたということは今も同じ畑の世話をしてくれているのだろう。
暖かい気持ちになる反面、飛び出してしまった罪悪感で申し訳ない気持ちになってしまう。せめて気持ちを伝えようと二人に大きく頭を下げた。
「アルさん、ミンさん。お久しぶりです。残念ながらまだ騎士になる途中でして……」
「そうなのかい? 昔っから正義を馬鹿にされるたびに喧嘩してたリク坊のことだから、近くの村が賊に襲われたって聞きつけて、来てくれたとばっかり思っていたんだがねえ」
「け、喧嘩ってそれって昔の話でしょう! というか、襲われたって話、それは本当ですか?」
「そうよお、近隣……って言っても馬車で数日はかかるけどさ、商人さんがそう言ってたよ? 幾月か前の話だからてっきりそっちにも話がいってると思ってたんだがねえ」
たしかにフレミア殿から調査をして来いとは言われたが、そんな報告受けてはいない。順当に考えれば"亜人攫い"の情報なのだろうが……。
「アルさん、襲われた村ってどんな村か分かります?」
「どんなって……この辺の村は出てくる特有の魔物や獣の皮を剥いだり、畑で食いつなぐ地域だから、チケル村と大差ないさ、強いて言うならここよりは王都に近いくらいやんね」
「じゃあ、チケル村にはいない亜人が居たとか」
「亜人さんかい? いや、聞いたことなかね、ミンお前さんは?」
「ないですねえ。隣村ですから隠しとったら分かりませんけど……」
「……この辺、たしかほかの村ってほとんどありませんでしたよね?」
「そんなポンポン作物を作れて水もある土地は見つからんだろうからねえ。ここよりずいぶん奥に行けばあるかもしれんが」
二人の会話を聞いて疑問が浮かび上がる。
"亜人攫い"は情報通りなら間違いなく亜人を狙う奴隷商人だ。それなら亜人が居るか分からない村を襲うなんて考えられない。
だが、それならこの周辺で件の"亜人攫い"が出たという情報はいったいどこから……。
「リク坊?」
「え?」
「どうしたんさ、怖い顔して」
「あ、いや……。とにかく、心配しないでください。今近くに騎士様もいらっしゃる。何かあればすぐにでも駆けつけられますから」
「騎士様が、かい! なんてお方なんだい?」
「フレミア・ド・シュバリエという方です。騎士隊も結構な人数をそろえている方だったので、実績はおそらくある方だと」
「フレミアだって?」
フレミア殿の名を口にした瞬間、二人が顔を見合わせ、眉根を寄せてしまう。騎士様を侮辱された……と思うよりも先に、この夫婦がそんな顔をして見合わせるなんて魔獣を見たと報告したとき以来だ。
「二人とも、どうしてそんな顔を……?」
「いやなあ、ミン?」
「そうね……ねえ、リヴェリク君。覚えているかい? 昔、この村が襲われた時があっただろう?」
「……父さんの時、ですよね」
父さん――騎士ロルソス。チケル村出身の騎士称号を授かった村の英雄。
この村で俺が覚えているかを聞かれるのは良くも悪くも、その事件の時だけだった。
父さんが殺された、あの事件。
ミンさんは悲しそうに頷き、上り始めた太陽が二人の足元にある影を濃くしていく。
「ええ、あの時は大変でさ、陛下の直轄領で起きた事件だったからすぐに調査するために騎士様がきたのさ。その事件で駆け付けた騎士の名前がフレミアって名乗ってたのよ」
「あの事件にも、フレミア殿が……?」
「そうそう、あの後ギアンさんも来てくれてさ。そう教えてくれてたのさ」
「なるほど、ギアンさんが……。にしても、すごい偶然、ですね」
「それだけなら、ね」
「まだ、なにか?」
「さっき襲われた村があるって言ったでしょう? その調査隊の人もフレミアって名乗っていたそうなのよ。だから偶然にしてもよく聞くなって……ねえ」
たしかに変ではないが、ものすごい偶然ではあった。
依頼が同じ地域なら近くの騎士や衛兵隊が駆けつけるのが普通だが、何年もの間、同じ騎士が調査に行く、というのは些か偶然が重なりすぎている。
