第7節「タダ正しく」
朝を迎えたことを知らせる氷鳥の特徴的な鳴き声がした。
なぜ、氷鳥の泣き声が……。
汚れることも厭わずに寝転がった子供の時のように、背中や太ももから冷たい土や草花、それとごろごろとした石ころの感触が広がる。
か細い吐息が喉元から漏れ出し、湿った土や木の匂いが漂い、ここが森の中なのだと主張していた。
次に感じたのは温度。もはや痛みと化した冷たさが肌を這い、震える体と唇に呼応して目を開けると、木漏れ日で目がつぶれそうになった。
「こ、こは……?」
目だけで周囲を確認する。
コアコセリフ国の中では故郷の森周辺にしか咲かない青白い花が視界の端を捕らえ、見慣れた木々の特徴的な葉の付き方で自分が故郷の森の中で寝ころんでいたと教えてくれた。
「ここは、もり? 村から遠いところのにおい……どうして、こんなところに……」
分けも分からず体を起こそうとすると、骨と骨の間の筋が突っ張った痛みが走る。痛みが体を駆け抜けると、今度は後頭部や腹部では酷くずきずきとする鈍痛に襲われ、木々の懐かしい感覚を楽しんでいる余裕と寒さを感じていた感覚が消え去った。
激しい痛みに耐えて起きると、落ちた彼木の枝や濡れた落ち葉が青々とした雑草や小石の上に散乱し、体重のかかった足跡こそ散見するが、ほとんど獣道だった。
「っそ、いてえ。なんだ、これ……俺は、どうして……」
訳も分からず立ち上がろうとすると、パサっとなにかがずれ堕ちる音が聞こえる。
そこには、簡易的な防寒布がかけられ、その下も寒空の下では心もとない服を着せられているだけだった。
「いったい、なにが……」
ズキズキと痛む頭を押さえ、朦朧としたまま考え込んでしまう。
すると、額を抑えた自分の腕に相応に強い力で殴られている傷痕を見つけ、勢いで防寒布を剥すと、その下には数えきれないほどの傷が複数ついていた。
痛みを思い出したかのように傷が主張をはじめ、徐々に何が起きたのかを思い出していく。
「フレミアが、俺に、亜人攫いの罪を着せて……それから……」
かろうじて覚えているのは、それから拷問まがいの尋問を受ける羽目になり、どれだけ真実を訴えても理解しようとする輩も居らず、出発準備を整えたフレミアたちが俺を放り出したのだ。
体が傷だらけの理由も、ここに居る理由も思い出し怒りが湧いてくる。これでも十分だが、まだ何か忘れている気がする。
たしか、あの茶番の最後。あの男が言った言葉。
父の名前、あの少女の待遇。俺をあざける言葉の数々、それに村……。
村、という単語で芋づる式に全てを思い出し、貧血でふらつく頭から皿に血の気が引いていく。
「っ! そうだ、村は……! あいつら、チケル村を……!!」
こうしてはいられない。悲鳴を上げる体に構わず、全身を無理やり引きずって、近くの木に体をこすりつけて立ち上がる。
乾燥した樹皮がボロボロと崩れ落ち、足元に散らばっていく。
急がないと。急いで、村の様子を確認しないと。
立ち上がっただけで息が上がる軟弱な体に鞭を打つ。周囲を見渡し、がさがさと音を立てる獣道を覚えている限りまっすぐ出口へと向かうと、崖が現れた時のように森の切れ間が広がっていた。
早く、早くそこまで出て森の方角を確認しないと。急いで、村に……。
はやる気持ちで歩くが、森の木々を縫うように強い風が吹き込み、傷を負った体を押しとどめようとしてくる。まるで進むなと言われている気がして、風にまで邪魔されてなるものかと歯を食いしばった。
風を押しのけながらも進み枯れた木に体重を預けると、ちょうど切れた森の先が目に入り足を止めた。
目の前には丘陵が広がりゴツゴツとした白い砂利や崖が多くなってくる地帯――この景色には見覚えがある。ちょうど、フレミアたちを案内した崖と村の中間あたりにある崖上だ。
