第4節「ラプールの少女」
あれから数日――。
俺は最初に案内した崖の上で、夜の哨戒任務に当たっていた。
余りの寒さに体を震わせながら、はあっと息を吐くと、白い吐息がランタンに照らされ空に上がる。
慣れた寒さだが、王都で長く過ごしていたせいか、寒さが防寒具の隙間を縫って肌を突き刺してくるようだった。
手袋の中で指を細かく動かし、ざらざらとした内側を撫で続けると凍った指先がかすかに温まり、末端の冷えを多少緩和させていく。多少いうことを聞くようになった腕で、魔獣の毛皮製の防寒帽を風が当たらないように深くかぶりなおす。
背後に鉄の小さな蓋が横開きするタイプの油ランタンこそあるが、暖を取るんはあまりにも小さく、崖下の明かりを見逃さないために蓋を開けて手をかざすわけにもいかないので、押し寄せてくる寒さは気合で耐えるしかない。
夜ということもあって見張りの時間は短い……はずなのだが、横にいるはずのもう一人の兵士との会話もなく、どれほど時間が経っているのか、感覚があやふやになってしまっていた。
「さ、寒いな……」
やっと声を上げてくれた隣を見る。そこには毛皮がふんだんに使われた鉄鎧と防寒帽を身にまとった壮年の兵士――フレミア殿の騎士隊の先輩――が寒さに震え、自分の体を抱え込んでさすっていた。
俺よりも年上だが、今は哨戒任務中。声を出すのはあまり感心できないが、この寒さの中では仕方ないかもしれない。
「あなたはこの辺は初めてですか?」
崖下には聞こえないだろう程度の声を出すと、話かけられるとは思っていなかったのか「え?」と驚きの声が上がり、戸惑ったように「あ、ああ」と返事をしてくれる。
「初めてだ……私は元々王都で生まれ王都で育ったんだ。王都は珍しく雪が積もる地域ではないから、さすがに応えるよ」
「王都生まれですか。それならこの寒さはたしかにつらいでしょう。そろそろ交代をなされては?」
「はは、申し出はありがたいが、そう言うわけにはいかない。フレミア殿は時間きっかりまで居ろとの仰せだ」
「ははっ、なら仕方ないですね」
「仕方ない。そうだ、なら慣れている君に聞きたい。こう言うとき、君はどうしてる?」
「こういう時は、こうやって……って言っても見えないですね。えっと、手袋と靴の中で指先だけ動かしてます。こうやって指先を温めるだけで、体全体が冷えるのを防げますから。あとは、出来るだけ風の当たらない場所を選んだりとか」
「風、か。ここは山風が吹き降ろしてくるからな」
「ええ、見張りには最適ですが、あまり長居する場所じゃないかと」
「なるほどな……」
気を紛らわせる程度の短い雑談だったが、会話がそこで終わってしまい、彼は空を見上げてしまう。
こうやって黙ってしまう人であるのなら、話を続けるべきでない。そう思い、任務に集中しようとすると「君は……」と話を続けられる。
「君はどうしてこの仕事を? 今時、魔獣やフォーヴの討伐なんて人間の仕事でもない」
「…………」
「聞いてはいけない事だったか」
「え? ああ、すいません。それを聞かれたのは初めてだったもので」
「初めて? 君は若いが、兵士詰所にいるのだろう?」
「ええ、でも、初めて聞かれました。同僚は皆、やる気がない人間が多いので。どちらかと言えば嫌味ばかりでしたから」
「ふん、同情するよ。若い連中はどうにも礼儀がなってなくてな」
年齢と経験を重ねた重みだと、つい苦笑してしまう。
彼の言う通り、今時討伐を請け負うことになる兵士はまともな人間のする仕事ではない。魔獣やフォーヴは魔力を持っていないただの人間にとって危険極まりない相手だからだ。
ましてや、この国は亜人を受け入れつつある国。俺たちのように武力を使う仕事は身体的に秀でている亜人たちが多くをこなすことになるだろう。
手をすり合わせながらだれも通らない道を見下ろし続けた。
この仕事をしている理由、か。
ひとつ……きっかけかどうかは分からないが原動力の一つになった出来事はある。
ため込んでいた吐息を手袋に吹きかける。
返って来た温かい生きに包まれ、あの時……父さんの血が頬を伝っていった感触をじんわりと思い出してしまった。
