第9節「正しい騎士は復讐の為に悪夢を染める」
一瞬、迷い、そして――。
「お前が気に入った、これからは俺の物だ。お前を俺の好きに使わせろ。代わりに俺も勝手に使え」
気が付けば、咄嗟に浮かんだ言葉を口走っていた。
緊迫した場面であるのにもかかわらず、あまりの意味の分からないセリフに恥ずかしさを覚え、頬に火が付きそうになる。
馬鹿か、俺は。いや、馬鹿なのだろう。
――くそっ、なぜ俺はこんな恥ずかしいことを口走った!
絵物語で読んだ事すらないセリフに羞恥心を覚えていると、周囲の騒がしさがいくらか収まり、声に余裕のある兵士たちが「こっちは終わったぞ」と安否確認の声が聞こえてくる。
人生の中でトップクラスの恥ずかしさだったが、そんなことを気にしている場合ではない。
檻の間に腕を差しこみさらに奥へと手を伸ばすと、座っていた少女が床に手をつき、尋常ではない色を称えた橙色の瞳で上目遣いにこちらを食い入るように見上げ、ゾクッと背筋が凍った。
その姿はまるで命を求めるアンデッドのようだと思ってしまったからだ。
だが、そう思わせる迫力が彼女の体からあふれ出していて、思わずつばを飲み込んでしまう。
こちらにゆっくり……ゆっくりと、親鳥に餌をもらう小鳥のように首をもたげながら這い、たわんだ服の隙間から傷の無い彼女の体が垣間見える。
興味はない。なのに、幼子にも見えてしまうその体が俺自身を丸呑みにするかのような錯覚に包み込まれた。
このままではこの子に心を侵食されてしまう。
言いようのない恐怖を覚え、現状を確認するために無理やり少女から目をそらすと、幸いにもまだ氷狼に手間取り、今のうちに彼女の力を借りられれば何とでもなりそうだった。
「っ、よし。まだいける。おい、おま――っ!」
ほっと胸を撫でおろし、少女に視線を戻し怒声が勝手に止まる。
檻のすぐ向こう、伸ばした腕をよけ、もう一方の手を伸ばせば、檻越しに抱擁が出来そうなほど近づかれていた。
檻越しに長いまつげとくっきりと残ってしまっている目元の隈がはっきりと見え、彼女のカボチャ色の瞳はかすかに潤んでいた。
少女の熱を帯びた吐息がかさついてしまっている唇から漏れ出し、しなやかな指先で胸板をゆっくりと撫で上げられる。
手つきに驚かされたが、少女の小ささに驚かされていた。
――近くで見ると小さい。本当にいくつなんだ、この子は。
背は俺の胸に届けば良い方、だろうか。先の声色からしてもその体躯に見合った声で、亜人の性質でないのならば、俺より十は年下と言われても不思議はない。
細さゆえに愛嬌がある。亜人だからか器量も非常にいい。小ささゆえに保護欲を掻き立てられる。よくこんな少女があの悪の塊たちの中で無事に居られたと感心するほどだった。
見惚れそうになっていると、薄紫色の髪の海にこちらが引き込まれそうになり、細い唇がぷっくりと割れる。
「あなたが、新しいご主人さまですか?」
少女は、俺を見上げながらそう口にする。
多少かすれた、しかし、この距離ならばはっきりと聞こえる大きさの声。どこか切に願っているような、そんな声で意味の分からないことを口にした。
意味は……分からない。もしかしたら、奴隷であることを受け入れているからこその発言か。真意は分からないが、そうであるのなら俺にとっては都合がいい。
助けを求めるような少女の声を肯定するために首を縦に振る。
「あ、ああ。そうだ」
まだ残っていた罪悪感で、せめて夢をみせてやろうとこの子の願いを受け入れると、少女は安心したように微笑み、小さな手を胸元でギュッと握りしめていた。
もしかしたら、これもあの男の罠なのかも――。
「ほめ、て……」