ここならば、山のふもとにある村の無事を確かめることもできると、僥倖に感謝し村があるはずの方に目を向け――。
体重を預けていた木の葉が風にあおられ、大きな音を立てた。
「そ、んな……なんで……」
必死になって止めようとしていた山風がピタリと止まり、俺から思考する力を奪っていった。
森の奥……ちょうど、切り開かれ丘を利用した畑が広がっているはずの、方角からモクモクと煙が上がっていたのだ。
駄目だ、そんなの嘘だ。だって、だってあそこには村が……。
信じられない光景に眩暈を覚え、支えにしていた枯れ木に寄りかかる。
呼吸を忘れたかのように肺が止まり、ずるずると体が地面に近づき、抵抗する気力もわかずに地面に倒れこんでしまう。
途中、枯れ木かなにか引っかかってしまったのか、パキッと乾いた音がして腰が地面に落ちた音が聞こえたが、なにが落ちたのかを把握する気力もなく、ただ茫然と空を見上げてしまう。
手の甲に、冷たい土と葉の感触が広がり、体温と力を根こそぎ奪っていった。
どうして、なにが……。
冷静に考えればすぐに分かる。
だが、どうしても理解しようとせず、頭がズキズキと痛くなり、貧血で息をするのすら苦しくなっていく。
何も、何もできなかったのか。俺のせいで、あの村は、母さんは……リンは……。
力の入らなくなった体を回転させ、木の幹を背に空を仰ぎ見る。
正しさでは何もできなかったという無力さと、憧れた騎士の姿があれだったという虚しさが心の穴を広げていく。
頭に浮かんだのは、フレミアの事だった。
恨むのは筋違いだと、馬鹿だと叱責するギアンさんや母さんの顔が浮かび、脳裏にチリチリと火の粉が舞った
「俺は、正しかったはずだ。騎士は弱きを守らなければならない。私利私欲なら騎士なんて要らない。だから、あいつらを止めたのに……。これが、正義の結果だって……? はっ、これが俺が憧れていた騎士の所業だって? 俺がやるべきことをやった結果だと? 俺が悪、だと?」
力ない笑い声が聞こえ、すぐにそれが自分の乾いた笑いなのだと分かり、さらに滑稽に思えた。
「俺が、俺が罪人だと?」
乾いた笑いが漏れ出し、見上げた空に昇る。
正しさを示した人間を馬鹿にし、見下し、殺そうとした人間が、この国の法にのっとった大馬鹿だと、あいつは口にする。そんな人として正しくないやつらが、俺の故郷を壊し、助けるべきあの子を連れ去って、のうのうと生き残ろうとしている。
それが、正義らしい。
馬鹿馬鹿しくなり、笑いが止まらなくなった。
「ははっ、あれが、あれが正義か! 俺は……今の今まで信じていた正義に裏切られたのか? 正しいと信じて行動していたのに、馬鹿を見たのが俺だけだと?」
目の前に映る景色全てが煩わしくなり、だらりと垂らしてた腕を上げて目をおおう。
今度は耳に聞こえてきた何かが草木を分ける音すらも騒々しくなり、いつもなら抑えられる感情がぐちゃぐちゃになり、フレミアへの怒りが沸いたと思えば、救えなかったという悲しみが勝り、何も成せなかった不甲斐なさが自分の心を打ち砕いていく。ぐちゃぐちゃになった喜怒哀楽がごちゃ混ぜになって、何も表現できずに脱力感だけが体を覆っていた。
もう、すべてがどうでもいい。
なんとか胸からあふれる吐息を意識的処理をしていくそうしなければ、息を吸うことすら止めてしまいそうだった。
無力感に苛まれている耳に獣の声――この辺りを巡回していた氷狼の鳴き声だろう――が聞こえ、それがすぐ近くの草むらからこちらに狙いを定めていた。
氷狼は主に朝活動する肉食のフォーヴ化……魔力で暴走した獣だ。このまま座っていれば罪人らしく、むごたらしく食い千切られ間もなく命は無くなるだろう。
これが俺の最後…………最後、か。
