第8節「ボーダーライン」
あの男に復讐するため、まず最初にとりかかったのはその準備だった。
相手は卑劣で、最低で、手段を選ばない人間だ。どんな卑劣な手段を用いるかわからない以上こちらも手段を選ぶのは愚策だと判断した。
手始めに生き残るため最低限の装備を整えた。
チケル村周辺は雪こそ寒い季節にしか降らないものの、森の中で生活をするには寒さが厳しい。
幸い、この周辺に住んでいる氷狼の肉はもともと冷凍されていたに等しく虫も少ない。フォーヴ化したものは光となって世界に吸収されるため、早々に加工しなければならないのがネックだったが、撒き餌に加工すれば日持ちはした。
次に取り掛かったのは武器と防具だった。
先程殺した氷狼の牙を頭蓋から引き抜き枯れ葉や枝で漏れ出た血を拭う。牙をナイフ代わりに使い、周辺の木から手に入れた蔦で皮を、服の上から右腕に縛り付けていく。
この作業には時間をかけてしまったため、既に日は落ちかけているが、満足のいくものに仕上がっていた。
腕を持ち上げても落ちない程度に固定し大丈夫だという手応えに拳を握った。
「これで片腕は最悪捨てられる。できれば戦うためにはあと数枚欲しいが……」
時間をかければかけるほどあいつらは遠くに逃げてしまう。急いで後を追いたかったが、準備が間に合いそうにない。
急場なので、既にある氷狼の死体で別の氷狼を探すしか無いのだが……。
「……今は装備が優先だ。氷狼の居る森の奥に行くべきだろうな」
しばし考え、今は装備を整えることを優先するべきだと判断する。
今このままあの男の元へ向かえば、返り討ちにあうだろう。兵士だけでなく、あいつ自身腐っても騎士だ、準備をするに越したことはない。
氷狼が多いのはここよりも教国に近い森の中だ。寒ければ寒いほど氷のフォーヴ化した獣たちが集っている。
そのために先日、フレミアたちを案内した崖へ近づいていく。
ある程度崖に近づくと、村があったはずの森林から羽ばたく音と、氷鳥の特徴的な鳴き声が静かだった森の中に響き渡る。
襲われでもしない限り大人しい氷鳥の鳴き声を奇妙に思い空を見上げる。
日は落ちかけているとはいえ、氷狼が活発化するにはまだ早すぎる。このような時間に氷鳥の鳴き声が鳴くのは非常に珍しい。
「こんな昼間に氷鳥の鳴き声? なにかあったのか」
鳥の飛び立つ音も聞こえ、周りの音も騒がしくなっていくのを感じ、耐えられずに舌打ちをする。
慌てて森が切れている崖際を見つけ出し、崖下を見る。そこには教国に続く道に視線を落とし、たどっていくと国境の方へ向かう四角いものが視界に小さく映り込み、デジャヴュを感じる。
こちらの姿が見えないように細心の注意を払いながら移動し、崖の縁に立つと崖下の道を木製の四角い檻を荷台に乗せた馬がひいている車……。間違いない、あの時亜人の少女を乗せていたはずの馬車と、もう一つの馬車が国境へ向かっていた。
「あれは……。もしかしてあの時の馬車か? それにもう一つはコアコセリフ国の紋章の馬車……。ということは騎士隊の……それと残りは俺を裏切ったやつらの身内か」
目を丸くしているとコアコセリフ国の紋章が刻印された鎧を身にまとった兵士が数人がかりで護衛しながらこちらに向かって来るではないか。
しかも、もう片方の馬車を守る数人の兵士たちの中には見覚えのある顔があり、口が無意識で歪み、慌てて口元を手でおおった。
その馬車の前の席。御者台に座って馬に鞭を打っていたのは、俺を裏切り嘘をついていると証言したいやみ君だった。
早速復讐する相手を見つけ、慣れない歓喜を覚えていたが、何を運んでいるのかと荷物に目を向ける。
