前編
※血の繋がりはありませんが、近親間での恋愛表現があります。
苦手な方は回避推奨。
「イザベル姉様! これから兄様と湖に行くのですが、姉様も一緒に行きませんか?」
部屋に飛び込んできた少女は、頬を薔薇色に染めて私に笑いかける。
波打つ金色の髪と目尻の下がったエメラルドの瞳。小柄で華奢な体つきは庇護欲を掻き立てる。人形のように端整な顔立ちをしているが、生き生きとした表情や愛くるしい仕草のお蔭で冷たい印象は受けない。
今年十四歳になる妹、カトリーヌは家族だけでなく、たくさんの人間から愛されている。
――私と違って。
「それは素敵ね」
読みかけだった本に栞を挟んで閉じ、顔をあげる。
傍まで駆け寄ってきた妹に向き合い、微笑む。申し訳なさを込めて、少し困ったような表情を作った。
「でも、ごめんなさい。少し気分が優れないの」
「えっ、姉様、大丈夫ですか!?」
妹は驚きに目を瞠った後、気遣うように私を覗き込む。白く小さな手が、私の手を掬いあげた。
「なら私も、湖に行くのは止めておきます。具合の悪い姉様を放ってはおけないわ」
心優しい妹がそう言い出すのは予想していたが、それでは困る。
妹が傍にいるのは別にいい。私にとっても可愛い妹だし、この子の話を聞いているのはとても楽しいから。でも。
「兄様が寂しがるわ」
目に入れても痛くないと言わんばかりに妹を溺愛している兄が、納得するとは思えない。表面上は了承するだろうけど、後で嫌味言われたら堪ったものではないし。
「兄様も分かってくださいます」
うーん。
なんと言ったらいいものか。この子の前では妹想いの出来た兄の顔をしているし、真相を告げても信じてもらえる気がしない。
ノエル・フォン・オードラン。
現在十九歳。両親を事故で失い襲爵した、若き伯爵。そして私とカトリーヌの兄でもある。
とはいえ、実は私と兄に血の繋がりはない。
兄様の父親は早くに妻を亡くし、同じく若くして未亡人となっていた私の母と結婚した。つまりどっちも連れ子。
私の三歳下のカトリーヌだけが、両親の血を継いでいる事になる。
二人が再婚した時は私も小さかったから覚えておらず、それを知ったのは今から二年前。事故で亡くなった両親の葬儀の時だ。
いらぬ事を吹き込む親戚というのは、何処にでもいるらしい。
でも正直、教えてもらえて良かった。
幼い頃は仲が良かった兄様が、突然私を避けるようになった理由がこれで分かったから。
私と兄様は赤の他人。
対するカトリーヌは、半分だけとはいえ血の繋がりがあり、愛する両親の残した大事な妹。
格差が生まれるのも致し方ない。そう納得出来た。
それからは私の方も、兄様には極力近寄らない。
同じ空間にいる必要がある時はカトリーヌに同席してもらうようにして、話を振られたら、そのままカトリーヌに丸投げした。
そうしたら驚くほど、接点がなくなった。
元々、私と兄様の繋がりは、私が必死に追いすがっていたからこそ保たれていた。脆く細い糸のようなものだ。私の方から手を離したら終わり。同じ屋敷に住んでいるのに、面白いくらい会わない。
領地にある別荘に揃ってやってきて早一週間経つが、兄様の姿を見た回数は片手で足りる。
そして私は今後も、出来る限りその数を増やしたくない。
今日も二人で湖に行ってくれるなら、万々歳。自由に屋敷内を散策できるのはとても魅力的だ。
「大丈夫よ、カトリーヌ。大したことはないの」
「でも……」
「その……恥ずかしいのだけれど、実は昨日、本を読んでいて夜更かししてしまったの」
内緒よ、と付け加えながら言うと、カトリーヌは「まぁ」と驚いた。小鳥の囀りのように愛らしい声で、ころころと笑う。
「貴方達が出かけたら、お昼寝でもするつもり。でも兄様にそんな事が知られたら、だらしないと怒られてしまうでしょう? だから……」
