幕間「檻越しの言葉は優しかった」
まわりがすごくうるさくて顔を上げる。
今はたしか……ちゅうかいする人へ渡すと言っていた"あの時と同じ人"に、たくさんの物と一緒に馬車に乗せられて、新しいご主人様のもとへ行くって聞かされてた。
だから、待ってたけどもしかして新しいご主人さまについたのかな。
ぼうっと目の前のおっきな箱を眺めてると、ガタンって地面が揺れて首がななめになる。
乗る場所を見るとそこに真っ黒な人……ううん、暗くなって見えない人が立ってて、じっと見つめてると、見たことがある人がそこに立ってて、ドキドキする。
昨日、あの大きな焚火の前でたくさん、たくさん殴られてたあの人。
すぐにもらった首輪をぎゅっと抱きしめて体を箱に擦り付ける。
この人が新しいご主人様、なのかな。だとしたら……しつれいの無いようにしないと。
でも、本当にそうか分からなくて頭を振って髪の毛で目の前を隠した。
「おい、なにをしている!」
怒鳴られた。
そう思って体がびっくりしたけど、目の前の人が勢いよく振り向いて、私が怒鳴られたんじゃないって分かった。目の前の人が振り返って檻越しにあるその人の顔がしっかりと目に入る。
私とは違う耳が短くて、夕方のお空よりも真っ赤な髪。
怒った顔でほかの人を睨んでて、いまにもかわいそうっていいそうだった。
でも……。
その人が私のことを見る。
悲しそうで、苦しそうで……まるで、私にやさしくしてくれた人みたいな顔で私を見てくれて……。
ああ、なんだか……。
なんだか、その人は、私のことを見てくれるような気がして、ドキドキがうるさくなった。
周りの雑音がすぅって無くなって、その人だけが私の世界に染まっていく。
なんでか、目の前の人の声だけがはっきりと耳に聞こえてくる。
「っ、おい! お前! 長耳のお前だ!」
すぐに私を呼んでくれてるってわかった。
だって、あの場所にも、この場所にも……。耳が長いのは私しかいない。だから、私のことを呼んでくれてるって思ったの。
「な、ぁ、に?」
のどが痛くて、大きな返事をしたけど声が出なかった。
怒ってるかな。嫌われたかな。
さっきとは別の意味で胸がドキドキしてその人を待つ。
すごく怖い顔をしたまま、私とその人の間にある木の棒の間に腕を差し込んで、手を差し出してきてくれて……ああ、この人も頭を撫でてくれるのかなって思ったの。
ぼろぼろで、土もついてて……生臭い体から流れていく真っ赤な水の匂いが私のいる場所につんと広がっていく。
そのにおいが血のにおいって知ってたから、すごく痛そうって思った。
でも、目の前の人はそんなこと知らないって顔で、なのにすごく寂しそうで……でも、私みたいに、自分のことなんてどうでもいいって感じがした。
痛いのは怖いって、私を褒めてくれた人は言ってたのに。村の人にも褒めてくれた人を可愛そうって言ったのに。
やっぱり、この人は違うんだなって思ったの。
「おい、長耳! 頼む! こっちへ来てくれ!」
優しそうな人が、私にお願いをする。
褒めてくれそうな人が私を呼んでくれた。
目の前がすごくキラキラしてて、汚れた手だったけどその手にさわりたいって思った。
でも、どうしてか分からなかった。
「ど……、して……?」
「お前は――っ」
その人も分からないみたいですごく困ってた。
変なことを聞いちゃったから優しそうな人は私を選んでくれないかもしれない。
いやだった。ずっと、ずっと探してたのに……。
すごく泥みたいに胸がぐちゃぐちゃとしてそれがいやで、息がしづらくなる。
やだ、やだやだヤダヤダやだやだやだヤダやだやだやだやだやだヤダやだやだ。見捨てないで、居なくならないで、また、私を褒めなくならないで。たくさん、たくさん頑張るから、もっということをきくからだから。
いやなきもちが頭いっぱいになって――。
その人がもっと手を伸ばしたのが見えた。
「お前が気に入った、これからは俺の物だ。お前を俺の好きに使わせろ。代わりに俺も勝手に使え」
私が聞いた答えじゃなかった。
でも、ドクンって体の奥から大きな音がして、お腹の中が熱くなって、息が苦しくなって……隠してた首輪をかくさなくてもいいって思ったの。
なんで、どうして。
ずっと分からないままだったけど、すごく気持ちが悪くない。
不思議だった。
みんな、かわいそうとか、あたらしい優しい人を見つけようとしなくて楽しくなかったのに……。
この人は、優しく褒めてくれそうな気がして、今日また来たみたいに居なくならないでいてくれるって思ったの。
この人になら、利用されてもいい。
だってたくさん頑張ったらたくさん褒めてくれるかもしれない。
ずっとずっと、褒めるために居てくれるかもしれない。
この人ならどうでもいい相手でも褒めて、頭を撫でて……いなくなっちゃった人よりもたくさん一緒にいてくれるかもしれない。
そう考えただけで、目が痛くなって体が熱くなって息が苦しくなる。
だから、聞かなきゃ。
ぎゅっとかたいご主人さまの証を握りしめて、硬い鉄の冷たさが広がっていく。
くびのあたりがぎゅっとしまって震える。聞く声もきっと震えてる。
「あなたが、新しいご主人さまですか?」
檻の間から伸ばされた硬そうな指先と必死なお顔がどんどんと近づいてくる。
ううん。違う。
私がささくれだった床を這って、手をついて立ち上がって、その人が欲しくて、たまらなくて、自分で歩いてた。
その間も、ずっとずっと私のことを見てくれている。かわいそうって言わないで、私のことを待ってくれてて。
ああ、この人は私を褒めてくれなかったあの人たちと違って私を見てくれている。
何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も頭の中で繰り返して胸が熱くなっていく。
私を連れて行ってくれたごつい人たちや、昨日私を抱こうとしたニヤニヤ笑っている気持ちの悪いおじさんとは違う、もっと、私を必要としてくれている必死なお顔。
そのお顔がどうしてそんなに悲しそうなのかはわからないけれど……。
とっても暖かくて優しいあの人にギュッと抱きしめられたみたいなあたたかさでいっぱいになったら、その人はしっかりと頷いてくれた。
「ああ、そうだ」
ああ、ようやく見つけた。
私を見てないのに見てくれる、とっておきのご主人さまが。
世界がキラキラと光って、取って綺麗に見えた。
もうこの人以外目に入らない。初めて、私の目に赤い髪の苦しそうなお顔の優しい人――ご主人さまが見えて、胸が一杯になる。
ああ、やっとまた誰かと一緒に眠れる。
今度は壊さない。
ずっと、ぎゅっと抱きしめて、新しい褒めてくれる人は絶対に……絶対に壊さないし、壊させない。
だって、この人はかわいそうって言わないで優しく褒めてくれる人だから