第5節「不穏な気配」
どれほど眠ったのだろうか。
寒さで震える体と遠い場所で蝶番がすれる――ドアのような何かが開かれる音で目が覚めた。
木の板を置いただけの湿った硬い土の地面の感触を肩と腰で感じ、痛む体を起こすと肩まで被っていた毛布がズレ落ち腰元までパサリと落ちる。
毛布で温まった体が急に冷やされ、体がブルっと震える。体を動かしながら周囲を見回すと、同じテントに眠っている連中が雑魚寝で高いびきをかいていた。
「んっ……。んぉ、えっと今は……」
目を擦るとうすぼんやりと駐屯地中の焚火の明かりが黄色いテントの中に漏れ込んでいて薄明薄暮性でこの辺りでよく飛んでいる魔獣、氷鳥が夜に出す特徴的な声と小さな虫の綺麗な鳴き声で今が夜中だと教えてくれる。
そうだ、あの亜人の少女の馬車をここまで牽引して……そのまま撤収準備もしながら交代で寝てたんだったか……。
だが、さっき聞いた蝶番の音は何なのだろうか。俺たちが寝ているのは布製のテントで蝶番なんてものはない。
不思議に思っていると地面の砂利が規則的なのに、不規則な音が鳴っていてだれかが外を歩いているようだった。
「物音に足音? 外か? でも、こんな夜にいったい誰が……」
兵士としては不審な物音を見過ごせない。
毛布から体を抜き取り雑魚寝している兵士たちの隙間を通り抜け、風よけの入口の布を腕でよける。
いまだ燃え続けている中央の焚火が目に入り、その前を数人の人影と付き従う小さな影が見えた。
ざわざわとした嫌な予感がし、目を凝らし続けていると焚火のおかげでその人影がフレミア殿の私兵と亜人の少女を照らし、心臓が大きく音を立てる。
「あれは……檻の中にいた亜人の女の子? どうしてフレミア殿の兵士が連れ出して……」
口に出しても状況は変わらない。
いやな気持ちの悪さが肌に付きまとい、汗が額から流れ落ちる。拭った右手に汗が張り付き、檻の位置から彼女たちの行き先を把握して息が詰まる。
なぜなら、行き先は――。
彼らの行く先であろう場所を視界に入れる。その先にはフレミア殿の一番大きなテントか、例の崖に向かうための防衛拠点の切れ目しかない。
いやな予感はほぼ確信に変わり、動揺させられる。
また、あの騎士は俺の思い描く騎士とは正反対の行動をとろうというのだろうか。いや、まだフレミア殿が事情を聞くためにあの子を連れ出した可能性だってある。俺の勘違いで迷惑をかけるわけには――。
このまま見なかった事にしようとした矢先、まるで何かに導かれるように少女の頭が動き、俺がいるテントの方に目が向く。
焚火に照らされ、闇夜のような長い髪の毛の間から、虚ろになってこちらを見る少女の瞳に精神を蝕まれた。
耳に届いていた森林のざわめきがしなくなり、揺れ動いていた迷いがピタリと止まる。ドクンと寝ている兵士にまで聞こえそうな心臓が鼓動を打った。
北の寒さで冷え切っていた体が恥辱で熱を持ち始め、俺は何を考えているのかと自分への怒りを覚える。
弱きを守る騎士を目指している俺が、なにを迷っていたのだろうか。
目の前で俺を見た亜人の少女を見殺しにして、俺は自分の立場だけを守ろうとしていたのか。
怒りと恥ずかしさが体中を駆け巡り、握った拳に力がこもる。
そんなの、俺が目指していた正義の騎士の姿ではない。騎士になると誓い、あの村を飛び出したのは俺自身だ。
正義を曲げて騎士になってしまったら、それはもう俺が村を跳び出してでもなろうとした騎士ではない。
「……せめて何をするか聞かないと。まだ彼らが危うい行動に出ると決まったわけじゃない。ただ疑うだけで証拠がなければ正義は俺じゃない」
腕にのせていたテントの布を振り払い、誰かが起きてしまうのも構わずにテントの外に出る。
外気が頬に触れ、冷たさを通り越した痛みが指先を襲った。
指がかじかんでしまわないように注意を払いながら、目の前を歩いていく兵士たちに距離を開けてついて行く。
兵士たちは俺に気が付くことなく亜人の少女を連れ、見張りが立つフレミア殿のテントに入り込んでいった。
後に続こうとすると、当然だが見張りの兵士に止められてしまうが、これは想定内だった。冷静に敬礼を返して、相手の言葉を待った。
「待て、ここはフレミア様のテントだ。騎士とは言え、相手は身分が上のお方。いち兵士であるお前がフレミア殿の就寝時間に何用だ」
「ギアン隊のリヴェリクと申します。フレミア殿に聞かなければいけないことがあってここに」
「ギアン隊? ……ああ、王国のチテシワモ地区の王直属詰所の隊か。事情は聞いたがだれも入れるなと――まて、リヴェリクと言ったか?」
「はい」
「……そうか、お前が。ならば、ここで待て、フレミア殿へ聞きに行く」
「分かりました」
思っていたよりもすんなりと話が通り、眉を寄せて見張りの背中を追う。
何か言い渡されていたのだろうか、まるで俺が来たら通せと言われていたかのような反応だった。
とにかく、多少予想外ではあったが、フレミア殿に取り合ってはもらえるようだ。
そのまま兵士を目で追い続けていると、テントの奥にある仕切り布の奥に消えていく。さらに奥に設置された明かりのおかげで、仕切りの奥に数人の人影と小さい人影が見えた。
気が気でないが、今大立ち回りをするわけにはいかない。
大人しく待っていると兵士たち――先ほど少女を連れた兵士も含めて――が戻って来ると、俺の脇を通り抜け、先ほど応対してくれた兵士だけが入り口で立ち止まった。