「……俺は騎士に憧れを持っています」
「騎士? ってことは、騎士隊や近衛騎士隊に憧れてこんな仕事を、このご時世に?」
「ええ、こんなご時世に。俺はチケル村――この街道の近くに村があって、俺はそこで生まれ育ちました」
「フレミア殿からそう聞いている。だから周辺の案内を任されたとも」
「ええ。その村が昔、賊に襲われたことがあったんです。父さんと男衆は村を守るために戦ってくれたおかげで、こうして無事に生き残ることが出来ました」
もっと、言える事はあっただろうか。
思い出そうと、手袋越しにため込んでいた息を吐くと温かい吐息が顔で跳ね返り、目の前に白い霧があがって意識を邪魔されてしまう。
不思議と靄が濃く見えて仕方がなかった。
黙ってしまっていると、気を利かせてくれたのか「それで」と話を続けてくれる。
「なぜ、それが騎士に憧れるきっかけに? 守られるのが嫌だったのか?」
「いえ、むしろ逆です」
「逆、というと」
「強くなりたかった、は否定できません。ですが、守りたいと思えたから、騎士を目指しました」
「……続きを聞いても?」
「はい。騎士に憧れたのは父が騎士だったから、かと。ちょうど任務から帰郷してきたところでして……。俺が騎士に憧れたのは、父さんが俺を守ってくれたから……なんじゃないかと」
「ほう、さぞ偉大な父だったであろう。彼は今も騎士を?」
「いえ、その時の賊にやられました。俺を守ろうとした父さんは賊に剣を突き立てられたのは。今でも父さんの背中から飛び出た剣をはっきりと覚えています」
「…………。それはいつ頃の出来事か?」
「たしか……十年ほど昔、だったかと」
「十年前、チケル村……っ! そうか。いや、君はそれがきっかけで騎士になろうと?」
「? え、ええ、たぶんそうだと思います。少なくともきっかけは」
「今は違う、と?」
「父さんが死ぬ前から、俺は父さんのある言葉を好いていました。"弱きものを守ることこそが正義である"。それがずっと頭に残ってて……正義を貫き通す――騎士になって弱きを守る。それこそが俺の正義だと信じています……ははっ、勝手な思い込みですが」
「そう、か。それが君の正義……。いや、失敬。気軽に悪いことを聞いてしまった」
「ん、貴方が謝るようなことは何もないと思いますが……」
「いやなんだ……その……色々と、だ。……それと、これは年上の戯言だと思って聞いてほしい」
「なんですか?」
「俺は君みたいに波乱万丈な人生を生きてきたわけではない」
「いや、俺なんかは……」
「いいから、聞け。俺は普通に王都で生まれ、普通に愛する人に出会い、普通の生活を送って来た。他人からすれば起伏の無い、幸せすぎる人生だと断言できる。だが、そんな俺でも守らなきゃいけない物はあって……。ああいや、だから……」
「? 大丈夫ですか?」
先ほどから発言のところどころが詰まったり、息をのんだりしているのが気になり、心配になってしまう。
息で白く染まり、どんな顔をしているかまではわからなかったが……。どこか、哀しそうな気がした。
「いや、悪い。もし……もしの話だ。これから先、君自身になにがあったとしても、君の信念を曲げずに生きてほしい、と思ってな」
「どうしたんですか突然。それになにがあってもって、そんな今すぐ死ぬのが決まってるんじゃないですから……」
「……いや、そうだな。気にしないでくれ、今の俺から言えるのはそれだけなんだ」
「は、はあ。どういうことかは分かりませんが……分かりました。でも、大丈夫だと思いますよ。ここには騎士様もいるし、命にかかわることなんて数十年に一度起こればいい方です。でしょう?」
「ああ、そうだな……」
伏し目がちにそうつぶやくと、見張りに集中するためか、彼はすっかり黙り込んでしまった。
さすがにもう話す気はないのだろうとあたりをつけ、任務である崖下の道沿いに目を凝らすことに集中し、違和感に気が付いた。
暗い……それこそ光が届かない森の中。なんとなくだが、森の中で何かが動いているような気配を感じ、森がざわつき始めていた。