今度は前と違い、掛け布が下ろされておらず、中には見覚えのない荷物と、件の亜人の少女が乗せられているだけ。
荷物自体、あいつらにとっては大したことないはずだ。なのに、コアコセリフ国の紋章をかたどった兵士が数人居るという酷い違和感を与えられる。
「護衛の兵士が一、二……六人? ただの亜人の女の子一人を護送するにしては数が多い。何故だ……」
本来、護送任務に就く兵士は御者を含めても三人程度。それ以上は移動できる距離や荷物の量に影響するので、増やすのは得策ではない。
それをしなければならない、ということは……。
「あれほど人数が必要な人物なのか? だが、行き先は亜人を排除する国……。あの子は別の誰かに横取りされるのが困るということか?」
突飛もない考えだと切り捨てても良かったのだが、一つだけ思い当たることがあった。
フレミアはなぜ、あの少女がここを通ることを知っていたのか、だ。
仮にあの"フードの集団が亜人攫いだった"として、あの事件の黒幕がフレミアだと仮定すると、"フレミアはあの少女が馬車で運ばれていたのも知っていた"ということになる。
そしてもう一つ、疑問が浮かんだ。
どうして、あの男はあの少女を運ぼうとしているのか。
この先は亜人排除を訴える教国しかない。仮に本当に亜人攫いに届ける途中だったと仮定しても、美しいという理由で男女も亜人も関係なく手を出すと自ら口にするような男が一度失敗したぐらいで、あの少女を自分の元から切り離すだろうか。
つまり、あの男には"亜人の少女を手放さなければならない理由"がある、ということだ。
「あの男はなんて言った。美少女……亜人……魔法? そういえばあいつ、あの子の魔力を『兵器なみ』と。排除しなければならない亜人の子、それと兵器並み……使えるか?」
今の俺にはあの男を倒すための武器が必要だ。
彼女がどれほど力を持っているかは分からないが、あの男の口ぶりからしても相当恐れているようにも思える。そうでなくともそれほどの力を教国へ流そうというのだから、都合の良い情報を持っている可能性も高い。
もしそうであるのなら、あの少女をこのまま護衛させているわけにはいかない。
右腕の袖に無理やり巻き付けたかすかに冷たさの残っている氷狼の皮と決意を整える。
「あの子には悪いが、あのまま命を落とすのなら利用させてもらう。その後、国に返すなりどうとでもすればいい」
今はあの男を抑えるのが先だと、崖沿いの道を教える国方面に向かって走る。
最初にあの少女と出会った時と状況が同じなら、国境を越えればフードの男たちが再び現れる可能性もある。
あれがどんな人間かは知らないが、少なくとも荒事に慣れている連中であるのは間違いないし、今度の護衛は人数が多い。
前回よりも早く、確実な手段で止めなければ振り切られてしまうだろう。
国境が俺が馬車を止めるためのボーダーラインだ。
「今手元にあるのは氷狼の牙に肉と、腕に巻き付けた毛皮……。チッ、せめて剣があれば……いや、どっちにしても人数的に不利だ。このまま突撃しても勝率は薄いが……何かないか……」
あまり芳しくない状況で人前でしないようにしていた舌打ちが出てしまう。
戦いの基本は質よりも量だ。
仮にあの護衛に質で勝っていたとしても多勢に無勢。一人でとめようと思ったら別の要因が必要になる。
せめて岩かなにかでせめて馬だけでも止められないかと、崖際に目を滑らせていると、突然横の草木が揺れたのを感じ、さっきを感じた。
とっさに前に転がって受け身を取ると、俺が走っていた場所に向かって一匹の青白い狼――氷狼がとびかかり、ぎりぎりの場所で踏みとどまっていた。
飛び出してきた方に目を向けると、まだ数匹の氷狼が青い光を放ちながら待機していて、ゆらりゆらりとこちらに歩み寄っていた。
