第10節「メアー」
ぼうっと見上げた空にどこでも変わらない空が広がっていた。
そろそろ落ちそうな日が降りそそぎ、あたりに乾きかけの湿った土の匂いが充満している。先程の騒ぎと比べれば静かになったうめき声で、今下手な状況よりも安全だと教えてくれていた。
症状物騒ともいえる状況の中、腕の中に暖かな他人の熱を、背中で生暖かい泥を感じながらも嘆息する。
「さて、どうしたものか」
自分の腹部を見下ろして……いや、泥から頭を上げると腕の中には長い耳の少女が、安心しきったように胸元で深呼吸をし、目を閉じて俺の体の熱を感じ取るかのように抱きついている。
傍から見れば、多少なりとも男女の営みに見えたりするのだろうか。
いや、身長差的に兄妹の戯れか。
ただ、自分でもそう思えてしまうほど、お互いの距離を近く感じてしまう。
完全に少女の体が俺の上にすっぽりと収まっている物の、背も小さく痩せている彼女を重いとは思えない。
彼女が落ち着くまでこうしてやるのもやぶさかではなかったのだが、泥に変化したとはいえ、ここは道の真ん中だ。
寝そべっていれば危険だし、なにより血の臭いを嗅ぎとったフォーヴ化した獣や魔力にひかれた魔物が来るかもしれない。
腕の中でうっとりしている少女に、多少緊張しながら声をかける。
「おい、平気か」
「…………」
「はあ……。今俺の腕の中でうっとりと目を細めているお前に言っている。聞こえるか?」
「……わた、し?」
「そう、お前だ」
「っ、ご、ごめんなさい」
どうやらずいぶんとご満悦の様子だ。
想定していたよりもズレた反応に、張り詰めていた緊張が抜ける。多少なりとも機嫌を損ねたり、慌ただしい反応を想像していたのもあり、脱力感が酷い。
念のため見える範囲でキズが出来そうな範囲を見てみるが、綺麗な柔肌だ。痛みを訴える様子もない。
「……とりあえず俺の質問には答えてくれ。平気だったか。すべて報告しろ、キズがあったら面倒だ」
「は、はい。平気、です。ご主人さま」
「ん、そうか……。ご主人様、か」
「な、なにか気に障りましたか? だめだったら直し、ます。ご主人さまがだめなら旦那様でも、お名前をお呼びしますか? いっぱい頑張ります。だから、だめだったら教えてください。直したい……ううん、直す? ん、直します」
「どうでもいい。お前のすきにしろ」
「……はい、分かりました。ご主人さま、は?」
「俺?」
「キズついてたり、してません、か?」
「……お前が気にすることじゃない」
「で、でも……」
「っ、くそ……。いや、平気だから心配をするな」
「は、はい。分かりました」
雑に答えたせいか、掴まれていた服が引っ張られてしまう。必死にも感じる受け答えに、ついつい心配と動揺し、彼女の一挙手一投足で目も奪われてしまう。
亀裂の入った心が割れそうになり、意味の分からなさでばつが悪くなる。
この少女の事を気にしている場合ではない。今は俺の心などどうでもいいのだ。
とにかく、動かない事には何も始まらないと、少女を抱きかかえたままだった腕をはずし、彼女が泥に倒れないよう気をつけながら上体を起こす。
しかし、体は起こせたものの、少女は一考に俺の上から離れるつもりはないらしく、立ち上がろうにもぎゅっと腹部の上にとどまれてしまった。
何か勘違いでもしているのかと退かそうとすると隈の浮いた瞳で見上げられてしまい、伸ばした手が彼女に触れるのを拒否してしまう。
嫌われている……にしてはくっつきすぎだ。どちらかと言えば、少女の反応は――。
――懐かれている……のか? だが、どうして……。
意味の分からない好意に戸惑い、行き場のない手が自然と体の重さを支えるために背後の泥に手をついてしまう。
ずぶずぶと指と指の間から太陽の熱を吸った泥が侵入し、心地よいとも気持ち悪いとも言える感覚に侵入され、まるで彼女が俺の心に入り込んでくるかのように感じ、戸惑いと恐怖に近い感情を覚えた。
声を出せずに居ると少女が顔を上げて濃い隈の浮いた瞳で見上げられる。
「あの、ご主人さま。ひとつお願いをしてもいいですか?」
「なんだ」
