第2節「ルルルクの宿」
「松明の油に、干し肉。それに砥石、っと。あとは何か必要なものはあったかな……」
王都チテシワモ地区のメイン通り。
そろそろ人通りも少なくなってくる日が落ち、ギアンさんに言われた旅支度を整えた俺は、荷物を確認しながら帰路についていた。
手に取った砥石を袋の中に戻し、うんと頷く。
買い忘れもない、これなら大丈夫だろう。
まあ、ギアンさんからは旅費や道具は向こうが用意してくれると言っていたが、旅先で何が起きるかわからない、手元で用意しておいて悪いことはないだろう。
荷物から目を上げると、ちょうど目の前にお世話になっている下宿先――"ルルルクの宿"が見えてくる。
"ルルルクの宿"はその名の通り、ルルルクさんという人当たりの良い弱気な笑顔の主人が経営している宿屋で、亜人も泊まれるという口コミでそれなりに繁盛している旅人用の宿。
宿屋の大きさ自体は大きくはない。代わりに温かみのある木製の建物で主人の料理の腕が良く、元気が取り柄の看板娘がいるともっぱらの噂である。
俺からすれば妹のようにも感じるが……。まあ、それが良いという人もいるのだろう。
しかも、妹のようなものとは言ったが、俺からすればれっきとした命の恩人でもある。
彼女は元気で、人懐っこい子で、チケル村から出てきたばかりで途方に暮れていた俺をこの宿の娘さんが用心棒兼居候として拾ってくれた子だ。
詰所の給料が出るまでは無償で宿部屋と食事を提供してくれたルルルクさんたちには頭を上げられない。
申し訳ない気持ちでいっぱいになるほど、この宿の人たちには優しくしてもらっている。
はやく、彼らにも俺の仕事の事を教えてあげたい。
温かい気持ちで胸をいっぱいにしながら、意気揚々と肩で宿の扉を押し開けると、入店を知らせるドア飾りの音が鳴った。
「今戻りました! ルルルクさん! 聞いてください、俺――!」
すぐにでも誰か出てくると思っていたのだが、そこには人気のないロビーがひろがっていた。
客がいないのはいつも通りだ、昼型の亜人は外に出ているし、夜型も今は起き出してくるかの時間帯だから、底は問題ではない。
いつもは笑顔で出迎えてくれる看板娘のサラが出てこないのはどういうことだろう。
正面のカウンターにも人の姿はなく、鉄でできたベルがカウンターの上にチョンとのっているだけ。
右手の宿泊部屋につながっている壁沿いの階段にも、外からでも中の様子が見れるようにと開けられた窓際にある鎮座したテーブルとイスにも誰も居ない。
カウンターを挟んだ奥には厨房につながっているはずの扉があるのだが、すっかり閉め切られていてこちらからは覗くこともできなかった。
不審に思いながらも荷物を持ったまま来客用のベルを鳴らしてみる。
チリン、という軽い鉄にボールが当たる高音が室内に鳴り響き部屋の中に広がったが、だれも出てくる様子はなかった。
「だれもいないなんて珍しいな……夕飯の臭いはするから人はいるはずだけど……」
さすがに不用心だと思い、カウンターの戸を上げ、厨房の方に足を向ける。
「お邪魔します、ルルルクさん?」
声をかけながら厨房の扉を開けると、目の前には食材が山と積まれたテーブルがあった。
いつもなら奥の裏通りに出られるドアまで見えるはずなのだが、手前にある明るめの木材のテーブルの上にてんこ盛りの肉や野菜等の食材が並べられ、ルルルクさんが隣国で一番良い調理場だと噂を聞いて特注で作らせたという自慢のレンガキッチンすらも見えない。
音はする。誰かしらは居るらしい。
ほっとして食材の山を避けてのぞき込むと、夕飯の支度をしているらしい宿の主人、ルルルクさんが厨房の鍋の前に立っていた。
どうやら普通に集中をしていてこちらに気が付かなかっただけらしい。
「ルルルクさん? 大丈夫ですか? 表にだれもいないみたいでしたけど」
「ん? ああ、お帰り。今日ははやいんだね、リヴェリク君」