それに、フレミア殿はこの辺の地理には詳しくないはず。それが理由で俺を編成隊に組み込んでいたはずだ。
それに近くの村の件が本当にフレミア殿であるなら、国王様が知らないのはおかしい。亜人が住んでいない件も、この一件が"亜人攫い"の可能性が低いということも伝わっていたはずだ。
偽物という可能性もある。が、フレミア殿は偽物を名乗るにしては華が無さすぎる。名乗るにしてももっと有名な騎士さまか存在しない騎士の名前を上げるはずだ。
「二人とも、その話をもっと――」
「リック?」
夫婦に話を続けてもらおうとして、今度は変なあだ名で俺を呼ぶ声が聞こえて声が止まる。
懐かしい。俺をそう呼んでいるのは母さんだけ……振り返るとそこにはリンに手を引かれた母さんの姿があった。
苦労しているのだろう、見ない間に少し痩せてしまっただろうか。出ていった時よりも弱々しく見えてしまう姿に勝手に村を飛び出してしまったという罪悪感がふつふつと沸き直し、身勝手ながら胸が温かくなる。
振り返るといつの間にか、アルさんとミンさんの姿はなかった。親子の再会に水を差すつもりはないらしい。
久々の再会に胸を震わせて姿勢を正して身構えた。
「母さん、久しぶり」
そう口にしようとした瞬間。
「何しに戻って来たんだい、このバカ息子!」
いやみ君の剣よりも鋭い拳が思い切り殴り飛ばされ、受け身を取ることも出来ずに吹き飛ばされてしまった。
寒さ対策のための軽装とはいえ、鎧をつけていたことで激突した痛みが激増し、ついでに驚きも倍増した。
さすがにリンは驚いたのか、「お、お母さん!?」と驚いた声が上がったが、吹き飛ばされた理由も言い訳できない自分も理解しているので透かさず体制を整え頭を下げる。
「いっ! す、すみませんでした!!」
「なんで謝るんだい!」
「すべてを放り出して家を出たにも関わらず未熟なまま戻り、あまつさえ騎士になった証拠すら持っていないからです!!」
俺はこの家から逃げ出したと後ろ指刺されてもおかしくない状況で、妹と母さんの二人を置いて王都へ騎士になるために出て行った。それはこの村の誰しもが理解しているであろう事柄だ。
騎士の息子が何も言わずに家を出る。珍しい事じゃないかもしれない。だが、任務とはいえ約束も果たさずに顔を出したのはこうして殴られるのも覚悟の上だった。
まさか鎧を着た大の男が吹き飛ばされるとは思わなかったが、悪いのは約束を果たせなかった俺自身だ。
甘んじて殴られる……否、ボコボコにされる覚悟はできている。
「…………」
母さんは沈黙したまま微動だにする気配はない。畑を荒らした魔物に対するような扱いに、俺と母さんの間をリンが右往左往している気配だけが伝わってくる。
国王陛下やフレミア殿と相対した時よりも汗が吹き出し、防寒具の下を流れていく。これは暑さのせいか、それとも緊張のせいだろうか。
黙り込んでしまっていると、頭の上からふっと笑った声が降る。
「……なんだ、分かってるじゃないか」
母さんの一言でなんとか正解を引き当てたことを直感し、滝のように流れていた脂汗が肌に付きまとっていたのを拭う。
安堵しながら鎧や服についてしまった土埃を払い、その場に楽な姿勢で座り直した。
「やられるかと思った……」
「あっはっはっ、悪かったね。リック」
「あ? なにが?」
「突然殴ったからに決まってるだろ? こうでもしないと黙っていない村の人たちも少なくないんでね」
「別に気にしてないよ。父さんの意思を継いで戻るって約束も守れてないから。さすがにぶっ飛ばされるとは思ってなかったけど」
「なあに言ってるんだい! 今もまだ生きて騎士を目指してるだけで十分じゃないさ。何も考えず出て言った阿呆を見習いな」
「それ、父さんの事だろ……とっくに見習ってるよ」
「え、えっと……お母さん? お兄ちゃんの帰りを歓迎してる……で、いいんだよね? お、お兄ちゃんも殴られて喜ぶ変態さんになったんじゃないんだよね?」