「なんで、この時間帯にこいつらが動いて――いや、そうか。仲間の肉の臭い……くそ、前に狩りをしてた時は遅かったくせにこういう時だけ嗅ぎつけやがって……」
邪魔な狼に怒りが沸きそうになり、名案が浮かび口元が歪む。
フォーヴ化した獣たちは知性は元の獣より薄く、復讐心よりも獲物のにおいや動くものに狙いを定めることが多い。
他の場所の氷狼はしらないが、ここの氷狼はリャーディのように動くものに反射的に飛びつく傾向があり、石を投げて別方向に誘導してやればなにも恐ろしいことなどない。
だが、今回はその習性を利用させてもらう。
今にも実行に移したい欲を抑え、葉で作った簡易ポーチに入った肉が残っていることを確認し、目だけで今の馬車の位置と崖までの距離を測る。
馬車は遅く、崖も遠くない。今から走れば馬車が崖下を通り過ぎる前に間に合うし、動くものを追いかける氷狼が走る俺を見失うこともないと確信した。
ああ、十分な条件だ。これならあの子を奪って逃げることも不可能じゃない。
「…………。はっ、ちょうどいいか。俺の邪魔をしたお前らも、フォーヴ化して思考が出来ないのはつらいだろう? どうせ放っておいても討伐される運命だ、その運命、俺の正義の為に最大限使わせてもらうぞ」
氷狼を挑発すると、あいつらにも意味が伝わったのかにわかに牙をむき出し、今にもとびかかろうと身構え始める。
ジャリッという音が耳に届いた瞬間に踵を返し、落ちる危険を頭の端に置きながらも崖沿いの白い岩場を全力で蹴り出した。
走り去った崖からカラカラと崖下に転がっていく小石の音が耳に届き、寿命が縮むような錯覚を覚えながらも、追いつかれないよう全力で崖際を走り続ける。
恐怖で委縮する肺と裏腹に心臓がヒリヒリと焦げ付き鼓動が高くなっていく。
ああ、これは何の高揚だろう。
復讐ができるという高揚か、それとも恐怖でおかしくなったか。今はどちらでもいい。
すぐに急勾配が岩の陰から突然現れ右手側に広がっている森の木に手をかけて急停止すると、ザラっとした感触が靴底から足に伝わりあたりに砂埃を上げた。
もっと先には見覚えのある道を見下ろすことの出来る崖と、きっとフレミアが駐屯地を作り上げていた場所へ続く道があるはずだ。
そこはあの夜……フードの馬車を止めた時に下りた、崖のような坂。
そうだ、恐怖をしている時間なんてない。俺はもう一度、この崖を、今度は傷口が開くように転がり落ちようとしているのだから。
背後の音がせず、振り切ってしまったかと振り返ると、枯れ木が多い森の木漏れ日の中から青白い光が見えて安堵する。
狙い通り、振り切らずにすんだようだし、もしかしたら俺を逃がさないよう本能で取り囲んでいるかもしれない。
大きく息を吸って体を重力に預け、いつでもこの急な坂道を駆け下りれるように近くの木につかまる。体を坂と同じ角度まで傾けると、斜めだった地面が水平に寄った。
やることは簡単だ。
肉のまき餌を巻きながらあの馬車の付近まで転がり落ち、馬車に助けを乞うふりをするだけ。
そうすれば動く獲物を追いかける氷狼はあの馬車を本能のままに襲撃するだろう。
あいつらが魔物相手に経験が少ないことも知っているし、この周辺の魔物に詳しくないこともすでに把握している。
腐っても騎士だ、氷狼程度では多少の時間稼ぎにしかならないだろうが、荷から剣が少女を回収できれば十分だった。
「よし……。さあ、ついてこいよ? 氷をまとった本能だけのフォーヴ。何のために俺を見つけたのかは知らないが、ここら先は俺のためにその命を賭けろ」
向かってくる狼どもに言い放ち、あのフレミアのように両手を広げ重力に身を任せた。