「はい、今日は早めにあがれと言われたので。それにしてもいつも通りすごい食材の山ですね」
「あはは、だ、ダメかな……」
「い、いえ。ダメではないかと、この料理だって宿に泊まっている人のための料理ですよね」
「も、もちろん! 自慢の料理を宿に泊まっている人たちに振舞わないと、僕が居る意味がないからね!」
「そんな卑下にしなくても大丈夫……だと思いますよ?」
自信なさげなルルルクさんだが、彼の料理は良質だ。
いかんせん、故郷の村に居た時もお前の舌はやばいと言われ育ったので断言はできないが、ウルルクさんの料理は宿のお客さんに好評で、ルルルクさんの料理を目的に宿に泊まる人もいる。
自信を持っても良いとは思うのだが……。
返答をどもってしまったのがいけなかったか、鍋の前に立っていたルルルクさんは手に持っていた大きめの木の匙を鍋の中に落としかけると、壊れた歯車のようにぎこちなく動き始めてしまった。
この人は人間だったはずだと苦笑する。
「ほ、本当に居る意味ないかな? 僕、料理の腕以外もちゃんと出来てるかな?」
「はい。たぶん。……ああ、いえ! 料理の腕以外も優しい所もありますし、なによりすぐ足りない物に気が付くのは貴重な人材だと、はい。思い、ます」
「ほ、本当かい?」
「ええ、少なくとも奥さんと娘さんはいるじゃないですか、そこは自信を持っていいんじゃないかと」
「そうか! そう言ってくれると僕もまだまだ大丈夫なんだなって自信が持てるよ! 君は本当にいい子だ、リヴェリク君」
「あはは、ありがとうございます」
励ましていると急に元気になってしまったルルルクさんに押され乾いた笑いが出てしまいそうになる。
どうも、この人が元気になった時の圧は苦手なのだ。あまり落ち込まれていてもかわいそうなので何とかしてあげたいのだが……やはり一朝一夕ではどうにもならないらしい。
「あの、それよりサラとウルカさんは? 姿が見えないみたいですけど」
「そ、それよりって……」
落ち込む彼はさておき、厨房の中を見回すが、お腹を減らすにおいが漂ってきているだけで、ルルルクさん以外見当たらない。
サラとウルカさんというのはこの宿の家族――つまり、ルルルクさんの娘と奥さんの名前だ。
サラは件の看板娘。故郷に残してきた引っ込み思案の妹とは違い、城下町育ちとは聞いたが、村育ちの素朴さもあり、いつも周りに笑顔を振りまく明るい元気な子で、まさに看板娘とはあの子のためにある言葉だ。
もう片方のウルカさんは気の弱いルルルクさんの肩を押す優しい姉さん女房タイプの奥さんで、サラに負けず劣らず大人しい口調からは想像がつかない程、社交性にたけている人だ。
せっかく念願の仕事にありつけた、と報告しようと思っていたのだが……。
「まあいいか。君がお望みのサラと妻のウルカは裏に居るよ。ほら、そこのドアから出たところ」
「あっ、ありがとうございます。でも、どうしてだれも表に出ずに裏に……?」
「ああ、しまった、カウンター開けっぱなしだったか。いやね、僕が亜人用の魔道具を買ったからそれを見てるんだよ」
「魔道具ですか? それって魔力を持った人にしか扱えないっていう、あの?」
「そうそう、その魔道具だよ、うちにも亜人のお客さんが増えてきてくれたからね、ランプくらいは入れておこうかなって思ってね、」
国王陛下が亜人受け入れ地区に指定してからまだ数年だが、亜人のために道具を入れようとしているルルルクさんの行動力に驚きと困惑でついつい聞き返してしまっていた。
魔道具――最近このコアコセリフ国でも普及し始めた亜人や人外など、魔力を持った種族専用の道具でランタンやナイフ、大きなものになると冶金道具など、魔力を持つ種族のための道具だ。
ルルルクさんの言う通り、コアコセリフ国内部で亜人の受け入れが始まったおかげで、使う手段があるとはいえ王都で暮らす亜人はまだ多くない。
移送費だって馬鹿にならないことを考えれば、相応に値段がかかるのではないかと、勝手ながら不安になってしまう。