「あ? なんだ」
「褒めて、くれますか?」
「こんな時に何を言って……いや、言うことを聞けたらな」
「っ、やっと見つけたやっと……」
「やっと……?」
「っ! あっ、しろ、っ、う、しろ」
突然、檻越しに服の裾を掴まれそう言われる。
何かを訴えるようだったが、表情の変化が苦手なのか無表情に近く、何を訴えているかはわからない。だが、明らかになにか異変があるのが分かった。
嫌な予感に背後を振り返ると、先ほどの兵士が剣を振り上げてこちらに走ってきていて、血の気が引いた。
このままでは殺られる。
今すぐにでも離れてあの男の対処に向かうべきだ。しかし……。少女を見る。
俺を見上げるカボチャ色の瞳を持つ亜人の少女、あの兵士からでは俺で影になってここに彼女が居るなんて見えない。当然、あの剣の降り方で少しでも檻の隙間を抜ければ彼女を犠牲にしてしまう。
この子を犠牲にするわけにはいかない。
体が勝手に動き、檻に突っ込んだままの左腕でラプールの少女を引き寄せ、残っていた右腕で剣の振り下ろされそうだった位置に腕を置き剣から少女をかばっていた。
そして、そのままでは少女を守ることしかできないと気が付き、頬の上を汗が流れ、自嘲で口元が歪んだ。
――はっ、長年の職業病か。くそっ、ここで終わりか……。
せめて少女を守ろうと抱えていた左腕に力を籠め――。
「…………て」
瞬間、檻越しに居る腕の中の少女から静かなつぶやきが漏れた。
しかし、襲ってくる兵士に焦っていたこともあり、あまりに小さい声で聞こえず、危ないとわかっていたのにも関わらず無意識で彼女の方を向いてしまう。
目の前の少女が俺を――いや、俺だけをその瞳に映して、暖かな微笑を浮かべた少女が檻越しに抱き着き叫んだ。
「抱きしめて!」
「だ、だき!? お前は、こんなときに何を!」
「おね、が、い!!」
「っ! くそ!」
年下にしか見えない少女の剣幕に押され、かばうためにあげていた右腕も差し込みさらに近くへ抱き寄せる。
木の硬い痛みが両腕にかかり、等間隔で空いた柵の隙間から他人である少女の熱が伝わってきた。
こんな時なのに、そこに居る少女の熱がひどく熱い。
風邪でも引いてるのかそれともそういう種族か。生きている少女がそこにいて、俺は彼女を抱きしめていて……。
ふと、触れていた手に不思議な暖かさというべきか。いや、冷たいかもしれない。言い表せない物を感じ、頭の中にもそれが流れ込み始めて動揺させられる。
少女と俺の隙間から足元を覗くと、可視化された光が地面に流れ込み、その多くが彼女の体から流れ出していくそれだと気が付いて息をのんだ。
「これはいったい……」
「あの、ご主人さま」
「な、なんだ」
「今度は全部壊さないから、たくさん褒めて、ね?」
「褒める? なにを――」
聞き返そうとすると、温かく流れていたソレが濁流に変わり、馬車の床を、木目を、車輪を通りその先の大地へと溢れていく。
目の前の光景に目を奪われ、兵士に襲われているという事実を忘れかけていた時、脳裏にそれが彼女の魔力によるものだというイメージが歯車を無理やり合わされたようにガチリと音を立てて浮かぶ。
そして、歯車が合わさった瞬間、温かい何かが少女と俺を包み込み、見たこともない映像が頭の中に流れ込んだ。
俺の村のような小さな木の家で、殴りかかってこようとした誰かと、自分に優しくしてくれた女性がぐにゃぐにゃと生き物のようにうごめく泥に呑みこまれ、赤い血が溢れる腕だけを残して目の前から沈みこむ。男か女かも分からない悲鳴で家が揺れ、ものすごい音を立てて壊れる家と泣き叫ぶ声が響き渡り、最後に残ったのは寂しいという感情だけだった。