「これ……」
自分でもわかるほどぶっきらぼうに返してしまうと、彼女はずっと握っていた革製の大きな首輪を差し出した。
それは最初に見た時にも握りしめていた首輪だった。
細い彼女の首にはめればちょうどよい大きさ……だろうか。実際にはめたことはないが、これが彼女の奴隷としての証だったのかと見当をつける。
「これは、首輪か?」
「はい。ご主人さまの物という証。その首輪、です」
「これを俺にどうしろと」
「あの人たちが……。ご主人さまに会ったらつけろって。そう言ってました」
それは、今の俺が少女のご主人さまになる、ということだ。
断る理由は、ない。今ここで断れば、きっと彼女を利用することなどできない。
だが、差し出された首輪をじっと見つめてしまい声を出せずに居ると、目の前の少女は首をかしげる。
「……本当にいいのか?」
「ご主人、さま?」
「本当に俺の奴隷なんかになっていいのか」
「どうして?」
「俺は……ひどい人間だ」
何故か、首輪をつけて欲しがっている彼女にそう言ってしまっていた。何歳かも……それこそ、俺の言ってる言葉を理解できるかもわからない彼女に。
口に出した言葉を戻すことは出来ない。言ってしまったからには観念して言葉を続ける。
「俺は俺の私利私欲のためだけにお前を救った。もしかしたらお前はこの先俺へかかるはずの罪を被るかもしれない。もしくは俺と同じように恨まれることにもなる」
当然、そうさせるつもりは毛頭ない。
だが、何も知らない他人から見れば俺はただの悪人だ。これを聞いてもまだ俺を主人だと認めるのかと聞くと、少女はためらうことなく頷いた。
「ご主人さまが、いいって思った」
「なんで、そこまで俺を……」
「……私はご主人さましか居ない、から」
「そう言えと、言われているのか? 正直に話せ、でないと俺は――」
「ご主人さま。褒めて?」
「っ……お前は! いや、最初もそう言っていたな」
「それがいい。信じなくてもいい、です。勝手に使って、ください。褒めて、くれるのなら、好きなことをしてください」
暗に「体でも」と言われ、言葉に詰まる。
そこに性別も種族も関係ない、ただ求める者をくれるから何をしても良いと彼女はそう言っていた。
唇を嚙み、少女の言葉をかみ砕いていると、穏やかな口調で少女に微笑まれる。
まだ幼さの残る体をぐっと寄せられ、すぐ目の前……吐息のかかるほど近くまで少女の唇が近づき密着させられる。上半身に少女の重さが増えた分、指の間に絡んでいた泥が押しつぶされて広がった。
「へい、きだよ? たとえ、あなたが私を利用するためでも、私を壊すためでも、私を殺すためでも……。褒めてくれる、ご主人さまなら……私を、褒めて……。えへっ、私はご主人さまの物になりたいって思った、よ?」
「そう、か……。それがお前の覚悟なんだな」
彼女の勢いと熱意で泥が指の間からこぼれ指の背や爪を昇って地面に落ち、細いと生きが口から漏れ出た。
利用されてもいい、か。
ただ、そう言われどこかほっと胸を撫でおろしている自分が居た。
明確に俺を主人と認め、そのうえで従属をしても良いと本人が口にしているのだ。たとえそう言えと教育されていたとしても、恐怖もなく今の言葉は出てこない。
問い詰めたところで、この言葉をこの表情で言う彼女の口からはこれ以上分からないだろう。
なら……。
そっと腕を泥から上げる。
外気に触れた指先が冷たくなる。泥のおかげか、かじかんでいない手でざらざらとした革製の首輪を取り上げると、不思議なことに首輪にも手にも、泥はついていなかった。
首輪を両手で持って広げ、祈るように手を合わせている少女を抱き寄せ首元に首輪を回していく。かさついた肌と首輪が指先を擦り、慣れない自分に合わせて少女が首輪に身を寄せてくれた。
皮肉な話だ。
最初こそ物扱いを受けていた彼女を救って正義を成そうとしたのに……。今は助けたその子を自分の復讐の道具にしようとしている。
あの男のように。
吐き気を覚えてしまいそうな自己嫌悪の中、目を細めながらバックルを彼女の咽頭前まで回転させて指が入る隙間を作ってしっかりと止めベルトから指を離す。