「お金は大丈夫だったんですか? 人間の国で出回っている亜人用品は高いと聞きますが……」
「あはは、リヴェリク君が気にすることでもないよ。それに、部屋に置く用のまりょく? ランプで来てくださった亜人の商人さんに聞いたら、銅貨十枚ほどだったんだ」
「じゅ、十枚? 銅貨十枚だと、果物をたくさん買った方が高いじゃないですか」
あまりの安さにテーブルにぶつかって山盛りの食材に埋まるところだった。
銅貨十枚なら今日俺が買って来た荷物の方がまだ高い。コアコセリフ国でよく出回っているレンガ数個とほとんど値段は変わらない。
仕組みは分からないが、夜の闇を照らす道具にしてはずいぶんと安い。
「そこまで安く売られてるなんて偽物なんじゃ……」
「僕もさすがに疑ったさ。でも、売ってくれた亜人の商人さんが、怪しいのも仕方ないって言って、通行人に声をかけて複数人で点けるのを見せてくれたんだ。仕入れた分の動作確認サービスでサラたちに見せてくれているらしい」
「それで裏に……。一応俺も顔を出しても大丈夫ですか?」
「もちろん。サラもリヴェリク君が帰ってくるのを待ってたから喜ぶと思うよ」
「分かりました。早速失礼します」
サラが無事なことにひそかに安堵しつつルルルクさんの横を抜けると、彼は何かを思い出したように「あ、そうだ」と声をあげた。
「リヴェリク君、きみ、そろそろお相手は居るのかい?」
「お相手、ですか? というと……」
「ほら、それはもちろんお嫁さんの事だよ! 君だってもうそういうのに興味を持ってもいい年なんじゃないかい?」
ルルルクさんがいやらしい笑みを浮かべてずいっと顔を寄せてくる。
鬱陶しい笑顔と、圧力に負けそうになって寄せられた顔から顔をそむけ、持っていた荷物が寄れて袋から落ちそうになった。
「いくら言われてもまだそんな身分じゃありませんし、自分はまだまだ未熟ですから、だれかから嫁を貰うわけにはいきませんよ」
現に母親に約束したことすらまだ果たせていない。
騎士になるという夢に近づけたが、故郷の村でした約束を果たせていない人間が誰かを養おうなんて土台無理な話だ。
「若い! でもそれならなおさら今のうちに探すべきだって。ほら、どうだい。サラなんかは器量もいいし、なにより君の事を気に入ってる。食うのなら今が食い時だぞ?」
「……ルルルクさん、親が言う話じゃないですよ、それ」
「あはは、まったくだね!」
ルルルクさんはあっけらかんとそう言うと、元々冗談のつもりだったのか、ケラケラと笑いながら料理に戻ってしまう。
さっきの自信の無さはどこに行ったのかと呆れてしまう。
だいたい、俺を信用してくれるのはありがたいが、サラだって自分の大事な娘さんのはずだ、どこの馬の骨とも知れない兵士に渡しても大丈夫なのだろうか。
山と積まれた食材の置かれたテーブルとルルルクさんを避け、裏口のドアを開けると、寒くなってきた風が吹き込んでくるのと同時に、丸石やレンガで組まれた建物に囲まれた人が数人横になって通れるほどの路地に出た。
二人は探すまでもなく、黄色基調のワンピースにエプロンを身に着けている少女――ルルルクさんの娘であるサラと、同じ服装のルルルクの奥さんであるウルカさんがいて、二人ともこちらに背を向けていた。
それと、もう一人、ルルルクさんの言っていた商人、だろうか。やけに目立つリャーディコーシカの女性が何かを手に立っていた。
リャーディコーシカ――リャーディは猫という四足動物の耳と尻尾を持った亜人で、目の前の女性は濃い紫色と黒のボーダーラインの毛皮で、腕のひじ当たりまでが毛皮が伸びた人だった。それなりに身なりが良く、たれ目がちな瞳の女性で二人と仲睦まじく会話をしているようだった。
よくよく見てみると、リャーディの手元にはランタンと思われる芸術品のようなものが持たれていて、それが件の魔力ランタンなのだろうと見当をつける。
