過去、犯した罪。
今でも昨日の事のように覚えている。
もともと人好きしない性格の間宮とは違い、寺島はその端麗な容姿も相まって明るく、笑顔の似合う太陽のような、まさに名を体現したような男だった。
最初にサークルで顔を合わせた時、間宮は自分とは正反対な寺島は絶対に相慣れないものだと思っていた。
しかし寺島は、間宮の美しく、無駄のない登攀に惚れ込んだと積極的に話しかけてくるようになった。
初めは嫌悪していた間宮も、次第に心を開き、気づけば「シマ」「ミヤ」なんて呼び合う、唯一無二の相棒までになっていた。
事件が起きたのは大学を卒業して三年後の事だった。
霊峰エベレスト。
間宮は寺島と共に世界の最高峰に望んでいた。
二人でザイルを組み、間宮がリーダーとなって登攀していた(普通は、二人以上の組で登る。最初に登る人を、後から登る人が、ロープを使って下から確保する。たとえば、登り初めから 5m 登って、 そこで落ちた場合、リーダーは、崖の下まで落ちる代わりに、確保者 との距離の 2倍、つまり 10m 落ちるだけで済むという原理)
驕っていた。自分なら、自分たちならイケるだろうという根拠のない自信。その油断が命取りになる事も忘れて。
間宮がアイゼンで岩壁の出っ張りに足をかけた瞬間、ガリッと音を立ててアイゼンの爪は岩壁の氷を削り、足はズルリと宙を蹴った。
足場を失くした間宮は体勢を大きく崩す。
不味いと思った時にはもはや手遅れだった。
「ミヤ!!」
遠くの方で寺島の叫ぶ声が聞こえた。
風の唸る音と内臓が浮き上がったような感覚を覚えた次の瞬間には身体に大きな衝撃が走った。
そこからどう下山したのかは覚えていない。
近くを通った登山隊が助けを呼んでくれたらしかったが、頭を打ったせいか意識が朦朧としていた。
次に目が覚めたのは病院だった。
頭や足、腕には包帯が巻かれ、動かすと激痛が走る。
折れているのだと直感した。
次に寺島のことを思い出し、サッと血の気が引いた。
自分は生きている。ではシマは?唯一無二の相棒は。あの後どうなったのか。
痛む体をどうにか動かして自分の寝ているベッドのカーテンと隣のベッドのカーテンを剥ぎ取るように開ける。
―その時の間宮には隣が別人だったら、という心配は頭から抜け落ちていた。ただただ、寺島の安否だけが脳内を駆け巡っていた―
寺島は隣にいた。
その端麗な顔に真っ白な包帯を携え、他人よりも明るい焦げ茶の瞳は瞼の裏に閉じ込められていた。
生きていたという安堵と共に、この怪我は自分が負わせてしまったのだと察した。自分はやってしまったのだと。他人を、よりにもよって唯一無二の相棒を。
寺島は間宮の滑落に巻き込まれたのだ、と。
寺島はいつもと変わらぬ眩しい笑顔で
「これは俺の実力不足が招いた事だ。山を登るのも、怪我をするのも俺の自己責任だ。お前が気にする必要はない」
と言った。
寺島は一度たりとも間宮を責め立てなかった。
それでも間宮は自分が許せなかった。
慢心を抱えたまま山に登ってしまったこと。
それで相棒に怪我を負わせたこと。
そして何より、自分が山に登ればまた誰かを、相棒を傷つけてしまうかもしれないのが恐ろしくて堪らなかった。
「シマ。俺はもう山には登らない」
そういった時、寺島は一瞬ポカンとして瞠目したが、揶揄うようにニヤリと笑った。
「なんだ。まだ気にしてるのか?言ったろ、あれはお前のせいじゃないって」
「違う。違うんだ」
否。嘘をついた。
寺島の言葉は全くの図星だった。
恐ろしかったのだ。相棒を傷つけるのが。
「こんな危険な事はもうごめんだ。山なんかに命を賭けるのはな」
「馬鹿言うなよ。お前が辞めたら俺は誰とザイルを組めば良い?第一、山に魅せられたお前が山を諦められるわけがない」
それも図星だった。間宮は大怪我を負っても変わらず山が好きだった。そして、寺島が自分以外とザイルを組むのも納得がいかなかった。
それでも間宮は拒否を続けた。
「俺より優れた登山家など山ほど居る。ザイルパートナーなら他をいくらでも探せば良い。お前なら誰とでも合うだろう」
「俺は、ザイルを組むならお前じゃないとダメなんだよミヤ。他の誰と組んでも、お前と比較しちまう。それこそごめんだ」
嬉しかった。自分だけではなく、寺島もそう思ってくれていたことが。
怪我をさせてしまうのが怖いのだと、そう言ってくれて嬉しいと、素直に伝えられたらどれほど良いか。
だが、生来の性格が災いしてどちらとも言葉にはできなかった。
「それでもだ。俺は登らない。もう決めたことだ。相棒を捨てた裏切り者だと罵ってくれても良い。兎に角、俺はもう山とは無関係だ」
そう言って、両足に包帯を巻き、車椅子に座った寺島を置いて、間宮は一人、松葉杖を突きながら退院した。
「お前は必ず、山に戻ってくる。必ずな。だから俺はお前を待つぞ、ミヤ。何年かかってもな。だから会いに来いよ。約束だ。」
去り際に寺島が投げかけた言葉は、間宮の脳内に深く刻み込まれた。
一方的な約束だ。間宮には果たす気など無かった。そもそもこちらは了承などしていないのだから義理もない。だがしかし、その約束は間宮の頭をついて離れなかった。
七年も行動を共にした相棒だ。おそらく己の本心にも気がついていたのだろうと後になってから漠然と思った。
結局、間宮はその約束を果たすためにもう一度山に登ることになった。