彼女が首輪を確かめるように撫でると、カチャリとベルトのバックルが擦れた。
「ご主人、さま……」
「これでお前は俺のものだ、もう後戻りはさせないぞ」
「ふへっ、はい」
「…………。お前、名前は」
「無いです。前の名前は忘れろって大きい人が」
あまりに酷い発言に思わず顔をしかめてしまう。
名前を忘れる。この世界に置いて忘れるということは居場所を奪うのと同義だ。奴隷商でも名前は奪わないのが王によって定められている。まともな奴隷商であれば、名前を忘れろなどという訳もない。
「酷い人間だな」
「ご主人さまと同じ、ですか?」
「俺とは別の悪さだ。許すわけにはいかない」
「ご主人さまがそう言うならきっと、そうです」
「しかし、名前がないと不便だな……本当に覚えてないのか」
「ご主人さまにつけろって言われたから」
「俺に? 名前まで付けろと?」
俺の問いにこっくりと頷かれてしまう。
この様子だと元々興味が薄かったか、記憶自体が抜け落ちている可能性が高い。
名前を付けることで自分の所有物だと明言する風習があると聞くから、その奴隷商はそのつもりで名前を忘れさせたのだろうとも思う。
しかし……。
「お前は、それでいいのか。名前なんて付けたこともないぞ」
「ん、大丈夫、だよ? オマエでも、ノロマでも、グズでも……ご主人さまが呼びたいように」
「いや、考える……。名づけか……」
さすがに奴隷だった彼女をそう呼ぶのは躊躇われる。
周囲をもう一度見渡し、安全なことを確認してから彼女の名前に頭を悩ませることにした。
「名前、名前な……。ラプールは種族名だし……。かといって長いと呼びづらい……。他になにか……」
チラリと腹の上でただ俺の言葉を待っている少女を見る。
垂れたかぼちゃ色の瞳に、濃い隈。ぼさぼさでアメジスト色の髪に長く伸びた耳。尻尾は……あるかどうか見えない。手と足先はほとんど人間と変わらないし、特徴的な部分も見当たらない。
あと何か後すれば……過去だろうか。
先ほど見た過去の映像を思い出す。
酷い男に優しかったのにバラバラになった女性。他人からすれば悪夢にも見える光景。
ふと、不幸な目に遭っていると考えると意味深げな偶然のめぐりあわせだ。俺もあの男に悪夢を見せられなければ、またこの子を助けることもなかっただろう。
ある種の悪夢を経験したという点では俺と彼女、近しいところもあり下手な人間よりも親近感がわいた。
悪夢、悪夢か……。
「…………。メアー」
悪夢という単語が浮かび、知らない単語を勝手につぶやいていた。
「め、あー……?」
「あ、いや……」
「めあーって、なんでしょうか?」
勝手につぶやいたことを説明をしろと言われ困ってしまう。
ただ、彼女を――俺の目の前に現れてしまった腰まで届くような長く薄いアメジストの長い耳と髪をしたかぼちゃ色の瞳を持った亜人の少女に、それがしっくりくるような気がしてつぶやいただけ。
説明しようと思ったが、なんだか異常に恥ずかしい気がする。
恥ずかしさを紛らわせるために、小首をかしげている彼女の首元に手を伸ばし、首輪から出ている地肌に触れる。
ん、という短い吐息とともに顎を上げられ、ピンと耳の根元が持ち上がる。柔肌を撫でるとんぅ、と悩ましげな声が彼女の口元から漏れ、余計に恥ずかしい事をしている気分になった。
とにかく、今は彼女の名前だ。
「その……名前だ。呼び名がなければ困る。だから、メアー。お前の名前だ」
「めあー。メアー……」
少女はまるでかみ砕いて嚥下し味わうかのように、"メアー"という言葉を繰り返す。
「ん、わかった。私は、メアー。ご主人さまのもの?」
メアーは小さくうなずくと、ほっとしたように首に回した革製のベルトへ手を伸ばす。まるで、愛しいものに触れるかのようにふっと柔らかく微笑み、細い指先で首輪を上から下に撫でていく。
年齢が分からなくなりそうな仕草に視線を取られてしまいそうになり――、
「だ、だれか、助け……! ひぃああ!」
はっきりとうめくような叫び声が馬車の瓦礫越しに聞こえ緊張が走った。