邪魔するのもどうかと思い壁に体重を預けて待つ姿勢をとると、リャーディの女性と目が合ったぎょっとし荷物の形を腕の形にゆがめてしまう。
驚き警戒しようとした瞬間、リャーディが「それじゃあ~」と妙に間延びした声で絶妙な間を取り、警戒する間もなくランタンを持ち上げた。
「そろそろ商品の確認をお見せしようと思います~。今回こちらの宿の旦那様が購入いただいた魔力ランプはこちらの魔力ランタンと同じ仕組みだと作った種族の方はおっしゃっていますの。なのでこうして……」
リャーディが持っていたランタンを差し出し、もう片方の手をかぶせるように上部へ添えると、やんわりとした白色が路地を照らし、松明のように明るくなる。
普通のランタンではああはならない。昼間にでもなったかのような光景に驚いていると、サラも「わあ!」と声を上げた。
そして、光った時と同じように徐々に光が失われていき、元の路地裏の暗さに戻っていく。
「すごい、綺麗だった」
「はい。こちらが魔力ランタンの一般的な光量になります。私は魔法が専門外だから、この程度しか照らせないけど、魔力が異常に大きい方なら目が眩むほどの光にもなるわ」
感心していたが、兵士としては今の説明を聞いた限り、悪いことに使われないかと心配になる。
この地区は魔力を持っている亜人も多い、国王陛下の裁量で亜人を受け入れている手前仕方ないとはいえ、善良な亜人ばかりではない。今のところ外の貧民街と比べれば段違いで治安が良いとはいえ、いつ不祥事が起きるかなんて誰にも想像ができない。
今からでもルルルクさんに進言をするべきか迷っていると、サラが勢い良く手を挙げる。
「は、はい! お姉さん! それって光の量を上げたり、下げたりできるんですか?」
「ええ。私は調節する必要はないけど、魔道具自体が調整してくれるのよ。魔力の大きい種族は自分で調節することになるって聞いたけど、そんな魔力の大きい人はそうそう居ないから気にしないで大丈夫よ~」
「じゃあ、色は! 色も変えられるんですか?」
「あら、珍しい質問ね。答えはいいえよ~。私は真っ白な光だけど、使う種族だったり、人だったりで色が変わるの、だからくるお客さんによって違う色を見られるのよ」
「す、すごい……」
「うふふ、かわいい子ね、もふもふできないのが残念。ああ、でも、目が眩むほど魔力を集中すると、大きな音を立てて割れてしまうこともあるの。使い方が分からないってお客さんにはそう説明してあげてね」
「わ、分かりました。覚えます!」
「うふふ……。なので、兵器としてはあまり使えないし、犯人はすぐに分かるから安心してくださいね。そちらの兵士さん」
「は、え?」
遠くで会話が終わるまで待っていようと思っていたのだが、突然、リャーディの女性に声をかけられて動揺してしまう。
驚いた、一瞬目が合ったから無視されただけかと思っていたのだが、ちゃんとこちらの事を想定した商売トークだったらしい。
リャーディの女性の声でサラとウルカさんが振り返り、サラの表情がぱあっと輝いた。
「あ、リク! おかえりなさい!」
「あら、戻ってたんですね、リヴェリクさん」
「あ、ああ、ただいま帰りました。サラ、ウルカさん」
「リク、すごいのよ。魔力ランタンってすごい綺麗に光るの」
「ああ、見てたよ。綺麗だった」
「ね! ね! リクもそう思うわよね。これね、わたしが店に入れようって頼んだのよ?」
「そうなのか?」
「うん! お父さんのお店、王都の外側にあるし、これから先亜人のお客さんも増えるかもしれないって!」
サラが飛び跳ねながら教えてくれ、思わず妹のことを思い出してしまい、微笑ましい気持ちになる。
うんうんとサラの報告を聞いていると、リャーディの女性はどこからか取り出した革袋を両手で持ち上げ「それでは~」と会釈する。
「お楽しみ中のところ申し訳ございません。私はこれで失礼しますね。奥様、お客様である旦那様にはこれからもカリーナの行商によろしくとお伝えくださいね~」