「分かりましたわ。私が口煩い兄様を連れ出しますね」
胸を張ってみせるカトリーヌの可愛らしさに、思わず笑みがこぼれる。
そんな風に姉妹で内緒話をしていると、扉が鳴った。
「カトリーヌ。ここにいると聞いたが」
扉を開けて入ってきたのは、渦中の人物。
鼻や口の形はカトリーヌに似ているが、冷えた青の双眸と表情の無さのせいで、人形めいた印象を受けた。癖のない銀色の髪は項の辺りで括られ、背中へと流してある。
避暑の目的で別荘へ来ているのに、きっちりとベストを着こみ、首元のクラヴァットも乱れがない。見ている方が暑いと言いたいけれど、本人の表情が涼しげだからか、彼の周りだけ数度温度が下がっている錯覚すら覚える。
「ノエル兄様」
「湖へ行くのだろう? 支度は済んだのか」
駆け寄って来たカトリーヌへ向ける表情は、普段より少しだけ柔らかい。
そして相変わらず、私の姿は見えていないような反応をする。
はいはい、どうせ可愛くない方の妹には話しかける価値もないとか思っているんでしょうよ。
心の中でやさぐれながら、そっぽを向く。
「はい。残念ながら姉様は具合が悪いので、一緒に行けないそうです」
カトリーヌの言葉に、ノエル兄様の眉がぴくりと跳ねる。
彼の視線がこちらへと向いた。
「……体調が悪いのか」
おっと。物凄く久しぶりに声をかけられた。
確か、二か月ぶりくらいだと思う。
愛しい妹の前で、具合の悪い女を無視するのは流石に出来なかったらしい。
「少し眩暈がするだけですので、休んでいれば治りますわ。どうかお気になさらず」
にっこりと笑って、さっさと出ていけと言外に告げる。
言葉にしなかった部分はちゃんと伝わったらしく、兄様の眉間に深い皺が刻まれた。
「お前は、」
「イザベルの事はオレが見ておこう」
きつめの調子で何かを言おうとした兄様の声は、別の声に遮られる。
扉の方を向いていた私の背後から聞こえたのは、耳馴染みのあるもので。振り返ると、開いた窓の枠に頬杖を突いて、室内を覗き込んでいる人と目が合った。
「叔父様!」
カトリーヌの呼びかけに、手をひらひらと振って応えるのは、私達の叔父であるテオドール・フォン・オードラン。
亡くなった父様の年の離れた弟で、現在二十七歳。
短く切り揃えた銀の髪と切れ長な蒼い瞳は兄様と似ているが、それ以外は正反対。細身の兄様とは違い、体つきは逞しく大柄。肌は浅黒く、大小様々な傷がついている。性格は明るく豪胆。太陽のような人で、面倒見も良い。人望も厚く、若くして王立騎士団の副団長に任命された。
騎士団の仕事も忙しいだろうに、現在は、実務経験の少ない兄様を助け、伯爵家当主の仕事を半分請け負ってくれている。
「お行儀が悪うございますよ」
何故いつも、普通に玄関から入ってこられないのか。
呆れを隠しもせずにじとりと睨むと、叔父様は降参と示すように両手を挙げる。
「お前達の声が聞こえたから、つい」
悪びれずに屈託なく笑う叔父様に、毒気を抜かれた。
ひょいと窓枠を乗り越えて部屋の中に入ってきたのを見て小言が口から出かかったが、言っても無駄だと長年の経験で理解しているので、溜息を吐くに留める。
「それで、今日はどうなさったのです?」
「久しぶりに休暇を貰ってお前達を訪ねたら、避暑に出ていると言われてな。そのまま追いかけてきた」
「何故……。せっかくのお休みなのですから、ご自分のしたい事をすれば宜しいではありませんか」
多忙な叔父様は、自分の時間というものが殆どない。それは私達のせいでもあるので、正直、申し訳なく思っている。
本来なら叔父様は、とっくに結婚してもいい年齢だ。