「もちろんさ! 我が子を邪険にするような親に見えるかい? リンも酷い子だねえ」
「ち、違うの! そうじゃなくて……邪険にするように見えないからこそすごく驚いたって言うか……」
「あっはっはっ、リンもまだまだだねえ。そんなことよりも、リック。どうして戻って来たんだい? あんたの琴田、王都が嫌で逃げ帰ってきたわけじゃあないだろ?」
「ああ……いや、この近くで亜人攫いが出たって王都で聞いてさ。それで俺のいる詰所に任務が来たんだ。今日はその任務のついでにって」
「亜人攫い? そういや、近くの村が襲われたって商人さんが噂ふりまいてたけど、それかい? アルとミンさんには聞いたのかい?」
「聞いたよ、おんなじこと言ってた」
「なら、この村にはそれ以上ないかねえ。あの二人はほかの人の話を聞いて回るのが上手だからあの二人以上の情報通はないだろうし」
「やっぱり、そうだよな……」
「…………。そうだ、リック。まだ村には居られるのかい? 今年は小麦がたくさんとれたからね、あんたの好きな石窯でカリカリになるまで焼けたテールトだって作ってやれるくらいの余裕はあるよ」
余裕、か。
太陽を確認するといつの間にか太陽は陰ってしまい、すぐにでも移動しないとあっという間に夜になる。戻る時間を考えれば、あまり長居はできない。
残念だが、好物のテールと葉騎士になった時になりそうだ。
「いや、もう行くよ。無事なのも確認できたし、すぐに戻ることになってる。眠る前の魔獣の氷狼とか、氷鹿にだけ気を付けなきゃいけないし」
「え? お兄ちゃん、もう行っちゃうの?」
「悪い、リン。一応仕事で立ち寄っただけだから」
「そんな……」
「ほら、リン。あんまりリックを困らせたらいけないよ。寂しいのはまあ、分かるけどね」
「意外だな。母さんは、こういう時、引きとめるもんだとばっかり思ってた」
つい、思ってもいないくらいあっさりとそう言われてしまったので、ぽろっと言葉が漏れてしまう。寂しいと言われて恥ずかしくなったのか、母さんにふんとそっぽを向かれてしまう。
「馬鹿言ってるんじゃないよ。息子が自分で決めた夢を引きとめたり、現実みせるような野暮な真似はしないよ。そういうのは父ちゃんが全部やってたからね」
「なんか、拍子抜けだな……」
「あっはっはっ、そういうもんだよ。いいかい、リン? こういう時はちゃんと送り出してやるのがいい女の条件だよ。リックにだってやらなきゃいけないことがあるんだからね」
村を出た俺に対して何らかの思うところはあるはずなのに、黙って――思い切り殴られたが――行かせてくれる辺りやはり良き親だと感じる。
出会い頭にぶん殴られこそしたが。
けっして、根には、持っていない。
だが、母さんの隣で泡合わしていたはずのリンがむくれてしまい、母さんの代わりに納得しない人間が一人増えてしまったようだ。
「お兄ちゃん、もう行っちゃうの?」
「長居してやれなくて悪い。次はちゃんと休暇取って戻って来るからさ。そんなにむくれないでくれよ」
「本当? その時はもっと長く村に居てくれるの?」
「ああ、絶対。約束だ」
「ふふっ、うん! 約束お兄ちゃんは正義の騎士さまだから、約束は守るんだもんね」
昔だったら怒られて泣きそうになるまで駄々をこねていたはずなのに……。リンが随分と成長しているみたいでどこか寂しい気持ちにもなってしまう。昔は俺からひと時も離れずに畑仕事を手伝ってくれたり、針仕事を教えさせられたりしていたのに……。
こんな可愛い妹を悲しませるのは心苦しくなってしまう。
――約束、絶対守れるようにしないと、だな。
二人にはそのまま別れを告げ、フレミア殿に頼まれた任務を終わらせるために軽い足取りで山道を戻っていくことにした。暗い、日が落ちていく山道の中、俺は一刻も早く騎士に成れるようにと活躍する機会を逃すわけにはいかないと決意し、意気揚々と帰路についた。
ああ、そう決意したはずだったんだ。
この時はまだ、あんなことになるなんて思いもしていなかったのだから。