「あら、すいません行商人さん。ここまで説明に来ていただいてしまって、ありがとうございます」
荷物を持ったリャーディ――カリーナと名乗った女性にウルカさんが頭を下げるとゆったりとした動作で手を振った。
「いえいえ~。"お互いの利益になるのであれば魔族でも天族でもお客様には親切に"がモットーですので、おきになさらず。今回は特別に亜人仕様の商品でしたけど、宿の用品を仕入れたい時は商人ギルドの派遣要請を通してまた是非お声がけください、仕入れの値段もお勉強させていただきます」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
優しいウルカさんがいつも以上に丁寧に対応してくれているのを見ると、どうやら思っていたよりもサービスをしてくれたらしい。
しかし、商人でギルド絡みとなれば納得だ。あの連中は安くさらに幅広く扱っている――それこそ件の奴隷組合もそのギルドの一端だ――ので、信用という言葉をそれこそ金銭を使ってでも得る集団なので、その点においてはまず大丈夫だろう。
相手がギルドの人間だと分かり、無駄な警戒をしていたなと思っていると、カリーナさんがじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
「えっと……なにか?」
「いいえ。でも、もしかしたら出先でリヴェリク君と会うことにあるかもって思っただけよ、もしそうなったらごひいき、よろしくお願いしますわ」
「え? それはどういう――」
名前はサラが呼んでいたが出先で会ったらというのはどういう意味だろうか。
聞き返そうとしたが、カリーナさんは「それでは、この度はカリーナの行商をご利用いただき、ありがとうございました、またどこかで」と頭を下げると、通りに出る路地の方へ歩いて行ってしまった。
終始カリーナという女性のペースにのまれてしまい何も言えなかった。
「今のは、いったい……」
「商人さんの事? あの人はお父さんにランプを売ってくれた商人さんよ、リク」
「ああいや、そうじゃなくて……いや、まあいいや」
「まあいいや?」
やけに気になることを言い残したな、と言おうとしたが、むっとこちらを見上げているサラには聞いてもわかりそうにない。
説明が面倒くさくなってはぐらかすと、ぐっと腕を引っ張られ、ひじ当たりにサラの柔らかい感触が広がる。見ると荷物と腕の隙間へ器用に腕を差しこみ、俺の体を固定していた。
まずい、妹によくやられた逃がさない攻撃だ。
「むっ、じゃあなんなのよ、リク」
「いや、何でもないって、サラ。気にしなくても大丈夫」
「そんなこと言われたら気になるわ! それに、その……」
「それに?」
「あの商人さん。カリーナさん? 綺麗だったもん。気になる気持ちは分かるわ、リク」
何が分かったのかわからないが、サラはそう言いながらさらに身を寄せられる。
困った、払いのけようとしたらすぐにできてしまうが、サラは妹みたいなものだし、力で押しのけてケガさせてしまってはルルルクさんに申し訳もたたない。
何も言えずにいると「ねえ!」とサラの怒った声で問い詰め、困っているとウルカさんが楽しそうに笑っていた。
年頃の娘さんなのだから、笑う前に助け舟を出してほしい。
「ちょ、ちょっと助けてくださいよ、ウルカさん」
「ふふふ、申し訳ないんですけど、少しだけサラの事をお願いしてもいいですか? 旦那が寂しがってるといけないので。かっこいい兵士さんなんですから」
「えっ? ああはい。それはもちろんです。お任せください」
「あ―! お母さん、リクと何を話してるの!」
「なんでもないわ、サラ。心配しなくてもいいのよ」
「し、心配なんてしてないし!」
「ふふっ、それじゃあよろしくね」
むっとするサラにウルカさんはくすくすと笑いながら横を通り抜け、そのままルルルクさんのいる中へ戻っていく。直後、中から「マイスイートハニー!」と涙交じりの声が聞こえてきて、すぐに聞こえないふりをしようとここに決めた。