「喜べ。フレミア殿にリヴェリクという兵士なら通せとおっしゃられている」
「ご苦労様です」
礼を言いながら見張りの兵士の横を通り抜ける。
テントの中に足を踏み入れると、香でも焚いているのか、甘ったるい匂いが鼻孔を通り頭の奥が熱を持ったように刺激される。
甘い……思考能力を奪われてしまいそうな香りで、思わず顔をそむけたくなるほど強い臭いだった。
慣れない臭いに鼻をおおい先へ進んでいくと、人影が写る仕切りの前まで歩いたところで「ああ、来たか」と声があがる。
「やあ、リヴェリク君。こんな夜にどうかしたのかい」
腕を外して姿勢を正すと仕切りの奥からフレミア殿が着心地の良さそうなローブ姿……それこそ貴族が着るような寝間着で現れた。
――遠征先に豪華なローブか。旅行先の貴族を見ているようだ。
今日何度目かの引っ掛かりを覚えながらも、敬礼で礼儀は尽くした。
「夜分遅くに失礼いたします。お聞きしたいことがあったのですが……。その前にもう一つ質問をよろしいでしょうか」
「良い。申してみろ。君は今宵の英雄様だ。聞かなければ文句を言われてしまう。誰にとは言わんがね」
「ありがとうございます。では僭越ながら……。フレミア殿は今なにをしていらっしゃったのでしょうか」
「何を? おいおい、見てわからないかね」
フレミア殿は呆れたように笑うと――ボロボロの衣服を身にまとった亜人の少女の細い片腕を引っ張り寄せ、眉が寄りそうになるのを必死に抑え込んだ。
乱暴に引っ張られ多少せき込んだものの、フレミア殿にされるがまま……。まるでそうしろと言われているかのように動かなかった。
「その子は……。今日助けた亜人の子ですね」
「ああ、その通り、君が助け出した荷物だ。この通り従順で躾も良い。本来なら顔さえよければ人間でも男でも構わないんだが、亜人は別格でね」
「……と、言いますと」
「亜人は不思議と顔立ちも整っているというのが多いのだ。その中でもこの少女ほど上等な物は早々見れる物じゃあない」
「上等な"物"ですか」
「その通りだとも! まさか奴隷というだけで頭ごなしに批判する派閥でもあるまい?」
「ええ、それはまあ。我が国での"奴隷"が別の意味を含んでいるのは承知しています。特に亜人種が多く住むチテシワモ地区の担当ですので」
遠回しな言い方をした答えには満足したのか、フレミア殿は腰を落とすと隣に引っ張った少女の頬をぐっとつかむ。
柔らかそうな少女の肌にフレミア殿のやけに整った無骨な指が頬に沈み込み、ゆっくりと時間をかけて頬から空気を取り込んでいた口元に触れる。
フレミア殿の指が骨の凹凸を撫で、指先で潰せてしまいそうな細い喉元に下がりそのまま徐々に下へ滑らせていく。
わざわざ見せつけるように動いて見せる行為に吐き気を抑え、冷静になるために静かに深呼吸をする。しかし、漂っていた甘ったるい空気が肺を通り、粘性の液体がのどにへばりつき、余計に不快さを増すだけだった。
――これが騎士? 俺の憧れていた、正義を成すための王国の剣の行い? こんなのが?
漂っていた空気が肌の表面をなぞっていく幻覚に襲われる。嫌らしく肌を伝うソレが不快感をさらに増し、表情を保てている自信を喪失させていく。
頭を振って足元を見ると、いつの間にか姿勢を崩していて、額に手を当てると、熱を持った額から手に熱が伝わっていく。
「ふむ……。リヴェリク君の質問はなにをしていたか、だったね」
「っ、……はい、フレミア殿」
「その答えは実に簡単だ。君もこれは美しい物だと思うだろう?」
「否定は、しません」
あからさまにフレミア殿の言葉に彼女が人ではなく物品であるという意味合いが込められていた。
違う。"物"ではない。彼女は"人"だ。
今にも言葉が出てしまいそうだったが、必死で耐えた。そんな俺に気が付かないかのようにフレミア殿は少女から手を離し腕を広げる。
「こんなに綺麗なものをタダで放り出すのはもったいない! 命を助けてやったのだ、それくらいはしたところで罰は当たるまい!」
「それはつまり、今、彼女を助けたこの場で、あなたが物と呼ぶその亜人の少女を使う、ということでしょうか」
「その通りだ。口にするまでもあるまいに……。もしや君はそういった経験はないのかい?」
「……あまり重要な質問には思えませんが」
少々無礼になったかもしれないが、首を横に振ってこたえた。
なにを察したのかのようにうなずかれ、飲み込むことの出来ない気持ち悪さが喉の奥につっかえていく。
「ああ……ああ、なるほど。それでか! それならなおさらだ!」
「いったい何のお話ですか」
「いやはや、すまないこちらも気が付かなかった。英雄である君に何の褒美もなくこの場を収めてしまえば、君の欲は収まらない。そうだね?」
「欲、ですか。意味が分かりかねます、フレミア殿」
「なに、ごまかす必要はない。どうだね、君もこの子を使うというのは。自分をあの連中から救った英雄様だ。コレも悪い気はしないだろう。なあ?」
フレミア殿……いや、フレミアはニヤニヤと笑いながら少女に問いかけるが彼女は「はい」と生気のない瞳で答えた。
俺にとって、弱きを守る騎士という職業は何にも勝る誉れ高い物だ。それを、目の前の騎士という名の俗物は自分の欲というくだらない物のために汚し続けている。
もう、限界だった。