実際、叔父様に好意を持つ女性は多い。見目良し、性格良し。王立騎士団の副団長という地位もあり、且つ、将来の昇進も約束されたようなものだと聞いている。次男とはいえ由緒正しい伯爵家の出で、浮いた噂もない。これほどの好物件は、王都広しといえど中々ないだろう。
それなのに叔父様は、私達兄妹を心配しているのか、未だ独り身のまま。
「したい事をしているから、ここにいるんだが」
ソファーに座る私の横に、叔父様はどかりと腰を下ろした。
膝に頬杖を突いて、私の方を向く。
「イザベルの顔が見たかったんだ」
「!」
普段のお日様のように溌剌とした笑顔ではなく、男の色気が滲む顔で、にんまりと口角を吊り上げる。
耐性のない私は、かっと顔が熱くなるのが分かった。
からわかれていると分かっていても、平常心を保てない。
叔父様は自分のお顔が素晴らしく良い事を、もうちょっと理解してほしいと思う。血の繋がりは一切ないとはいえ、姪っ子にそんな顔をするものではない。
「叔父様ったら酷いわ。私と兄様はどうでもいいとおっしゃるの?」
カトリーヌは頬を軽く膨らませた。しかし芝居がかった口調と浮かんでいる苦笑いから、本気で気分を害していないのは明白だ。
恥ずかしさに何も言えなくなっている私を助ける為の軽口だろう。
「もちろん、お前達にも会いたかったよ」
いつもの調子に戻った叔父様は、からりと笑う。
「重みが全くないわ」
「気のせいだ。それよりも、お前達は湖に行くんだろう? イザベルにはオレがついているから、行ってくるといい。早くしないと日が暮れるぞ」
叔父様に促され、カトリーヌは呆れつつも兄様を見上げた。
「では、参りますか? 兄様」
今までずっと黙り込んでいた兄様は、問いかけたカトリーヌではなく、何故か叔父様を見る。その視線は鋭く、睨んでいると言っても過言でない。
しかし、対する叔父様はどこ吹く風。
微塵も気圧された様子はなく、飄々としていた。
暫し視線を交わしていたが、先に逸らしたのは兄様の方だった。
低く舌打ちしてから、ふいと顔を背ける。
「……今日は止めておこう。風が冷たくなってきた」
「えっ」
小さな声を洩らしたのは、カトリーヌではなく私だった。
行かないの?
夕暮れまで時間は大分あるし、夏なんだから多少風が涼しくても問題ないのに。ていうか、私の心の健康の為に出かけてほしい。
心情は駄々洩れだったのか、兄様は冷えた目で私を一瞥する。
「不満そうだな」
「…………いいえ」
そんな事、あるけども。
「そんなにも叔父上と二人きりになりたいか」
視線と同じく、低く冷たい声で詰るように言う。
しかし私は意味が分からず、首を傾げるばかりだ。
確かに叔父様の傍にいるのは苦痛ではない。話題が豊富で飽きないし、一緒にいると楽しい。何より、兄様と違ってカトリーヌと私を比べたりしないから、安心して傍にいられる。
でも、お顔が好み過ぎて落ち着かなくもある。
逞しい体躯や優しい性格も、私の好みのど真ん中。
『叔父様』なのだと自分に言い聞かせる事で、なんとか踏み止まれてはいるが、たまにふらふらっと境界を越えてしまいそうになるので、要注意だ。
だが、兄様が聞きたいのはそんな事ではないだろう。
カトリーヌだけでなく、叔父様が私の傍にいるのも気に食わないの?
私が一人でいれば、それで満足なのか。
「兄様が叔父様に御用があるのでしたら、別に邪魔したりしませんわ」
もうなんでもいいから、まとめて出ていけ。
そんな気持ちを込めて睨み付けると、兄様はぐっと唇を噛む。少しの間を空けてから、何か言いたげに唇が数度開閉したが、結局は何も言葉は出てこなかった。
無言のまま背を向け、部屋を出て行く。心配になったらしいカトリーヌが、その後を追いかける。
「……なんだったの」
「お前は気にしなくていい事だ」
詰めていた息を吐き出すと、叔父様の大きな手が頭に乗る。ぽんぽん、と優しい手で宥めるように数度叩いた。