ウルカさんを生暖かい目で見送っていると、温かかった腕がぎゅっと力を込められて、意識をサラに持っていかれた。
「ねえ、リク。それはなに?」
「そ、それ? ……ああ、この荷物か。そうだ、サラに報告したい事があってさ」
「わたしに? ん、リクがそういう言い方するってことはいいことなんだね?」
「ああ、実は騎士隊の人と仕事ができるかもしれないって。もしかしたら、そのまま騎士隊に入ることも夢じゃないかも!」
「“きしたい”って、リクが憧れてるって言ってた仕事だよね?」
「そう、その騎士隊。今日、陛下にもお会いしてさ、その後、騎士の人と一緒に遠征する任務を隊長からもらったんだ」
「すごい! 陛下にもお会いしたのね! 遠征ってことは遠くへ行ってお仕事をするの?」
「一度故郷に戻ることになったよ。これで俺もようやく実力を認めてもらえた。……って言いたいところだけど、騎士隊の人たちに任命されたわけじゃないし、まだまだだけど……。ああ、でもこの仕事がうまくいったら顔を覚えてもらえるかもで、騎士と知り合える機会なんてないから、それも嬉しくてさ。それでお世話になってる人たちには先に報告したいなって――」
そこまで一気に喋り、サラが黙り込んでしまっているのに気が付いてハッとした。仕事はあくまで俺の私事で、サラには関係がない。
こんな男の独りよがりな話、サラは退屈じゃないだろうか。
「悪い、俺が一方的に喋りすぎた」
「ううん。リクが楽しそうだから平気」
「そうはいかないって。俺は世話になってる身なんだから――」
「看板娘さんには優しくしないとって? リクはいつもそればっかりだね」
「人として当たり前だ。それに、サラたちは店主とか看板娘っていうより家族みたいに守るものだって思う」
元々、騎士を目指している俺にとって民草は守るべき対象だし、サラは妹みたいなものだし、ルルルクさんやウルカさんだって俺と食事の席を共にしてくれている。感謝しなければいけないのは俺の方なのに。
そう思って家族と口にしたのだが、サラはうつむいてしまいさらに腕に抱き着かれてしまった。
「か、家族って……えへへ、家族ならリクの事お祝いをしなきゃ!」
「そこまでしてもらうのは悪いって。それにまだ決まったわけじゃ……」
「何言ってるの! せっかくリクが頑張ってきたことが報われるのよ? 盛大にお祝いしなきゃダメじゃない! それに……」
腕が急に解放され離れたサラが俺の周りを一回りしながら、器用に裏口の戸を開けた。
まるで、観劇でダンスを踊るお姫様のようで、テンションの高いサラに微笑む。
「それに?」
「優しいリクに良いことが回って来たんだもん。今までリクは正義の為に頑張ってきてくれたんだもの。きっと神様が見ててくれたんだわ」
ニッと笑ってそういうと、サラは宿に戻って行ってしまった。
突然の事で理解が出来ず、必死になって頭を回した結果、それなりに恥ずかしい事を言われたのだと分かり、ぼっと頬が熱くなる。
中から元気な声が漏れ聞こえ、一人路地に残された俺は再び背中を壁に預けた。
肌寒い路地の風が頬に当たり、恥ずかしくなった気持ちを抑え込んでくれる。
「頑張ったから、か」
サラはそう言ってくれるが、俺自身頑張ったつもりなんてかけらもない。
まあ、出来るだけ守ろうと努力はしてきたし、間違っていることを正々堂々と正面から間違ってると言って来ただけ。
今日みたいに兵士とケンカになることだって多々ある。……到底、優しいともいい人間ともいえる行動はない。
ただ……ただ、なんというか。俺を拾ってくれたサラにそう言われてしまうのは……こう、気恥ずかしいものがあった。
熱くなった頬に風が冷たく震える。
まるでさっさと皆の輪に戻れとせかされるようだ。
このまま路地で風邪をひくわけにもいかないので、サラの背中を追って宿の中へ戻らせてもらうことにした。