体が全く動かないのに、焦ることすら出来ずにいると、今までのことを思い出してしまう。
王都でよくしてくれたギアンさんに、住む場所を提供してくれたルルルクさんにウルカさん。行き場のなかった俺に色々と喋りかけてくれたサラに、何も聞かず自分の背中を押した母親とただ慕ってくれていた妹の顔。
走馬灯、という奴だろう。まさか、本当に過去のことを思い出すなんて思わなかった。
みんなとの思い出が浮かんでは消え、虚しさとやるせなさが積み重なっていく。悲しくもないのに、涙が瞳から零れ落ちていた。
空虚になっていく心臓に思い出が剣となり、思い出のひとつ、またひとつが突き刺さっていく。
どうして俺は何もできなかったのか。どうしてこんな場所で何もできずに座り込んでしまっているのだろうかと。
まるで、突き刺さった剣が父さんの背中を刺したあの剣のようで、空虚になっていた心が怒りという剣が付き刺さり埋められていく。
次に浮かんだのは、いやみ君の吐き気のする顔。そして、醜い悪の塊であるフレミアだった。
俺を悪なんだと言い切ったあの悪党の顔をまざまざと思い出され、今にも諦めてしまいそうだった心から剣が抜け落ち、音を立てて刃先が割れた。
「あれが、国の意思……俺が仕えてきた、国の……あはっ、そうか。あはは。あは、あっはっはっは! あれが、この国の正しい姿だって? あはっ! あれが! あの醜い化け物が国を壊している現状が!!」
だらりと落ちた腕に力がこもり、拳を握り地面を叩きつけ、力の限り叫ぶ。
「違う!!!! 父さんの信じた正義が!! 国の信念たる正義が道に散らばっている糞にも劣る自分の欲望のはけ口であるわけがない!! 人間程度が!! 自分の欲を優先してる程度人間の恥知らずが!!」
この際、すべてを奪われた俺のことなど、もうどうでもいい。
罪をかぶせたことも、傷つけられたことも、故郷を奪われたことも――今の俺にとって重要なのは、正義を語る悪を葬り去り、誰も傷つけないようにすること。
俺を傷つけるだけなら好きなだけすると良い。腕がちぎれようと、足がはね飛ぼうと俺はしょせん村の英雄である父さんに守られてここまで生き延びただけの人間で、正義を全うすることしかできない人間だ。
俺を悪だと罵り、放り投げた男のように、俺も正義を全うすることしかできない。
ああ、そうだ。
あんな吐き出された反吐にも劣る不燃物に正しい正義があるのなら、その不燃物を好きなように潰すことも正義であってしかるべきだ。
本来であれば正しく機能していたはずの正義を、守るつもりもない輩が利用し壊しているというのに、周りの人間は見て見ぬふりをしていただけではなくまるで気が付いてない人間までも存在していた。
いち兵士でしか無い俺を罠にはめて国の悪として捨て置こうとした大罪人たち。
いいや、俺だけじゃない。
俺の故郷――チケル村の優しかった人達、俺を送り出してくれた母さんと妹を殺しただけでは飽き足らず、村に火を放っている。
あいつらが生きている世界を許していいはずがない。
苛立ちをぶつける先が見つからず、傷んでいたはずの自分の太ももに何度も何度も拳を打ち付ける。じんじんとした痛みを感じるはずのももには一切の痛みがせず、ただただ苛立ちを募らせる道具になっていてそれが余計に腹立たしくなっていく。
「フレミアああああああ!! あのクソ野郎!! 自分の罪を隠すためだけに他人を殺すだと! ふざけるなよ!! 俺は正義の為にお前を殺す! この指で貴様の肉という肉を引きちぎって、道端へ馬の糞と共に捨ててやる! お前に関係した全てをなかったことにして死者の神プロムシライにすら会えないようにしてやる!!」
許されるはずがない。
誰にも肯定されなくてもいい。俺が鬼だと誤解されたとしてもかまわない。あれを潰して世界が少しでも良い方向へ進むのであれば、俺は喜んでフレミアが語る正義とやらになってやる。