ハッと見下ろすと亜人の少女に抱きしめられている自分と木の檻が見えて、今のが夢や幻覚の類だと気が付かされた。
今の光景はいったい……。
俺にそんな思い出はないとすると、今のは彼女の記憶か。
あんな最低な男と彼女を守ろうとした母親らしき女性が泥に沈んでいくソレが。
戸惑いの中で微睡んでいると、温かさと抱擁感がどろりと溶けだし、排水溝に流れ出ていくように地面に吸い込まれて生き、ぎゅっと胸元に少女の頭を押し付けられる。
「ああ……見てくれる人を守りたいの。ご主人さまともっとお話ししたいの。だからうるさい人は殴る人みたいに『汚泥の土に飲み込まれて』」
祈るような言葉が漏れ出したその瞬間。
胸に頭を沈めた彼女の向こうの景色が目に入り、言葉を紡ぐことを忘れてしまう。
そこには地獄が広がっていた。
先ほどまで何の変哲もない踏み固められただけの砂利道だった地面が、瞬く間に泥土がブワっと広がる。その泥がなにか分からないうちに、戦っていた兵士だけでなく馬や氷狼を捕食するように包み込み、ぐちゃっという肉を潰した音と共に赤い沼になり、それがなんなのかようやく理解した。
それは、人を食う泥の沼だった。
足元だけを飲み込まれた兵士が異変に気が付き「な、なんだこれは!」という叫び声を皮切りに悲鳴や巻き込まれた馬や氷狼の泣き声が漏れ聞こえてくる。
さきほどまで怒号や励ましの声が上がっていたはずなのに、困惑と恐怖、ケガに満ちた凄惨な病院や教会のようになり、足を踏み入れることすらたじろぐ世界が広がった。
信じられない光景が広がり、息をのむ。これがこの子の力なのかと思うと、恐怖と同時にフレミアへ復習を果たせるかもしれないという高揚が胸の内に溢れていく。
ああ、そうだ。これならば、あの罪人どもを……!
言いようのない歓喜が心の中にあふれ出し、少女のを抱きしめた腕に力が入ってしまう。
これが、あのフレミアが恐れていた力だというのであれば、間違いなく復讐を果たすことが出来るだろう。
だが……。
目の前の光景を目に焼き付ける。馬も氷狼も、俺を見捨てた積しかない罪人たちの血溜まり。
これは、俺の罪のはずだ。はずだった。だが、これでは……。
腕の中にいる少女をぎゅっと抱きしめる。
これでは、亜人の少女だけが罪に問われることになってしまう。
その可能性に気が付き、血の気が引いた。
目の前の惨状を助けようとすら思わない俺はもう手遅れでしかない。
だが、この子は違う。
いくら力を持っているとはいえ、それを使えと言ったのは誰が何と言おうと俺で、罪を被るべきなのは俺だけだ。
だから、せめて俺だけが罪に問われるように動かなければと覚悟した。
それが、この子を巻き込んだせめてもの償いだった。
「もう、平気?」
「……え?」
「……ご主人さま、傷つける人は止まった?」
「え、っと……」
そうだ、後ろのやつはどうなった。あいつも、あの泥に……。
振り返るとあたり一面に泥土の海が広がっていた。馬車も兵士も悲鳴の上がっていた馬や氷狼の死体はどこにも見えず、いかに恐ろしいことがあったのかと想像させられてしまう。
しかも、飲み込まれた兵士の周りだけが元の地面に戻り、大地という不動の口腔に下半身を食われ、身動きが取れずに苦痛を訴える者の声が続いている。
背後から襲い掛かって来た男に至っては姿かたちすらない。まるで最初からそこにいなかったかのように消え失せ、おそらく立っていたであろう場所には剣が柄を下にして突き刺さっていた。
これがあの男の言う『兵器』か。下手をすれば俺もああなっていたのか……。
心底彼女を守るために抱き寄せてよかった。