俺は正義だ。
いや、俺も正義だ。
国や民、人を蔑ろにして自分に都合よく正義を利用する男が、正しい正義であってはならない。
あらん限りの力を使って叫び続け、拳で太ももを殴り続けてようやく痛みが許容量を超えたのか、ずきずきとした鈍痛と血が足りなくなったもやが脳にかかり、眩暈で体とめられ、前につんのめった。
吐き気しかしないのに、胃の中の物がもうなく、出てくるのはかすれた声と唾液と混ざった胃液だけ。
それでも我慢ならず、拳を地面にたたきつけると、耳に唸り声が近づいてくる気配を感じた。目を向けると、空よりも青い色を毛皮に宿した氷狼がとびかかろうと牙をむき出しにしていた。
俺を殺すのか。ただ人を救おうとしただけで罪人に仕立て上げられた俺を。
ああ、こいつも俺の邪魔をする敵だ。
正義を邪魔をしようとするそれが、俺を貶めたフレミアとダブって見えて、煮えくり返っていた臓物に怒りを流し込まれた。
心臓から抜け落ち先の砕け散った剣をあの男の顔に突き立てるため、背で追ってしまった枯れ枝をひっつかみ肩が外れるような勢いで振り上げ叫んだ。
「俺の正義の邪魔をするなあああああああ!!」
生物であるというにもかかわらず、一瞬の躊躇をすることもなくとびかかってきた邪魔者に枝を突き立てる。
笑っていた邪魔者から粘性の液体が噴き出し、情けない泣き声が聞こえる。心地いいとすら思える怯える声と血を噴き出したそれが頬と枝を握っていた手の指先から腕に流れて地面に滴った。
荒い息を整えながら襲ってきた相手を見ると、首の根元から喉元から突き抜けた枝を通して赤色の生物の血が流れだし、びくびくと動いていた氷狼はその枝が致命傷だったのか青く光っていた毛皮から光が失われ徐々に世界へ溶けだしていった。
周りを見るが単独で縄張りを巡回していたのか他の氷狼の姿はない。
俺の姿に恐れをなしたのか、命を取ったのかはわからないが……。とにかく運が良かった……としか言えない。
だが、その幸運はまるで、俺に自分の正義を完遂しろと言っているかのように感じた。
「そうだ。俺は生きている。間違っているのはあいつだ。俺はあいつを許すわけにはいかない」
自分の為に命を奪った手の感触が枝から伝わり、邪魔になったソレを放り投げた。
あの男と同じことをしたが、罪悪感も何もない。これは間違いなく正しいことだ。
自分勝手な理由で得も無く殺すことに抵抗を覚えるかと思っていたのだが……。
「無益な殺生をして何も感じない。今は、あいつを殺すことが最優先か」
溶けていく光を横目に立ちあがり、眼下に続いている白い岩の山肌と森を見下ろす。指先から自分の中の良心とともに氷狼の血が滴り落ちるのをただ見守った。
「ああ……こんな簡単なことに気が付かなかったなんて……」
滴り落ちていく血。
それがフレミアの血だったらと想像して笑いが漏れる。
自分の身だけを考える悪が無様に助けを乞いながら死ぬ姿を想像して、自分の中にある憎悪が満足していく。
心が打ち震えるほどのその感情は歓喜だった。
復讐が喜びとなった俺はあの男の言う通りもう正義ではないのかもしれない。
だが……。
自分の中に芽生える感情を自嘲気味に笑い飛ばし、腕を振り自分の体に血が付いてしまう前に腕についてしまっていた血を振り落とす。
「忘れてくれるなよ、フレミア。正義を全うできればよかった俺に復讐する意味を与えたのはお前だ。相応の返礼をさせてもらう。父さんが教えてくれた俺の正義が、間違ってないこと証明させてもらう」
国を裏切り父の名を知るあの男をこの世界から追放する。それが俺がしなければいけない最低限の正義で、最初で最後の悪だ。
丘陵の道を見下ろしながら、俺は静かに胸の中の怒りを拳の中に閉じ込めた。