眉を寄せると檻越しに弱々しい力で抱き寄せられ、視線を戻すと笑顔で俺の言葉を待っている少女が耳をピンと張っていた。
俺の言葉を……待っているのだろうか。
「俺は……ああ、平気だ」
「本当? えへへ、良かった……」
「周りの泥……これはお前がやったのか?」
「ん、駄目だった?」
「いや……」
「良かった……。やっと見つけてくれた人、いなくなるの、嫌だから。今度は大丈夫だった……」
にへらと表情を崩され、この惨状が彼女の作り出したものだと確信させられる。
とんだ兵器だと苦い顔をしそうになったが、少女が黙ったまま俺に抱き着き続けていることに気が付き、離れようとしない。
そういえば、さっき褒めてほしいとか言ってたか。試しにリンやサラたちにしてやったように頭を撫でてやる。
指先に手入れがされていない髪が引っかかったが、それでも痛まないように撫でてやると、長い耳の根元が上がり重さに負けた耳が後頭部のほうに垂れていた。
嬉しい、のだろうか。
感情が表に出やすいのが亜人種のいいところだが、ラプール種の反応が俺にはいまいち理解できていないこともありどう感じてくれているかが分からなかった。
どうやって彼女をこの檻から出そうかと、周囲を見渡すと、メキメキッと言う音が鳴り、上を見上げると天井板がひしゃげ、今にも彼女を押しつぶそうとしていた。
考える前に体が動き、檻の間をこじ開けようと抱いたまま腕を振るう。天井と番からバキッという音と共に格子が外れ、力を込めて外側へ押しやると少女一人なら通ることが出来る隙間が開く。
ケガをさせないために氷狼の毛皮を巻いた腕を差しこみ、もう片方の腕を使って隙間を広げ手を差し伸べた。
「褒めるのは後だ! こっちへ来い!」
「っ……うん!」
嬉しそうにうなずき、へし折った檻の隙間ヘ身を滑り込ませるが、天井がさらに大きく音を立てた。
だが少女の動きは緩慢で、慎重に隙間に身を滑り込ませていくが、刻一刻と天井が歪みその自重に耐えきれなくなっていた。
このままではまずいと、突っ込んでいた腕を少女に絡ませ思い切り引き寄せる。
思っていたよりもずっと軽い少女が隙間を抜け、勢い余って俺の胸元に抱き着かれ、剣よりも軽く感じる少女に驚愕し、かろうじて荷台の縁にかけていた足を滑らせてしまう。
「あ、あぶなっ!」
全身を包んだ背後からの浮遊感に内心ヒヤッとしたが、グチャッという音とともに背中に生暖かい泥土の感触が広がる。
顔や少女を抱きかかえた手に泥が跳ね返り、目の前で檻の天井が抜け落ち、大きな音を響かせて馬車と荷台が崩れ落ちていった。
「間一髪、だったな……」
抱きかかえられた暖かな感触が静かに吐息を吐き出し、無事だったことにため息が漏れた。
自分の口から漏れ出した吐息がなんなのか理解が及ばず、自分の中で亀裂がピシっと入る。
――あん、ど……? 今の俺が、安堵を覚えた?
そんなはずがない。あるわけがない。俺は正義を捨て、私利私欲のために奴隷の少女の命を救っただけだ。
亀裂の入った心がギリギリと広げられていくような不快感が喉に押し込まれる。
俺はもう、正義を捨てた。ありえない。……そうだ、これは復讐のための道を確保できたからに決まっている。平気だ、俺はまだあの男を殺すことだけを考えられている。平気だ、俺は……。
言いようのない不快感に包まれたのは、カビ臭さすら感じる泥のせいか。それとも、矛盾した自分の行動のせいか……。
泥に背中を預けながら、自分の心と現状を理解しきれない自分に嫌気がさし、もう一度大きく息を吐きだした。
続きは週末、15~20時の間で更新予定です。多少前後するかもしれません。